太田述正コラム#13278(2023.2.1)
<大谷栄一『日蓮主義とはなんだったのか』を読む(その8)>(2023.4.29公開)

 「・・・<このような>アノミー状況を打開するための新しい思想・宗教・社会運動が起こり、書物が刊行されたと筒井は指摘し、清沢満之<(注27)>の『精神界』(明治34年)、綱島梁川<(注28)>(りょうせん)の「見神の実験」、西田天香<(注29)>(てんこう)の一燈園(いつとうえん)(明治38年)、蓮沼門三<(注30)>(もんぞう)の修養団(明治39年)、田澤義鋪<(注31)>(よしはる)の青年団運動(明治43年)、野間清治<(注32)>の講談社設立(明治44年)を挙げ<られ>る。

 (注27)まんし(1963~1903年)。「尾張藩士・・・の子<。>・・・1878年2月、得度して真宗大谷派の僧侶となり、東本願寺育英教校に入学した。当時は非常に活発で走ったり相撲をしたりしている。その留学生として東京大学予備門に補欠募集があるのを知り、僅かの準備期間でトップで入学した。1887年に東京大学文学部哲学科を首席で卒業。・・・愛知県碧南市の西方寺の副住職にて死去。・・・
 歎異抄<の>・・・「善人なおもて往生をとく、いわんや、悪人をや」<を>・・・「一度如来の慈光に接してみれば(中略)一切が愛好すべきもの、尊敬すべきものであって、この世の事事物物が光りを放つようになる。・・・此に至ると、道徳を守るもよい、知識を求むるもよい、政治に関係するもよい、商売するもよい、漁猟をするもよい、国に事ある時は銃を肩にして戦争に出かけるもよい・・・」などと<解した。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B2%A2%E6%BA%80%E4%B9%8B
 「<明治33>年、・・・本郷森川町の学寮を・・・「浩々堂」と名付けて門人達と共同生活を始める(明治35年東片町に移転)。明治33年、浩々堂門人と雑誌『精神界』を創刊。毎週日曜には講話を開く。この時期を発端とする浩々堂の活動は、「精神主義」として多方面に影響を与えるものとなった。」
https://www.bun.kyoto-u.ac.jp/japanese_philosophy/jp-kiyozawa_guidance/
 (注28)1873~1907年。「明治23年に・・・洗礼を受ける。明治25年(1892年)に東京専門学校(後の早稲田大学)に入学する。坪内逍遥、大西祝の教えを受ける。逍遥の『早稲田文学』の編輯に加わり、文藝・美術評論を書く。・・・倫理学者としても活動した。・・・綱島は禅宗や浄土真宗などからも学んだが、最後までキリスト教信仰に立っていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%B1%E5%B3%B6%E6%A2%81%E5%B7%9D
 (注29)1872~1968年。「大正2年(1913年)、・・・京都鹿ヶ谷桜谷町に「一燈園」を支援者の喜捨により開設。思想家・綱島梁川の『一燈録』から命名した。そして一燈園には、和辻哲郎・徳富蘆花・安部能成・谷口雅春・倉田百三らも参座するようになる。
 大正6年(1917年)、同園での体験を元にした倉田百三の『出家とその弟子』がベストセラーとなり、そして「親鸞のモデルは西田天香さんである」と語り、西田天香の名前が知られるようになった。・・・
 天香30歳時に、それまでも度々提唱を聴かれていた南禅寺の豊田毒湛に相見し、参禅することが許された。その後、・・・河野霧海に<も>・・・鉄鎚を受けた。・・・
 天香は建仁寺の竹田黙雷老師の許へも熱心に通われ提唱を聴き、相見を許され、教えを受けておられる。また京都八幡の円福寺にもよく通われ見性宗般老師の提唱を聴き、相見を許され教えを受けられた。・・・宗般老師から嗣法した山本玄峰老師<についても同じ。>
 天香は、自分よりずっとお若い山田無文老師との間も、肝胆相照らし、有無相通じておられるお二人であった。山田無文老師も、・・・十年の間、毎月一回、一燈園を訪れて「維摩経」の講話を続けられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E7%94%B0%E5%A4%A9%E9%A6%99
 (注30)1882~1980年。「小学校尋常科準教員を経た後の1903年(明治36年)、東京府師範学校(現・東京学芸大学)に入学し、寄宿舎に入る。在学中の1906年2月11日、仲間と共に、学校教育への問題提起を目的とする修養団を創立<。>・・・明治末に同団の経済的援助者として渋沢栄一や森村市左衛門が顧問に就任し、学生のサークル的な活動から始まった修養団は社会教育団体として社会的な信用を高めていった。1921年からは渋沢が設立した協調会の労務者講習会の運営を担った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%93%AE%E6%B2%BC%E9%96%80%E4%B8%89
 「修養団・・・第2代団長である平沼騏一郎は在任中に枢密院議長に就任し、また後には内閣総理大臣に就任して(昭和14年)、自らの国政運営の指針として修養団の精神である「総親和、総努力」を挙げた。・・・
 松下幸之助は修養団の精神に感銘し、顧問を務めた(昭和51年(1976年)~平成元年(1989年))。また、安岡正篤も同様に蓮沼門三の考えに共感し、顧問を務めている(昭和45年(1970年)~昭和59年(1984年))。 ・・・
 そのほか、土光敏夫、安岡正篤などもバックアップしてきた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%AE%E9%A4%8A%E5%9B%A3
 (注31)1885~1944年。五高、東大法、内務省入省。「1915年(大正4年)、明治天皇と昭憲皇太后を祀る明治神宮の創建が決まると、内務省明治神宮造営局総務課長に異動。全国から青年団員を集め、彼らの勤労奉仕で明治神宮を造営することを提案し実行に移した。現在の明治神宮や外苑の木々(いわゆる「神宮の杜」)は造営時に全国の青年団員が持ち寄ったものであることは知られているが、これは田澤のアイデアによるものである。全国から集った青年団のこの活動は、田澤の主唱の下、1925年(大正14年)の大日本連合青年団結成および日本青年館建設へとつながっていく。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%BE%A4%E7%BE%A9%E9%8B%AA
 (注32)1878~1938年。「1900年群馬県立師範学校を卒業,2年間小学校の教師をしてから,東京大学臨時教員養成所に入学。 04年に卒業して,沖縄県に行き,中学教師と視学をつとめた。07年上京して東京大学法学部の事務官となり,法学部の緑会弁論部での弁論を出版する目的で,09年大日本雄弁会を創立。翌年最初の雑誌『雄弁』を創刊。11年講談社を創立<。>・・・
 〈万人のための百万雑誌〉という望みを託し,〈日本一おもしろい,日本一為になる,日本一安い雑誌〉をモットーとした。」
https://kotobank.jp/word/%E9%87%8E%E9%96%93%E6%B8%85%E6%B2%BB-112459

