太田述正コラム#13310(2023.2.17)
<江間浩人『日蓮誕生–いま甦る実像と闘争』を読む(その3)>(2023.5.15公開)

 「以上から推測できるのは、日蓮の家は生粋の坂東武士ではなく、文字の素養がある貴族出身の在所役人か御家人にちがいない。

⇒ですから、どうして江間がこのような結論を出すのか、私には理解できません。(太田)

 次に弟子・檀那について考察した。
 日蓮の弟子も由緒正しい家柄である。
 日昭は伊東氏で、工藤祐経の孫であり、日朗も清和源氏の流れを引く平賀氏であるという。
 日昭は材木座の祐経邸跡に実相寺を創建し墓所を留め、日朗は平賀邸跡に本土寺を創建している。」(5)

⇒イの一番に日昭を持ち出しておいて、かつ、彼が由緒正しい家柄であると指摘しておいて、彼が近衛兼経の猶子であったことに(コラム#12103)直ちに言及しないことも、また、私には理解できません。
 近衛兼経は関白太政大臣を務めた人間ですし、正室は九条道家の娘であって、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%85%BC%E7%B5%8C
九条道家は4代将軍の藤原頼経の父親なのです
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E9%81%93%E5%AE%B6
からね。
 つまり、日昭は将軍の「従兄弟」ということになり、日蓮はそんな日昭の師匠にあたる、という、極め付きに重要な話を、自分の自説に対する雑音になるので江間はあえて伏せている、と言われても仕方がないでしょう。
 なお、「日昭の父は印東<(注8)>祐昭(いんとう すけあき)、母が工藤祐経<(注9)>の長女であると伝えられる。

 (注8)「印東氏(いんとうし)は、桓武平氏である日本の氏族。下総国印旛郡印東荘を領したことから、地名を名字とする。桓武平氏良文流(系図によっては良兼流とされる)。上総権介平常澄の二男、印東次郎常茂(常義)を祖とする。上総広常は常茂の八弟にあたる。上総氏。千葉氏支流と記載されることもあるが誤り。子孫に伝わる異伝によれば平将門の子孫との口伝えもある。平良文が将門の叔父でありながら猶子となったことによる系譜か。 源頼朝が挙兵した際、初代常茂は平家方、息子たちは源氏方へ付き、子孫は御家人として鎌倉幕府へ仕えた。 鎌倉幕府成立後、房総平氏の総領であった上総広常が謀反の疑いで誅されたことにより、幕府内における上総一族としての印東氏の勢力は減退し、代わって千葉氏が房総平氏の総領となり、その被官となることを余儀なくされた。 宝治合戦では千葉氏と共に三浦氏方に与したため、所領の多くを失うこととなる。鎌倉幕府滅亡後は鎌倉公方足利氏、里見氏へ仕えた・・・。 江戸時代には南部藩(南部家)、前橋藩(松平家)、喜連川藩(喜連川(足利)家)、上総久留里藩(黒田家)、薩摩藩(島津家)へ仕官している<。>」
https://ja.unionpedia.org/%E5%8D%B0%E6%9D%B1%E6%B0%8F
 (注9)「伊東氏は、・・・藤原南家の流れを汲む工藤氏の支族であり、平安時代末期から鎌倉時代に伊豆国田方郡伊東荘(現・静岡県伊東市)を本貫地としたことから伊東と称した。
 孫は各地に土着し、その一つが日向伊東氏であり、江戸時代に日向国飫肥藩主家とな<る。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E6%9D%B1%E6%B0%8F
 「伊東荘を領する工藤祐隆の嫡男であった父<・・伊東祐親の父・・>伊東祐家が早世すると、祖父・祐隆(法名・寂心)は後妻の連れ子である継娘が産んだ子(その実父は祐隆本人ともされる)である伊東祐継を養子とし、嫡男として本領の伊東荘を与え、同じく養子にした孫の祐親には次男として河津荘を与えた。<祐親は、>嫡孫として約束されたはずだった総領の地位を奪われたことに不満を持<った。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E6%9D%B1%E7%A5%90%E8%A6%AA
 「工藤祐経<(1147/1154~1193年)は、>・・・幼少期に父・祐継が早世すると、父の遺言により義理の叔父である伊東祐親が後見人となる。元服の後、祐経は祐親の娘・万劫御前を娶り、祐親に伴われて上洛し平重盛に仕える。・・・だが、祐経が在京している間に祐親は祐経が継いだ伊東荘を押領してしまい、妻の万劫御前まで奪って土肥遠平に嫁がせてしまう。祐親は祖父かつ養父の工藤祐隆が嫡孫の自分を差し置いて、養子の祐継に伊東荘を相続させたことに不満を抱いていたためである。押領に気付いた祐経は都で訴訟を繰り返すが、祐親の根回しにより失敗に終わる。
 所領と妻をも奪われた祐経は祐親を深く怨み、祐親の殺害を図って・・・1176年・・・10月、郎党に命じ、伊豆奥野の狩り場から帰る道中の祐親父子を襲撃させ、祐親を討ち漏らすもその嫡男・河津祐泰を射殺する。
 <その遺恨により、工藤祐経は、河津祐泰の子の>曾我祐成・時致兄弟<によって、>・・・兄弟の父・河津祐泰の仇として討たれた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A5%E8%97%A4%E7%A5%90%E7%B5%8C

 また、工藤祐経の孫伊東祐光(すけみつ/生没年未詳)は、伊豆国伊東の地頭として、伊豆流罪に処された日蓮聖人の身柄を預かった。一説に工藤家の一族には、小松原法難で殉教した工藤吉隆(1233~1264)がいたと推測されているが確証はない。因みに、日昭の姉と池上康光の間に生まれたのが池上宗仲・宗長兄弟で、また妹の妙朗と印東(平賀)有国の間に日朗、妙朗と平賀忠治の間に日像がおり、いずれも日昭からは甥にあたることになる。」
https://temple.nichiren.or.jp/0041039-yodenji/2022/01/id668/
ということであるところ、どうして、江間は、「日昭は伊東氏で、工藤祐経の孫」、と、日昭があたかも桓武平氏の印東氏の一員ではなく藤原氏の工藤/伊東氏の一員であるかのような書き方をしたのでしょうか。(太田)
 
(続く)