太田述正コラム#13318(2023.2.21)
<江間浩人『日蓮誕生–いま甦る実像と闘争』を読む(その7)>(2023.5.19公開)

 「この指摘を踏まえて、次の日蓮の書簡を見たい。
 1280(弘安3)年、四条頼基<(注17)>に送ったものである。・・・

 (注17)しじょうよりもと(1229~1296年)。「承久の乱後、父・四条頼員の代から北条氏一族の名越<(なごえ)>朝時・光時父子に執事として仕え、名越氏が信濃国伊賀良荘の地頭となると代官として赴任した。
 ・・・1253年・・・から日蓮の説法に深く帰依し、・・・1271年・・・の龍ノ口法難では日蓮に殉死しようとした。日蓮の『開目抄』は佐渡島から鎌倉の頼基の許へ送られ、門下に広く示された。
 晩年には甲斐国内船(現在の山梨県南巨摩郡南部町)の地を与えられ、同地に内船寺を、身延山内に端場坊を建立している。屋敷跡は収玄寺となっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E6%9D%A1%E9%A0%BC%E5%9F%BA

⇒私は、原則、年は西暦、月日は旧暦、だけを引用紹介してきていますが、年について旧暦を併記する場合があるのは、例えば、この場合で言えば、元寇の弘安の役の前年のことだ、と注意喚起するためです。(太田)

 八幡神の誓いは、月氏では法華経を説いて正直に方便を捨てよと宣言し、日本では正直の人を守護すると誓った。だから、たとえ国主でなくても正直の人は守護される。源平・承久の乱で敗れた上皇・天皇には八幡神の守護がなかった。心が曲がった人だからだ。頼朝と義時は、臣下の身分だが八幡神の守護があった。正直だったからである、と日蓮は言う。
 さらに、・・・このことから考えて、法華経の信者は正直の法についたから釈迦仏が守護する。どうして垂迹の八幡神が守護しないことがあろうか。日蓮一門は、深く八幡神の誓いを信じなさい。八幡神は我々を守護します、と記す。
 頼朝・義時・日蓮一門は正直であり、だから八幡神が守護するという。
 先にみた細川氏による時宗の理想と、日蓮の説く世界が重なっているのは明らかだ。
 日蓮は、頼朝・義時の列に加わり、安達泰盛<(注18)>らとともに時宗の理想を共有していた。

 (注18)1231~1285年。「鎌倉幕府第8代執権・北条時宗を外戚として支え、幕府の重職を歴任する。元寇・御家人の零細化・北条氏による得宗専制体制など、御家人制度の根幹が変質していく中で、その立て直しを図り、時宗死後に弘安徳政と呼ばれる幕政改革を行うが、内管領・平頼綱との対立により、霜月騒動で一族と共に滅ぼされた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E9%81%94%E6%B3%B0%E7%9B%9B

 頼朝・義時を範とするのは当時の御家人、特に将軍家に仕える人々には当然だったはずである。
 その共通認識がなくて、日蓮が先の書簡を注釈なく将軍家に仕える四条頼基に与えるとは思えない。・・・

⇒「注18」を踏まえれば、四条頼基は、北条氏のうちの一族に仕えていた武士なのであって御家人ではない以上、将軍家に仕える人とは言えないでしょう。
 また、根本的に江間の言っていることがおかしいのは、江間は、佐渡時代以降の日蓮は、いわゆる(日蓮自身を仏であるとする)日蓮本仏論(※)に立っているとの立場である・・私もそうですが・・以上、日蓮自身は、方便を述べてよい、つまりは正直でなくてよい、ことを認めなければならないはずであり、だとすれば、この書簡で日蓮が方便を述べている可能性を疑わなければならないのに、その気配がゼロときているのですからね。
 私自身は、この書簡の中身は方便だと見ています。
 日蓮は、時宗に、再度の襲来が予想される蒙古対処のために、自分を顧問として起用し、軍議に出席させて欲しい以上、いくら弟子とはいえ、北条氏ゆかりの者に対して、時宗に伝わったらその御機嫌を損ねるような話を書くはずがないのであって、むしろ、時宗をほめちぎる必要があったのですから・・。
 なお、江間には、ここで、日蓮が八幡神を持ち出した意味を追及して欲しかったところです。(太田)
 
 <ところで、>本郷和人・・・氏はこう述べる。
 「鎌倉幕府という枠組みの否定は、御家人たちは考えていなかった。だからこそ幕府の第9代将軍である守邦親王は討伐の対象にならなかった。
 滅びていったのは北条高時をはじめとする北条一門と、北条氏の主従制に包摂された御内人であった」・・・。」(102~103、138)

⇒1221年の承久の乱の時は将軍が空席だった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%BF%E4%B9%85%E3%81%AE%E4%B9%B1
のでさておき、室町幕府の第15代将軍の足利義昭が信長と直接戦って敗れた時も、信長は義昭の命を奪わなかったどころか、将軍職の剥奪を朝廷に申請すらしていない
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%98%AD
のですから、それだけでも、本郷が何を言いたいのか私にはよく分かりませんが、そもそも、「元弘3年(1333年)、後醍醐天皇による倒幕運動(元弘の乱)が起きたが、その際に後醍醐天皇の皇子護良親王が発した令旨では討伐すべき対象が「伊豆国在庁時政子孫高時法師」とされており、守邦親王は名目上の幕府の長としての地位すら無視されていた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%88%E9%82%A6%E8%A6%AA%E7%8E%8B
からといって、それが、当時の「<幕府の>御家人たち<の>考え」であって、鎌倉幕府そのものは打倒の対象ではなかった、とは必ずしも言えないでしょう。
 というのも、元弘の乱の当初の時点における、後醍醐天皇の部隊指揮官筆頭であった楠木正成は幕府の御家人であったかどうかはっきりしません
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%A0%E6%9C%A8%E6%AD%A3%E6%88%90
し、護良親王が率いた主要部隊指揮官2人中の1人だった村上義光は同親王の側近たる武士、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E7%BE%A9%E6%97%A5
もう1人だった赤松則祐は天台座主としての同親王とご縁のあった天台僧、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E6%9D%BE%E5%89%87%E7%A5%90
だった以上は、彼等が御家人達の大部分の意向を代表していたとは言えそうもないからです。(太田)

(続く)