 そして「修養」を直接・間接に目的とするこれらの思想・運動が青年層の支持を得た・・・。
 ・・・これらのリストに高山樗牛、内村鑑三、海老名弾正、近角常観<(注33)>らの名前や活動も加えること<が>できるだろう。・・・」(185~186)

 (注33)ちかずみじょうかん(1870~1941年)。「真宗大谷派・・・の住職・・・の長男<。>・・・東本願寺の留学生として上京する。共立学校を経て、第一高等学校に学ぶ。・・・東京帝国大学(1897年に帝国大学より改称)を卒業<。>・・・1904年(明治37年)2月1日、『求道』(求道発行所)を創刊する(1922年(大正11年)5月10日発行の第18巻第1号まで)。
 1915年(大正4年)11月30日、求道会館が完成する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A7%92%E5%B8%B8%E8%A6%B3

⇒清沢満之(浄土真宗)、綱島梁川(キリスト教)、蓮沼門三(神道系?)、田澤義鋪(神道系)、野間清治(神道系?)、高山樗牛(日蓮宗?)、海老名弾正(キリスト教)、近角常観(浄土真宗)、といったところであるところ、野間をこの文脈で登場させることが妥当なのかどうかはさておき、これらの営み相互間(例えば、キリスト教v.非キリスト教、の間)で論戦や衝突が起きなかったのが不思議と言えば不思議です。
 なお、浄土真宗と言っても、大谷派ばかりで、本願寺派の姿が見えないのも興味深いところです。
 私は、本願寺派は、浄土真宗の宗教ないし社会運動としての復活などおよそ不可能である、と達観していたからだ、と、想像しています。(太田)

(続く)