太田述正コラム#13280(2023.2.2)
<大谷栄一『日蓮主義とはなんだったのか』を読む(その9)>(2023.4.30公開)

 「・・・日蓮主義はこうした教養主義や修養主義の広まりのなかで支持者を獲得していくことになる。・・・
 最勝閣<(「注13」)>には、詩人の田辺松坡や北原白秋(妻が会員だった)、政治家の近衛文麿、駐日イギリス大使のチャールズ・エリオット、フランスの詩人で神秘思想家のポール・リシャール<(注34)>など、数多くの著名人が来訪した。

 (注34)Paul Richard(1874~1967年)。
https://www.maizuru-ct.ac.jp/wp-content/uploads/2020/02/20191029082200691.pdf ☆
 「<当時、>『日本の児等に』と題する詩<の中で、>・・・かつて他国に隷属せざりし世界の唯一の民!一切の世の隷属の民のために起つのは汝の任なり 新しき科学と旧き智慧と、ヨーロッパの思想とアジアの精神とを自己の内に統一せる唯一の民!これら二つの世界、来るべき世のこれら両部を統合するのは汝の任なり 建国以来、一系の天皇、永遠にわたる一人の天皇を奉戴せる唯一の民!汝は地上の万国に向って、人は皆一天の子にして、天を永遠の君主とする一個の帝国を建設すべきことを教へんが為に生れたり・・・と、格調高く日本人を激励した。・・・
 昭和35年、86歳の彼は、「神の子の自覚をもった世界唯一の日本が、その自覚を示した明治の憲法を改めて、神を無視し人間を動物視したものにしたことは残念の極みである」という趣旨の演説を、ロサンゼルスで行った。」
http://www.kokuchukai.or.jp/about/hitobito/paulrichard.html

⇒来日後、リシャールは、大川周明と深い交流があったようであり、彼はもともと日本にはさほど関心がなかった(☆)ということから、大川の影響を強く受け、アジア主義的言辞を吐くようになったと思われます。
 とまれ、リシャールは、欧米人なるが故に日本でもてはやされ、そのおかげで、日本だけではその名が知られるようになった幸運な人物だった、と言うべきでしょうね。(太田)

 本多日生も・・・訪れている。
 また、血盟団事件の井上日召も大正14年(1925)年頭に開催された講習会に参加するために来閣している(しかし、失望して後にした)。
 姉崎正治も、たびたび最勝閣を訪問した。
 明治43年(1910)7~8月に開催された本化仏教夏期講習会に講師として招かれ、「印度仏教史」を講じた。
 以後も4回にわたり、講習会に出講している。
 姉崎<は>帰国直後の明治36年(1903)7月2日、大阪立正閣に智学を訪ねてきた<のだ>・・・。
 同年10月に姉崎は樗牛の記念事業をおこなうための樗牛会を設立する(智学は評議員に名前を連ねた)。
 また、樗牛の遺稿の整理を勧め、明治37年(1904)から翌々年にかけて斎藤信策(樗牛の実弟)との共編で『樗牛全集』全5巻(博文館)を刊行する。
 この作業がきっかけとなって、姉崎は樗牛の日蓮関係の著作や日蓮遺文を読みはじめたことで、日蓮に本格的な関心をもつようになる。
 その後、日露戦争を経て、姉崎は日蓮信仰へといっそう傾倒してゆく。・・・
 ただし、姉崎の信仰は「折伏主義とは一線を画しており、智学らのような意味では日蓮主義と呼びうるものではない。むしろ、日蓮という宗教的人格に深く帰依しているという点で、「日蓮信仰」と名づけるのが適当と言えよう」との指摘<がある。>・・・
 <さて、1910年の>大逆事件や<1911年の>南北正閏問題によって、天皇や国体が社会問題化した。
 また、政府によって国体神話の普及も図られたわけだが、その一方で、国体神話は当時の人びとにとってそれほどリアリティをもつものでなかったことが、次の智学の嘆きからも明らかである。
 此頃は「国体」とさへ言へば、いわゆる現代的なる人たちはフフンと鼻であしらう様子だが、なぜ日本人はこういうものが解らなくなッたのであらう。・・・
 なお、大正教養主義の担い手のひとり、倉田百三<(注35)>の『出家とその弟子』<(注36)>(岩波書店、1917年)を筆頭に、大正後期(とくに大正11年[1922]に数多くの「親鸞もの」の小説が刊行され、「空前の親鸞ブーム」が派生する。

 (注35)1891~1943年。一高中退。「広島県立三次中学校(現広島県立三次高等学校)入学、卒業。母方の叔母シズが嫁していた三次町の宗藤襄次郎家に寄寓、ここから通学した。宗藤家は浄土真宗の熱心な信徒であり、この地方の真宗在家集団の有力者でもあった。 百三はシズの強い影響を受けて『歎異抄』を繰り返し読み、これに惹かれていった。・・・1915年(大正4年)・・・11月、京都の西田天香の教えに共感し、一燈園に妹の艶子と共に入り、二人で生活をしながら深い信仰生活を送る。・・・武者小路実篤が・・・起こした新しい村に賛同し協力<。>・・・1916年(大正5年)・・・3月、鹿ヶ谷に一軒家を借り、・・・キリスト教徒の・・・晴子<と>・・・共棲を始めた。・・・10月、千家元麿や犬養健らによって創刊された同人誌『生命の川』に尾崎喜八、高橋元吉らと同人となり、『出家とその弟子』は、同年11月から翌年4月にかけて第四幕第一場までが掲載された。・・・1917年(大正6年)3月、晴子との間に長男の倉田地三が誕生。百三は・・・『出家とその弟子』を書き上げる。・・・
 1933年(昭和8年)、この頃より親鸞研究を通して日本主義に傾き、日本主義団体の国民協会結成に携わり、機関紙の編集長となる。吉川英治らと東北地方の農村を巡り講演を行う。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%89%E7%94%B0%E7%99%BE%E4%B8%89
(注36)「失恋と病、第一高等学校退学などの挫折を経験し、姉二人や祖母の相次ぐ死を受けて執筆された倉田百三の代表作である。学生時代に薫陶を受けた西田幾多郎の哲学や、闘病中に救いをもとめたキリスト教や仏教、さらに一時期身を寄せた一燈園での経験などが投影されている。・・・『歎異鈔』に代表される親鸞の思想を下敷きとした仏教文学の一つとされるが、「祈り」などキリスト教的な要素も見られる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E5%AE%B6%E3%81%A8%E3%81%9D%E3%81%AE%E5%BC%9F%E5%AD%90

 大正期にはまず、日蓮(日蓮主義)の流行が起こり、親鸞の流行がそれに続いたのである。」(190~192、207、232)

⇒私は、浄土真宗の(現在は東西に分かれている)本願寺派を、信長や秀吉に武力抵抗を行ったことを含め、全く評価していません(コラム#省略)が、そもそも、かかる「堕落」の原因は、(結果的に)宗祖(となった)親鸞が創唱したところの、脱戒律にして他力一辺倒の反仏教的教義にある、と考えており(コラム#省略)、そんな親鸞にキリスト教の衣を纏わせて持ち上げた倉田を軽蔑しますし、そんな倉田の小説に入れあげた当時の人々にはご愁傷様という気持ちです。
 もとより、当時、日本の内外において、時代は轟音を上げつつ加速度的に進行していて、多くの日本人が翻弄され不安に苛まれていたことがその背景にあったと思われ、同情は禁じ得ませんが・・。(太田)

(続く)