太田述正コラム#13330(2023.2.27)
<江間浩人『日蓮誕生–いま甦る実像と闘争』を読む(その13)>(2023.5.25公開)

 「この時点で南無妙法蓮華経の意味も、従来の「法華経に対する帰命の請願」とともに、「本尊たる法華経の行者の表示」という両義性を有することになったのである。
 日蓮の書簡中、法華経の行者への言及は、佐渡以降に集中する。
 そこでは法華経を経文通りに実践した如説修行の者とはいったい誰を指すか、という点を繰り返し問題にした。
 そしてそれは日蓮自身のことであると、ある時は婉曲に、ある時は直接的に表明している。
 「教主釈尊より大事なる行者」との表現も見られ、まさに末法の仏の覚悟の表出といってよい。・・・
 やがて日蓮は自らの名を本尊の真下に自署し、花押を記す。
 公然と末法の仏の覚悟を記したのである。
 さらに・・・即身成仏に必要な三密(意密、口密、身密)のうち、法華経には口密と身密が欠けているという密教からの批判に対し、日蓮は、意密を「本尊」に、口密を「唱題」に、そして法華弘通の震源となる「戒壇<(注37)>」での授戒儀式を身密に充てて三密とし、それらを密教の三密を超える「三大秘法」と位置付けた。・・・

 (注37)「唐より鑑真が招かれ、戒律が伝えられた。この戒律を守れるものだけが僧として認められることとなった。その結果、仏教界の規律は守られるようになった。鑑真は754年、東大寺に戒壇を築き、同年4月に聖武天皇をはじめ430人に授戒を行なった。これが最初の戒壇である。その後、東大寺に戒壇院を建立し、筑紫の大宰府の観世音寺、下野国(現在の栃木県)の薬師寺に戒壇を築いた(天下の三戒壇)。
 これ以降、僧になるためには、いずれかの戒壇で授戒して戒牒を受けることが必須となり、国(国分寺)が僧を管理することになった。しかし、822年、最澄の死後に延暦寺に対して戒壇の勅許が下され、戒壇が建立された。大乗戒壇と呼ばれることもある。・・・
 当時は、<支那>の仏教界は延暦寺の大乗戒壇を、戒壇としては認めておらず、ここで受戒した僧は、道元禅師の例にもあるように<支那>では僧侶として認められなかった。また、官立寺院(官寺)ではない延暦寺の山内に戒壇設置を認められたことに、東大寺をはじめとする南都(奈良)の寺院の反発を抱き、両者の対立の原因の一つとなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%92%E5%A3%87

⇒日蓮は、天下の三戒壇だけでなく、大乗戒壇も否定したことになるので、この点からも、やはり、天台宗も否定したことになりそうです。(太田)

法華経は・・・聖徳太子のころから大事にされた特別な経典です。
 源頼朝も熱心な法華経信者として有名でした。
 ところが、本来の法華経信仰は、特別な教養と財力がある貴族にしか許されないものだったのです。
 法華経では、・・・「法師品第十」など<で>・・・その修行を、経典の受持・読・誦<(じゅ)>・解説・書写に求めています。
 法華経の入手と諸事、読経、暗唱、解説、書写することが、法華経の修行であり、法華経信仰だったのです。
 当時、圧倒的多数を占めていた下層民(農民・下人)は、生まれた土地で農作業などに汗水流して生涯を終えていきます。
 文字も読めません。・・・
 <そこへ、>法然房源空は、ナムアミダブツと唱えるだけで誰でも極楽往生できると説きました。・・・
 朝廷や幕府の禁止令を超えて、・・・称名念仏は武家社会に急速に広まっていきました。・・・
 理由は主に三つあると思います。
 一つは、・・・他宗の教えも尊重して、さまざまな修行も認める穏便な教えが浄土宗の主流とな・・・ったことです。・・・
 もう一つは、武士の残虐な立場と関係しています。・・・
 死んで地獄に堕ちる–この切実な恐怖を念仏が救ってくれるのです。・・・
 <こう>して武家が信仰した念仏<(注38)>は、領内の農民・下人などの下層にまで後半に受け入れられていったに違いありません。・・・

 (注38)「西山派は北条氏一族の中にも受け入れられて鎌倉弁ヶ谷に拠点を築いた。また、鎮西派を開いた第2祖弁長の弟子第3祖良忠も下総国匝瑳南条荘を中心とし関東各地に勢力を伸ばした後鎌倉に入った。その他、鎌倉にある極楽寺は真言律宗になる前は浄土宗寺院であったとも言われ、高徳院(鎌倉大仏)も同地における代表的な浄土宗寺院である(ただし、公式に浄土宗寺院になったのは江戸時代とも言われ、その初期については諸説がある)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E5%9C%9F%E5%AE%97
と、浄土宗のウィキペディアは、著名武士たる信徒の名前を一人も挙げられない状態であり、また、それに続く箇所に「鎌倉悟真寺」と「鎌倉善導寺」という寺名が出てくるものの、前者は不詳であって、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%9F%E7%9C%9F%E5%AF%BA
鎌倉時代に鎌倉にあった浄土宗の寺は善導寺
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E9%A4%8A%E9%99%A2_(%E9%8E%8C%E5%80%89%E5%B8%82)
https://www.7key.jp/data/fudasyo/bandou33/b03_anyouin.html
http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%90%8D%E8%B6%8A%E6%B4%BE
だけだった可能性が高い。

⇒「注36」を踏まえれば、鎌倉時代に、既に浄土宗が武士の間に広まっていた、との江間の主張には疑問符が付きます。(太田)

 三つ目は、時代と社会に対する不安です。
 平安時代の末から、仏教では「末法」と呼ばれる時代に突入します。・・・
 実際、この時代には天候不順や地震などの天災、飢饉・疫病の流行も頻繁にありました。・・・
 日蓮は、天変や飢饉による世の不幸は、為政者が法華経に代わって念仏を信仰していることが原因だ、と考えました。・・・

⇒「天災、飢饉・疫病の流行も頻繁にあ<った>」のが当時だけとは思えません。
 むしろ、平安末から、私の言う弥生モードの時代・・世情が物騒な時代・・になっていたことを江間は指摘すべきでした。(太田)

 <そんなところへ、日蓮による>唱題の確立によって、当時の東国に、武家から下層の庶民に至るまで信仰できる仏教として、再び法華経が立ち現れ・・・た<わけです>。」(167~168、191~196)

(続く)