太田述正コラム#13276(2023.1.31)
<大谷栄一『日蓮主義とはなんだったのか』を読む(その7)>(2023.4.28公開)

「・・・日露戦争の勝利によって不平等条約が撤廃され、他の帝国主義諸国と対等な立場を獲得した日本は、明治維新以来の国家的独立の達成とそのための富国強兵という国家目標を喪失する。

⇒少なくとも倒幕・明治維新を実行した人々の上澄みの抱いていたところの、私が指摘してきた目的、に照らせば、彼等及び彼等の子供達に関しては、そんなことがありえなかったことは明白です。
 もとより、それ以外の人々の少なからざる部分が大谷の言うような喪失感を抱いた可能性は否定できませんが、大谷は、そのことを裏付ける具体的根拠を示すべきでした。(太田)

 その結果、それまで国家目標に支えられた人びとの価値・規範意識が低下し、日本社会に急速な社会的アノミー(規範解体)が到来した。
 人びとのあいだで社会不安が瀰漫し、青年層には一種の神経症的緊張が広がった。

⇒これについても、具体的根拠が示されていません。(太田)

 個人主義や自然主義が大都市に住む知識人や青年を捉え、社会主義運動が台頭する。
 こうした背景のもと、都市と農村で危機的な状況が生起し、社会秩序が不安定化する。・・・
 政府は国内の危機的な状況を解消し、帝国主義的な国際体制に対応していくため、国家体制(農村社会)の再編を試みる。
 そのための具体的な政策が、地方改良運動<(注23)>だった。

 (注23)「日露戦争後,多大の戦費による財政破綻の立直しと,社会矛盾の激化,講和への不満などで動揺した民心を,国家主義で統合することを目ざして内務省主導で進められた官製運動。桂太郎内閣の内務大臣平田東助,内務次官一木喜徳郎らにより推進され,1909年以降全国の町村吏員を集めて各地で開催された地方改良事業講習会にちなんで,地方改良運動と呼ばれた。平田ら国家官僚は,日露戦争勝利後の日本は欧米列強に伍して経済戦を戦わねばならず,したがってそれに耐えうる国内体制の整備・強化を早急に実現することが戦後の課題であると規定した。」
https://kotobank.jp/word/%E5%9C%B0%E6%96%B9%E6%94%B9%E8%89%AF%E9%81%8B%E5%8B%95-1184922

⇒平田東助(とうすけ)は「山縣有朋の側近として知られる」人物であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%94%B0%E6%9D%B1%E5%8A%A9
山縣の意向を汲んで地方改良運動を企画・推進した、と、私は見ています。
 また、その目的は、「注23」が指摘している通りあって、大谷が主張しているような、社会病理の治癒を図る、消極的なものではなかったとも。(太田)

 第一次西園寺公望内閣(明治39年1月~41年7月)のもとではじまり、第二次桂太郎内閣(明治41年7月~44年8月)のときに体系的におこなわれた。
 具体的には町村自治の強化、農事改良や納税奨励、町村財政の改善、神社整理・合祀政策、義務教育の徹底、青年会・在郷軍人会・報徳会・産業組合などの諸団体の結成と育成、風俗改良や勤倹貯蓄等の生活改善といった諸政策が実施された。
 その際、国家と町村を媒介したのが町村長、小学校長、教員、神職、僧侶などの中間支配層であり、桂内閣ではこれらの人びとを集めて、地方改良事業講習会を開き、諸政策の系統的な講習をおこなっている。
 この地方改良運動と車の両輪のように実施されたのが、感化救済事業講習会である。
 「感化教育」とは日露戦争以降から大正前半期にかけて実施された一連の社会事業のことを意味する。
 政府は仏教教団に感化救済事業への参加を求め、仏教教団もそれに応えた。
 また、・・・明治41年(1908)10月13日<には>戊申詔書<(注24)が>渙発<され>た。・・・

