太田述正コラム#13332(2023.2.28)
<江間浩人『日蓮誕生–いま甦る実像と闘争』を読む(その14)>(2023.5.26公開)


[鎌倉大仏のミステリー]

 「高徳院(こうとくいん)は、神奈川県鎌倉市長谷にある浄土宗の寺院。本尊は国宝銅造阿弥陀如来坐像の鎌倉大仏。正式には大異山高徳院清浄泉寺(しょうじょうせんじ)と号する。開基(創立者)と開山(初代住職)はともに不詳。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%BE%B3%E9%99%A2
を読むと一見当たり前のようだが、「高徳院は、・・・初期は真言宗で、鎌倉・極楽寺開山の忍性など密教系の僧が住持となっていた。のち臨済宗に属し建長寺の末寺となったが、江戸時代の正徳年間(1711年 – 1716年)に江戸・増上寺の祐天上人による再興以降は浄土宗に属し、材木座の光明寺(浄土宗関東総本山)の末寺となっている。「高徳院」の院号を称するようになるのは浄土宗に転じてからである。」(上掲)というのだから、しかも、「『吾妻鏡』には、・・・1238年・・・、深沢の地(現・大仏の所在地)にて僧・浄光の勧進によって「大仏堂」の建立が始められ、5年後の・・・1243年・・・に開眼供養が行われたという記述がある。同時代の紀行文である『東関紀行』の筆者(名は不明)は、・・・1242年・・・、完成前の大仏殿を訪れており、その時点で大仏と大仏殿が3分の2ほど完成していたこと、大仏は銅造ではなく木造であったことを記している。一方、『吾妻鏡』には、・・・1252年・・・から「深沢里」にて金銅八丈の釈迦如来像の造立が開始されたとの記事もある。「釈迦如来」は「阿弥陀如来」の誤記と解釈し、この1252年から造立の開始された大仏が、現存する鎌倉大仏であるとするのが定説である。なお、前述の1243年に開眼供養された木造の大仏と、1252年から造り始められた銅造の大仏との関係については、木造大仏は銅造大仏の原型だったとする説と、木造大仏が何らかの理由で失われ、代わりに銅造大仏が造られたとする説があったが、後者の説が定説となっている。」(上掲)というのだから、鎌倉大仏は、真言宗時代か、遅くとも臨済宗時代に建てられたはずなのに、前者の大日如来、後者の釈迦如来
https://www.yougakuji.org/archives/837
ではなく、阿弥陀如来である、というのはミステリーだ。

 仮に臨済宗時代に建てられたとするならば、「禅寺の本尊にも、そのお寺の創建の因縁によって、薬師如来、阿弥陀如来などおまつりしていることがあります。」(上掲)という次第であることから、たまたま阿弥陀如来になった、ということかもしれない。

 「・・・日蓮は法華経の卓越性を2点、挙げています。
 一点は、法華経だけが万人の成仏を説いたこと、もう一点は、法華経だけが、仏は久遠の昔からこの娑婆世界において万人の成仏を説き続けてきたと明かしたこと、です。
 少し嚙み砕きましょう。
 法華経以外の経典では、女性や小乗など、成仏できないと決定された人々がいました。
 法華経は教理上からも、その差別を打ち破り、万人を平等に成仏できるとしました<本当は、人間のみならず、万物の成仏、万物の平等を説いたのですが…。難解になるのでここでは踏み込みません。〉」(197~198)

⇒「もともとインドの大乗仏教では、成仏できるのは「有情」あるいは「衆生」と呼ばれる「心を持った生き物」、すなわち人間と動物に限るとされていました。
 [大乗仏典中わずかの例外が『法華經』と『首楞嚴經』である<。>この二経のみが、草木を命あるものとして記している。]
 それが<支那>の三論宗や華厳宗において、「草木成仏」という思想が生まれて、植物も成仏できると考えられるようになったのだそうです。
 [そればかりか、天台の湛然 (711-782)は、草木礫塵のひとつひとつがすべて仏性である、と主張した<。>]
 これが・・・日本に入<り>、「草木国土悉皆成仏」という形で、無機物である「国土」までもが成仏できるのだと説かれるようになったということで、このあたりの事情は、岡田真美子氏の「東アジア的環境思想としての悉有仏性論」という論文に記されています。」
https://ihatov.cc/blog/archives/2020/03/post_959.htm
という説明をさらっと受け止めれば、さほど「難解」であるとも思いません。
 しかし、厳密に考え出すと、訳が分からなくなります。
 というのも、成仏といっても、仏には、如来、菩薩、明王、天部、という4つの階層がある
https://www.city.funabashi.lg.jp/gakkou/0002/ooana-j/0003/p078689_d/fil/bijutsu20414.pdf
ともされることから、成仏といった場合、そのどれになることを意味しているのか判然としませんし、釈迦のような例外的な人を除いて、成仏といっても、阿羅漢(=羅漢=声聞=仏の弟子で悟りを得た者/解脱した者=当然的出家者)にしかなれないとおっしゃる人もいる(コラム#13321)、からです。
 あえて「世界の仏教関係者は」とは言わず、日本の仏教関係者に限定したいと思いますが、仏教 学者や歴史学者を含め、仏教に関して厳密な議論を行わない・・行えない?・・人ばかりの印象があって、まことに困ります。(太田)

(続く)