太田述正コラム#13286(2023.2.5)
<大谷栄一『日蓮主義とはなんだったのか』を読む(その12)>(2023.5.3公開)

 「・・・諡号宣下を経て、国柱会は法国冥合のための本格的な政治参加を企図した。
 大正11年(1922)の年末、・・・国柱会は、三保最勝閣で越年講習会を開催する(12月30日~1月3日)。
 その最終日・・・智学は政治への進出を宣言する<(注40)>。・・・

 (注40)「田中智學は1903年(明治36年)、日蓮を中心にして「日本國はまさしく宇内を靈的に統一すべき天職を有す」という意味の「八紘一宇」を『日本書紀』巻第三神武天皇即位前紀にある「上則答乾霊授国之徳、下則弘皇孫養正之心。然後、兼六合以開都、掩八紘而為宇、不亦可乎」(上は則ち乾霊の国を授けたまいし徳に答え、下は則ち皇孫の正を養うの心を弘め、然る後、六合を兼ねて以て都を開き、八紘を掩いて宇と為さん事、亦可からずや)から造語し、「国立戒壇」の建立を訴えた。「養正」の語もこの条から取られており、「養正の恢弘」という文化的行動が日本国民の使命であると訴えた。・・・
 立憲養正會<は、>・・・1923年(大正12年)11月3日、日蓮信者で国体主義を標榜する田中智學によって創設された社会運動組織であり、在家仏教組織である国柱会・・・の姉妹団体である。
 1929年(昭和4年)、智學の次男、田中澤二が総裁となると、政治団体色を強め、各種選挙に候補を擁立(田中は前年の第16回衆議院議員総選挙に東京1区から無所属で出馬し、落選していた)。衆議院の多数を制し、天皇の大命を拝し、合法的に「国体主義の政治を興立」することを目標とした。最盛期の会員数は約30万人(1936年。1938年には公称130万を号した)。1936年の第19回総選挙では公認候補7名を擁立した。結果は全員落選となり振るわなかったが、同年長野4区から立候補した田中耕が繰り上げ当選し、帝国議会に初めて議席を得た。1937年の第20回総選挙では田中耕が再選。また地方議会や農会には最盛期で100人を超す議員が所属するなど一定の政治勢力となった。しかし同会の党是である日蓮主義や国体主義は当時近衛文麿らによって主導されていた新体制運動とは思想的に相容れず、1940年(昭和15年)に大政翼賛会が結成されてもこれに加わらなかった。新体制運動や大政翼賛会に対する批判を続けたため、ついに1942年3月17日に結社不許可処分を受け、解散に追い込まれた。これによって田中耕は無所属となった。日蓮主義を政治に実現しようとすることは、田中総裁を絶対視することであり、軍部などが主張する国体を無視する思想であると見なされたためである。1942年の翼賛選挙には前職の田中耕を始め元会員37人が無所属で立候補したが、全員落選した。
 第二次世界大戦敗北後、1946年3月7日に再建。田中澤二は公職追放されたが、1947年の第23回総選挙で、福島3区より齋藤晃が当選し1議席を獲得。戦前、戦後の両方で議席を獲得した経験のある唯一の党派である。日本国憲法施行後の1949年の第24回総選挙でも、北海道1区で浦口鉄男が当選して1議席を獲得。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E6%86%B2%E9%A4%8A%E6%AD%A3%E6%9C%83

 この日の午後8時から懇親会が催された。
 ・・・信行員・石原莞爾陸軍大尉は、会衆総代として謝辞を朗読している。
 参加者が講習会の感想を述べあう場では、石原は・・・智学によって「立正内閣」が組織されたら、自分が陸軍大臣を拝命すると宣言している。・・・

⇒いくら戦前とはいえ、陸軍大臣でもない現役の尉官たる軍人がこんな政治的発言をしてはダメでしょう。(太田)

石原は、<その後のベルリン留学中に起きた、大正12年(1923)9月1日の>関東大震災を大地が震裂して、無数の菩薩(地涌<(じゆ)>の菩薩)が地面からき出てくる『法華経』従地涌出品に示されたできごととして捉え、上行菩薩<(じょうぎょうぼさつ)>がふたたび世界に出現する予兆として感得したのである。
 すなわち、石原は智学の「日本による世界統一」の終末論的なヴィジョンに見られる地湧の菩薩(上行菩薩)の再臨、本門戒壇の建立、世界の大戦争の到来を実感したのである。
 ここで注目すべきは、世界統一のための戒壇<(注41)>建立後の世界戦争が20~30年後に迫っているという・・・終末論的な切迫感・・・である。・・・

 (注41)国立戒壇。「仏教系新宗教の在家団体である立正安国会(後の国柱会)の創立者田中智學が、『宗門之維新』(1897年(明治30年)発表、1901年(明治34年)刊行)において最初に使用した用語である。
 大日本帝国時代の法華宗各派においては、天皇帰依の実現こそ広宣流布実現の近道という当時の一般的な状勢判断と結びついて、広汎な支持を受けた。」(戦後の日蓮正宗及びその信徒団体のそれについては省略する。)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E7%AB%8B%E6%88%92%E5%A3%87

 戒壇の願主、再臨する上行菩薩<(注42)>・・・<かつまた、『観心本尊抄』の摂折現行段「当に知るべし此の四菩薩折伏を現ずる時は賢王を誡責し摂受を行ずる時は僧と成て正法を弘持す」で示された「賢王」・・・<として>想定されていた<のは、>・・・東宮陛下・・当時の裕仁皇太子、のちの昭和天皇・・<だった。>・・・

 (注42)「『法華経』従地涌出品で述べられる菩薩。その場面で,地から現れた菩薩たちが,仏陀によって『法華経』の伝道にふさわしいものとして予言されるが,それらの菩薩の指導者4人中の一人。日蓮は自分がこの菩薩の生れ変りであると自覚した。」
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%8A%E8%A1%8C%E8%8F%A9%E8%96%A9-79042

 大正14年(1925)秋、石原は帰国した。
 その帰路、ハルビンで国柱会の会員に向けて公開演説をおこない、「世界統一の為めの最終戦が近い」と発言している。」(342、354~357)

⇒石原の思考は、国柱会の教義には必ずしも拘束されていないけれど、法華経の日蓮的解釈には拘束されており、その点が、杉山らから杉山構想を最後まで明かされないまま、陸軍から事実上追放されるに至った理由であると思います。(太田)

(続く)