 (注24)「1908年(戊申の年)10月13日の詔書。・・・教育勅語とともに明治期渙発された国民教化の二大詔勅である。そこでは,戦勝の余栄にひたり華美に流れる風潮が戒められ,国家の政策に従い国民が共同一致,勤倹力行して国富の増強に邁進すべきことが強調された。。第2次桂太郎内閣の内相平田東助の要請によるものという。」
https://kotobank.jp/word/%E6%88%8A%E7%94%B3%E8%A9%94%E6%9B%B8-133106

 その内容は、日露戦後の社会的・経済的・思想的「混乱」を是正し、「一等国民」としての心構えを説こうとしたものである。・・・
 <更に、>家族国家観<(注25)>にもとづく国体論が・・・明治43年(1910)から・・・教育現場にもちこまれたのである。・・・

 (注25)「家父長制的秩序意識の残存と,国民の大部分が長期間単一民族であったことを反映して,明治末期には,皇室=国民の宗家,天皇=国民の父,国民=天皇の赤子という家族国家観が成立した(家族制度)。そこでは君への忠と親への孝が一致するという日本道徳論が展開された。」
https://kotobank.jp/word/%E5%AE%B6%E6%97%8F%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E8%A6%B3-1290065
 「日本の民法旧規定では,戸主権(家族の居所指定権と婚姻同意権など)と長子相続制を内実とした家制度が規定されており,旧意識,封建性の残存に大きな役割を果たした。」
https://kotobank.jp/word/%E5%AE%B6%E6%97%8F%E5%88%B6%E5%BA%A6-44844

⇒日本の民法旧規定は、私見では、江戸時代までに事実上武士以外にも普及するに至っていたところの武士の家族制を全国民に対し、法的に強制することによって、徴兵制の導入もこれあり、士族の武士意識の減衰を食い止めると共に、平民に武士意識を抱かせようとしたものであり、対欧米上、秀吉流日蓮主義による直截的な国民教化を行うことが憚られたことから、その代用物として、家族国家観が創出され、それによる国民教化が行われるに至った、と、私は考えています。(太田)

 高等小学校第三学年用修身書で、「わが国は家族制度を基礎とし国を挙げて一大家族を成すものにして、皇室は我等の宗家なり。我等国民は子の父母に対する敬愛の情を以て万世一系の皇位を崇敬す」と記載されている。
 さらに「祖先」が教材として教科書に採用され、家族国家観を打ち出した修身教科書のキーコンセプトのひとつとして位置づけられた。・・・
 なお、国体神話の普及は地方改良運動を通じても徹底された。
 たとえば、有泉貞夫<(注26)>は富山県中新川郡早月加積村(なかにいかわぐんはやつきかづみむら)(現・滑川(なめりかわ)市)の例を通じて、ムラの祭典が町村の公的な行事に変化していくようすを紹介している。

 (注26)1932~2022年。「山梨県西八代郡市川大門町(現:市川三郷町)に生まれる。生家の市川有泉家は江戸後期に巨摩郡東南湖村出身(南アルプス市東南湖)の初代・久紀(市右衛門)を祖とする。酒造業を営み、父の直松は市川大門町長・政友会系の県議会議員。祖父は市川大門村初代村長で漢詩人の有泉米松(蘆堂)。兄の亨は県議会議員。・・・<京大文卒、同大院博士課程単位取得退学、国立国会図書館勤務、東京商船大助教授、教授、名誉教授、山梨学院大教授、>・・・1983年『星亨』でサントリー学芸賞受賞、1985年「明治政治史の基礎過程-地方政治状況史論」で文学博士(京都大学)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E6%B3%89%E8%B2%9E%E5%A4%AB

 有泉によれば、伝統的なハレの日(町村の祭日)が国家祝祭日(紀元節、天長節、神嘗祭、新嘗祭)に代わったほか、町村社祭典に村役場や小学校が関与することが一般化し、教員の引率による神社の参拝、戊申詔書の奉読、神前での村治概況報告、国政村治功労者の表彰などがおこなわれたという。
 こうして地域社会が再編成され、教育現場で家族国家観が説かれることで、天皇崇拝や国体観念を基軸とした国体神話(と一体化したナショナリズム)の信憑構造が形成されていった。
 すなわち、日露戦後の政府のイデオロギー政策の中心には国体神話の信憑性の推進があったのである。」(180~184)

(続く)