太田述正コラム#13294(2023.2.9)
<大谷栄一『日蓮主義とはなんだったのか』を読む(その16)>(2023.5.7公開)

「・・・昭和に入り、・・・日本の仏教は日本主義化、皇道化を通じて、戦時教学(戦争を正当化する仏教教学)へと展開することになり、「「日本仏教」という大きな物語 grand narrative」をつくりあげていくことになる。・・・
 そもそも日本主義者による日蓮主義への攻撃は、大正・・・15年・・・にさかのぼる。
 まずは蓑田胸喜<(注49)>(みのだむねき)によって批判が投じられた。・・・

 (注49)1894~1946年。五高、東大法→同文(宗教学)→法(政治学)。「1922年(大正11年)4月、慶應義塾大学予科教授となり、若・・・論理学や心理学を講義する。1925年(大正14年)11月7日、三井らと共に原理日本社を創立し、雑誌『原理日本』の刊行を始める。慶應義塾では「精神科学研究会」を組織し、そして、同誌上で国粋主義の観点から、マルクス主義・自由主義的な学者・知識人批判を展開する。慶大で蓑田の受講生であった奥野信太郎(後に慶應義塾大学教授)によると、授業は論理学についてはほんの少し触れるのみで、マルクス主義の攻撃と、国体明徴に終始していたようである。試験に明治天皇の御製を三首書いて出せば、及第点を与えたという。
 貴族院議員であった美濃部達吉が辞職させられた、天皇機関説事件に始まる大学粛正運動の理論的指導者であり、滝川幸辰、大内兵衛らの追放、津田左右吉の古代史著作発禁事件も、蓑田の批判論文がそもそものきっかけである。1934年6月6日、東京帝大教授末弘厳太郎を治安維持法違反・不敬罪・朝憲紊乱罪で告発した。
 1936年11月の日独防共協定が締結後は、1937年4月に平沼騏一郎や近衛文麿らが顧問を務める反共・国粋主義の国際反共連盟が結成され、その評議員の一人として反共雑誌『反共情報』に寄稿していた。1938年には帝大粛正期成同盟を組み、対外防共協定に呼応した国内に対する滅共を唱えた。・・・
 終戦後に自宅で首を吊って自殺した。これには、発狂による自殺とする説もある。・・・
 大正デモクラシーの流れを汲む自由主義や左翼的な共産主義に留まらず、権藤成卿や大川周明のような経済面で社会主義や農本主義を支持する右翼も批判対象とした。同盟国のナチス・ドイツに対しても否定的であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%93%91%E7%94%B0%E8%83%B8%E5%96%9C

 蓑田によれば、現代の日蓮主義者が700年前の日蓮を盲信して『法華経』の所説を絶対真理化するのは「全く時代後れの非科学的思想」だった。・・・
 <そして、>天皇の神格化と国体の絶対化<についてだが、>・・・原武史・・・は、昭和大礼を契機に宮城前広場が「官民一体」の「国体」を可視化する最大の政治空間になったと指摘する。・・・
 戦中期には「正門鉄橋と白馬とが、天皇を「現人神」として演出する舞台や道具として重要な役割を果た」した、と・・・。
 ついで、国体の絶対化について<だが、>・・・国体明徴声明後<に>・・・文部省内に新設された」教学刷新評議会<(注50)>・・・が>昭和<11>年(193<6>)・・・10月に公表したのが、「教学刷新評議会教学刷新ニ関スル答申(案)」である。

 (注50)「学生運動の隆盛とともに思想問題が重要な問題となり、1935年(昭和10)11月18日に教学刷新評議会が設置され、教学の刷新が検討された。1937年(昭和12年)7月21日、教学刷新評議会の答申に基づいて、文部省の外局として教学局が設置された。これまで、学生の思想対策を担当していた思想局を発展的に継承したもので、教学の刷新と振興を任務とし、国体・日本精神に基づく学問文化の体系の確立を目指した。局内に企画部(企画課・思想課)・指導部(指導課・普及課)・庶務課が置かれ、教学刷新振興策の企画・調査、学校や社会教育団体の思想情報の収集ならびに指導・監督、教職員の再教育、文化講義、図書・冊子の編纂や刊行・頒布、図書の調査などを所掌した。さらに思想局時代の『国体の本義』に引き続き、『臣民の道』・『国史概説』の編集などをおこなった。」
https://www.jacar.go.jp/glossary/term1/0090-0010-0100-0030-0030.html

 冒頭、次のように「国体」の定義が述べられている。
 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇天祖ノ神勅ヲ奉ジテ永遠ニコレヲ統治シ給フ。コレ我ガ万古不易ノ国体ナリ。而シテコノ大義ニ基キ一大家族国家トシテ億兆一心聖旨ヲ奉体シ克ク忠孝ノ美徳ヲ発揮ス。コレ我ガ国体ノ精華トスルトコロニシテ又ソノ尊厳ナル所以ナリ。
 この定義をそのまま踏襲したのが、かの有名な『国体の本義』である。・・・
 ここで注目したいのは、「第二 国史に於ける国体の顕現」「一、国史を一貫する精神」のなかで引用されている文章、『日本書紀』巻之三(神武天皇紀)のいわゆる「橿原<(かしはら)>遷都の詔」の一節である。・・・
 <そこに出てくる>「八紘を掩ひて宇と為む」の部分は、田中智学が「八紘一宇」の造語の典拠とした文言である・・・。
 ・・・智学は「八紘一宇」を日本による道義的な世界統一の意味で成語化した。
 ただし、「天皇による世界統一の発想自体は智学の独創ではなく、近世の平田国学の流れにおいてすでに見られる」と指摘するのは、長谷川亮一<(注51)>である。・・・

