太田述正コラム#13298(2023.2.11)
<大谷栄一『日蓮主義とはなんだったのか』を読む(その18)>(2023.5.9公開)

 「・・・昭和14年(1939)1月29日のこと<、>・・・石原は・・・仏滅<(注52)>年代に日本仏教の伝統的な説(紀元前949年説)と当時の印度哲学・仏教学の成果にもとづく説(紀元前486年説)のふたつがあることを知<る。>・・・

 (注52)「末法に入ったとされる平安時代では仏滅を紀元前949年とする説が一般的だった<が、>現在では下記の説が存在する。
 1 周書異記の記述を根拠とする紀元前949年説
 2 東南アジアの仏教国に伝わる紀元前544-543年説
3 2をギリシャ資料によって修正した紀元前486年もしくは紀元前477年説
4 <支那>、チベットに残る記述から紀元前400-368年説
 なお、周書異記は<支那>仏教が儒教に対する優位性を確保するために制作された偽書であるため、この説の正当性については疑問が残る、という指摘もある。[要出典]」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%BB%85

 ここにおいて、石原の日蓮主義信仰は転回し、いわゆる「五五百歳二重説」(あるいは「末法<(注53)>二重説」)が確立する。

 (注53)「三時または五箇の五百歳は『大集経』に説かれる。
 「大覚世尊、月蔵菩薩に対して未来の時を定め給えり。所謂我が滅度の後の五百歳の中には解脱堅固、次の五百年には禅定堅固已上一千年、次の五百年には読誦多聞堅固、次の五百年には多造塔寺堅固已上二千年、次の五百年には我が法の中に於て闘諍言訟して白法隠没せん」
 日本では伝統的に『末法燈明記』(最澄の著作とされていたが偽書説がある)を根拠に1052年(永承7年)に末法に入ったとされた・・・。この考え方では釈迦の入滅を『周書異記』を根拠に紀元前949年とする(考古学的な推測よりかなり古い時代であり、東南アジアの仏暦ともかなりの差がある)。
・第一の五百歳 解脱堅固…インドにおいて迦葉(マハーカッサパ)・阿難(アーナンダ)等が小乗教を弘めた。
・第二の五百歳 禅定堅固…インドにおいて竜樹(ナーガールジュナ)・天親(ヴァスパンドゥ)等が大乗教を弘めた。
・第三の五百歳 読誦多聞堅固…仏教が東に流れて中国に渡り経典の翻訳や読誦、講説等が盛んに行われた。天台大師(智顗)が法華経を弘めた。
・第四の五百歳 多造塔寺堅固…仏教が東に流れて日本に渡り聖徳太子以来多くの寺塔が建てられた。伝教大師(最澄)が日本の仏教を統一し大乗戒壇を建てた。
・第五の五百歳 闘諍堅固・白法隠没…戦乱が激しくなり、釈迦の仏法が滅尽する。末法思想から鎌倉新仏教が起こった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E6%B3%95

 <石原は、>「五五百歳<=2,500年>」を教法上・観念上のことと、現実上のこととして、二重に解釈したのである。
 その結果、「世界の統一は[大谷註:紀元前486年説の]仏滅後2500年迄に完成する」との推論に達し、この推論が50年以内に・・・<その結果として>世界の統一<が>・・・完成する<ところの、>・・・最終戦争<、>が起こるという軍事上の判断とかなり近い結論になったことで確信を得る。・・・
 <この>見解の前提には、日蓮が『法華経』薬王菩薩本事品第二十三の一節、「後の五百歳に閻浮提に於て[大谷註:『法華経』を]広宣流布せん」(後五百歳於閻浮提広宣流布)を踏まえて、五五百歳を『法華経』の教え(とくに妙法五字)が広く世界に広まるという「仏の予言、未来記」として受けとめたという理解がある。
 石原にとって、・・・世界統一は(五五百歳が終わる)仏滅後2500年までに実現されるべきものだったのである。・・・ 
 西山<茂>が指摘するように、切迫した上行再臨を信じるアドヴェンティストになること(大正12年)と、五五百歳二重説(昭和14年)によって、<田中智学の念頭にあったところの、遠い将来におけるいずれかの天皇、は、石原によって、当時の裕仁皇太子=昭和天皇、へと絞り込まれ、>石原は「二重の意味で従来の国柱会信仰からの離脱を遂げたのであった」。・・・
 ただし、その世界統一の主体は智学のように天皇を指導者とする「日本」ではなく、賢王としての天皇を指導者とする「東亜連盟」だった。

⇒宗教家たる石原による、寝言に等しい戯言である、と、斬り捨てられるべきでしょう。(太田)

 石原によって、日蓮主義のアジア主義化が図られた<わけだ。>」(534~540)

⇒(私の言う)小日蓮主義に関してそのアジア主義化が図られたかどうかなど殆どどうでもいいのであって、(私の言う)大日蓮主義(≒島津斉彬コンセンサス)のアジア主義化は明治維新直後から図られたことは、慶應義塾設立(1868年)、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B6%E6%87%89%E7%BE%A9%E5%A1%BE%E5%A4%A7%E5%AD%A6
興亜会設立(1880年)、玄洋社設立(1881年)、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E4%B8%BB%E7%BE%A9
等の経緯(後述)から明らかです。(太田)

 「・・・昭和14年(1939)・・・8月1日、杉浦晴男(石原の個人秘書)名で石原による『東亜聯盟建設綱領』・・・が出版された。
 これは、東亜連盟論を世に問うたたき台には「無名の青年がよい」という石原の意向にもとづくものだった。
 同書に先立ち、石原は経済政策面でのブレーン、日満財政経済研究会の宮崎正義に『東亜聯盟論』(・・・1938年12月)を刊行させていた。・・・
 本書は石原の協力を得て1ヵ月半の短期間で書き上げられたものである。・・・
 <中身を突き合わせてみると、>『東亜聯盟建設綱領』<は>『東亜聯盟論』に依拠しながら作成されたことがわかる・・・。・・・
 『東亜聯盟建設綱領』刊行のわずか2ヵ月後、昭和14年(1939)10月には朝鮮語版が満州国協和会の朝鮮人幹部だった金昌南(キムチャンナム)によって翻訳され刊行された。・・・」(540~541)

⇒智学や石原のような宗教家が政治活動を行うことは控えるべきなのに、行ってしまうと碌なことにはなりません。(太田)

(続く)