太田述正コラム#13312(2023.2.18)
<江間浩人『日蓮誕生–いま甦る実像と闘争』を読む(その4)>(2023.5.16公開)

 「・・・以上<から、>・・・日蓮の教線<は>日蓮自身の血縁から伸びたものとみて間違いなかろう<。>・・・

⇒ですから、そうではなく、「日蓮の教線<は>日昭の血縁から伸びたもの」と見るべきなのです。
 私は、日蓮と日昭の最初の出逢いは比叡山ではなく、日蓮の生れは安房、日昭の生れは下総、で、両国は上総を挟んだ近国であったことに加えて、印東氏領が上総にもあったというか、上総の方のが本領であったこと、から、それよりもずっと早い時期からだったのではないか、と考えています。(太田)

 日昭は下総国海上郡印東領熊手の人で、父は印東二郎左衛門尉祐照(祐昭)、母は工藤祐経の娘とも伊東佑時の娘ともされる。
 父の印東祐照は、伊東四郎成親の孫とある。

⇒「伊東」?(太田)

 印東祐照も伊東成親も詳しいことは分からないが、成親は1189・・・年7月の奥州合戦に源義朝の御供として騎馬で参陣した144名の中に、その名がある。・・・

⇒典拠が付されていないので判断のしようがありませんが、仮に、「日昭は、鎌倉にあった工藤祐経の屋敷跡に、1271年、法華堂(現在の材木座にある鎌倉・実相寺)を建てたことからも、印東氏は、伊東氏(工藤氏)の一族だったことがわかります。・・・印東祐信(印東左衛門尉祐信)は、下総国印東庄能戸の領主です。・・・工藤一族の伊東成親(伊東四郎成親)が、領すると「印東」(いとう)と、称したとあります。鎌倉幕府成立の際に功績があった、工藤氏一族の伊東成親が、下総国印東庄能戸を領することになったと考えて良いでしょう。1183年、源頼朝が、梶原景時・天野遠景に命じて、上総広常を謀殺した際に、上総氏は所領である印東荘などは、千葉氏や三浦氏などに分配されています。この時なのか?、伊東成親も、印東荘の一部を加増されて、子の代から印東氏を称することになったとも考えられます。千葉一族で大きく勢力を張った印東氏(いんとうし)もいることから、どうしても千葉氏一族の、印東(いんとう)と言うイメージが先行しますが、工藤氏系(伊東氏系)の印東氏は「祐」の字も使っているため、伊豆・伊東の「いとう」さんで、間違いなさそうです。」(『武昌人物情報・史跡情報「歴史観』中の高田哲哉(注10)「鎌倉・常栄寺【桟敷の尼】印東祐信の妻~日蓮に「ぼたもち」をあげて命を救った?」より。)
https://rekan.jp/3728/
が、それなりに信頼できる記述だとすれば、日昭は伊東氏とする江間は間違っていないことになります。

 (注10)「新卒で旅行会社に就職したのち、インターネットの何でも屋を経て、只今、執筆業をしています。戦国武将研究会主幹、戦国武将好きのFacebook-Club主催。城郭・史跡・古戦場跡・墓所などの訪問数は合計で1000箇所以上、史跡写真撮影数は1万5000枚以上となります。(2021年12月現在)」
https://senjp.com/myname/

 いずれにせよ、江間の記述は端折り過ぎです。(太田)

 一方、母は工藤祐経か<その子の>伊東祐時<(注11)>の娘とされる<。>」(6~7)

 (注11)「幼名は犬房丸。・・・1193年・・・5月28日、曾我兄弟の仇討ちで父工藤祐経が曾我兄弟に討たれる。父を討った曾我時致は助命の動きもあったが、犬房丸が泣いて訴えた事により、時致の身柄は祐経の一族に引き渡されて処刑された。その後、幕府御家人として仕える。
 ・・・1221年・・・承久の乱では幕府方の東海道軍に加わる。・・・1227年・・・、御所内裏焼失の際、将軍御使として上洛した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E6%9D%B1%E7%A5%90%E6%99%82
 「祐経の子・祐時は伊東を称し、その後子孫は全国に広まった。主だったものでは、祐時の子・祐光の子孫が日向国へ下向したのちの日向伊東氏がある。
 日向伊東氏と日向国の関係は、「曾我兄弟の仇討ち」で殺された工藤祐経の子伊東祐時が、鎌倉幕府から日向の地頭職を与えられて庶家を下向させたことが始まりである。これらはやがて田島伊東氏、門川伊東氏、木脇伊東氏として土着し、土持氏など在地豪族との関係を深めながら日向に東国武士の勢力を扶植していった。・・・
 幕末維新期の13代飫肥<(おび)>藩主伊東祐相は、倒幕の意志を固め、戊辰戦争で官軍に参加し二条城や甲府城などを守備した。明治2年(1869年)の版籍奉還で華族に列するとともに飫肥藩知事に任じられた<。>・・・
 日向伊東氏の一族からは下記の人物が出ている。・・・
 大友宗麟・大村純忠・有馬晴信らが送り出した有名な天正遣欧少年使節の主席正使としてローマに赴き、教皇(グレゴリウス13世)に拝謁した伊東祐益こと伊東マンショ。
 ・・・日清戦争時に初代連合艦隊司令長官を務めた元帥海軍大将・伊東祐亨。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E6%9D%B1%E6%B0%8F

⇒飫肥藩主伊東氏の菩提寺は臨済宗です
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/293169
し、伊東マンショはキリシタンになってしまったわけですし、伊東祐亨の墓所は曹洞宗の海晏寺(品川区)です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E6%9D%B1%E7%A5%90%E4%BA%A8
 伊東氏の末裔達は、日蓮宗とは、余りご縁がなさそうですね。(太田)

(続く)