太田述正コラム#2040(2007.9.3)
<韓国のナショナリズムの謎(その1)>(2008.3.7公開)
1 始めに
 本日の朝鮮日報日本語電子版のカナダ・トロント大の東アジア学部のシュミット(Andre Schmid)教授の新著’Korea Between Empires 1895‐1919’の内容を紹介する記事を見て色々考えさせられました。
 読者の皆さんにも一緒に考えて欲しいと思い、このコラムを書くことにしました。
2 朝鮮民族概念の生誕
 シュミットは次のような指摘をしています。
 民族を「想像の共同体」と規定したベネディクト・アンダーソン(Benedict Anderson)は、民族を古代から実在する実体としてではなく、資本主義の発達過程において、自国語で書かれた大衆新聞の登場を通じて現れた文化的造形物であると主張した。
 朝鮮「民族」(Korean ‘minjok’)なる観念もまたそのようにして生まれた。
 1895年に日本が日清戦争に勝利すると、下関条約によって朝鮮半島は500年に及んだ華夷秩序、すなわち支那への臣従関係から解放され、支那への尊敬の念は消え、支那はむしろ軽蔑の対象となった。
 翌1896年に李氏朝鮮に初の近代新聞が登場し、爾後新聞の数が増えていくが、これらの新聞は、隋(Sui)の煬帝が送り込んだ大軍を撃破した高句麗の将軍・乙支文徳(Ulchi Mundok。6世紀後半頃 ~7世紀初頭頃)(注1)を、朝鮮半島4000年の歴史において最も偉大な人物の1人と持ち上げ始める。
 (注1)高句麗の将軍にして大臣。隋の第二次高句麗遠征(612年)において、兵113万3,800人と輜重隊からなる200万の隋軍を相手に戦い、遼河を越えて高句麗に攻め込んだ隋30万5千人のうち、再び遼東城に戻ることができたのはわずかに2,700人という大勝利を収めた。現代の韓国の歴史教科書においては、契丹の侵入を退けた姜邯賛、文禄・慶長の役(韓国では壬辰・丁酉倭乱と称する)で日本水軍に大勝利した李舜臣とともに、外敵の侵入から祖国を守った英雄の筆頭として掲げられている。(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%99%E6%94%AF%E6%96%87%E5%BE%B3
。9月3日アクセス)
 また、朝鮮後期までは支那の遺民を導いて中華文明の英傑として朝鮮半島にやって来た(古朝鮮の)箕子(Kija)の陰に隠れ注目を受けなかった檀君(Tangun。3世紀の文献『三国遺事』に初めて登場)を、支那民族にとっての支那の黄帝(Huangdi)や日本民族にとっての天照大神(Amaterasu)と並ぶ朝鮮民族の始祖とみなし始める。
 朝鮮人は、4000年前に白頭山の神檀樹の下で生まれた民族の始祖・檀君の子孫だというのだ。
 同じ頃、ハングルの使用頻度が高まる。
 そして、1897年には、清と日本という二つの帝国に対抗するために、国号が大韓帝国(Taehan Empire)に改められ、太極旗が国旗に採択される。
 やがて、すべての人々は民族の利益のため服務しなければならないという観念が生まれる。
 このような観念は、1905年の日韓保護条約の締結を経て、1910年の日韓併合以降、朝鮮人の間に浸透していく(注2)。
 国家は奪い取られたけれど、朝鮮民族は厳然として存続している、という形で・・。
 (以上、特に断っていない限り
http://www.chosunonline.com/article/20070902000026  
(9月3日アクセス)以下を、
http://koreaweb.ws/ks/ksr/ksr04-03.htm
(9月3日アクセス)で補足した。)
 (注2)既に1882年に清当局が発見していた高句麗の広開土王(=好太王。374~412年)の業績を記した石碑が(新聞によって)朝鮮半島に紹介されたのは1905年10月末であり、日韓保護条約締結のわずか10数日前のことだった。
    民族の英雄と言ってよい広開土王に対する意識がその程度であったことからも、その頃までの朝鮮民族意識がいかに希薄であったかが分かる。(太田)
3 日本帝国と朝鮮民族
 それでは、日本統治下の朝鮮半島における、日本帝国と朝鮮民族との関係はいかなるものであったのでしょうか。
(続く)