 (注51)1977年~。千葉大院研究科卒、同大博士(文学)。千葉大特別研究員、非常勤講師。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E4%BA%AE%E4%B8%80_(%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E5%AD%A6%E8%80%85)

 その後、「八紘一宇」は昭和15年(1940)・・・の「基本国策要綱」・・・や三国同盟の詔勅で・・・用いられ・・・これ以降、・・・大東亜共栄圏のスローガンとして普及していくことになる。・・・
 <その>過程で、「・・・その仏教的・日蓮主義的な含意は無視ないし忘却され、……「肇国<(ちょうこく)>」以来の日本の国是として語られていく<が、>・・・それでも・・・日蓮主義的な意味で・・・石原莞爾<は、八紘一宇を>・・・用いようとした<。>・・・
昭和10年(1935)8月、参謀本部作戦課長に着任し・・・た石原は・・・満州の兵力が極東ソ連軍の3割あまりで、戦車や航空兵力は5分の1程度であることを知った・・・。

⇒この記述には一応典拠が付されています(649~650)が、その更に裏づけをとろうとしても、ネット上ですぐには発見できませんでした。
 わずかに、「1934年の日本航空機数は、ソ連の3分の1であった」
https://www.lec.ac.jp/pdf/activity/kiyou/no17/07.pdf
くらいですが、海軍力に関しては、日本のそれは、英米に次ぐ世界3位の規模
file:///D:/Users/Nobumasa%20Ohta/Downloads/AN00224504-20020528-0001.pdf
で、ソ連など霞んでしまう規模だったわけであり、日ソそれぞれが第三国向けに最低限控置しておくべき兵力量を見積もった上で、相手国指向陸海空兵力量比較を行うべきでしょう。(太田)

 石原は・・・旧知の・・・満鉄勤務の宮崎正義に依頼して同年秋に日満財政経済研究会(いわゆる宮崎機関)を創設させ<る等を行い>、・・・満州産業開発五ヵ年計画<と>重要産業五ヵ年計画・・・策定<に漕ぎつける。>・・・
 <そして、>翌年6月、参謀本部内に戦争指導課<を>新設さ<せ、>・・・その初代課長に着任する・・・。
 <この>戦争指導課は「国防国策大綱」・・・を立案し、参謀総長の決済を得<るが、>・・・海軍の反対で・・・国策にはならなかった<。>・・・

⇒教育総監に就任する1936年8月1日まで、杉山元は、(1934年8月から)事実上の参謀総長たる参謀次長であって、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E8%82%B2%E7%B7%8F%E7%9B%A3
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E5%85%83
石原の上司だったのであり、これら諸施策は、全て杉山の決済を受けて行なわれたはずであるところ、私は、杉山が石原に命じたものであって、石原のイニシアティヴによるものではない、と見ています。(太田)

この「大綱」には、石原の戦争史観が反映した戦争計画をみることができるが、変更点もあった。
 それまでは、日米持久戦争→殲滅戦争としての日米戦争=最終戦争というプロセスが想定されていたが、「大綱」では日米持久戦争に代わり、アジアからのイギリス勢力駆逐のための対英戦争論が前面化している点である。・・・
 <また、>石原ら参謀本部は、・・・ソ連の極東攻勢政策<を>断念<させる>ためには<当面>英米との親善関係が必要であり、そうした英米への配慮や、中国における民族運動とナショナリズムの高まり、それにもとづく国民政府による国家統一の進行と抗日運動の激化への思惑<から、>・・・「対支政策ヲ変更」し、「北支分治工作ハ行ハザルコト」・・・という方針を・・・昭和12年1月25日<に>・・・打ち出した。
 これは・・・閣議決定「第一次北支処理要項」(昭和11年1月)以来の華北分離政策の中止を意味<した。>・・・

⇒これらも、単に、杉山構想に基づく進展と見るべきなのです。(太田)

しかし、昭和12年(1937)3月に石原が作戦部長に昇格する直前から、石原の影響力は低下した、ついには同年7月7日の盧溝橋事件を迎え、石原ら事態不拡大派と武藤章参謀本部作戦課長、田中新一陸軍省軍事課長らの拡大派が激しく対立した。・・・
 <結局、>石原ら不拡大派は敗れ、9月27日に石原は関東軍参謀副長として転出、つまり左遷となる。」(484~486、516~519、521~524)

⇒杉山が、石原を、作戦課長に就け、やがて作戦部長に昇任させたのは、有能な走り使いとして石原を使うためであるにすぎず、彼は、石原の見識など、作戦課長に就ける前から全く買っていなかった、と、私は見ており、繰り返しになりますが、宇垣一成の首相就任阻止での走り使いでもって、石原の賞味期限は完全に切れ、石原は捨てられた、というわけです。(太田)

(続く)