太田述正コラム#13350(2023.3.9)
<小山俊樹『五・一五事件–海軍青年将校たちの「昭和維新」』を読む(その1)>(2023.6.4公開)

1 始めに

 今、改めて表記の本に一瞥をくれたら、帯に「サントリー学芸賞受賞」とありました。
 もとい、この本を取り上げるのは、この前のオフ会の質疑で、ニ・二六事件については、その折の「講演」原稿で自説を披露したので、今度は五・五一事件で自説を打ち出してみたいと言ってはみたものの、そのためにも使えそうだと思って読んだ、大谷本2冊だけでは、ネタ元として不十分だという感じだったからです。
 なお、小山俊樹(こやまとしき。1976年~)は、京大文(日本史)卒、立命館大講師、京大院博士後期課程修了/同大博士(文学)、帝京大専任講師、准教授、教授」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B1%B1%E4%BF%8A%E6%A8%B9_(%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E5%AD%A6%E8%80%85)
という人物です。

2 『五・一五事件–海軍青年将校たちの「昭和維新」』を読む

 「・・・5月15日<日曜日>–午後5時前。
 古賀清志<(注1)>(海軍中尉)は西川武敏<(注2)>(士官候補生)・菅勤<(注3)>(同)と、高輪泉岳寺で赤穂義士の墓参りを済ませた。

 (注1)きよし(1908~1997年)。海兵56期。「王師会<(コラム#13288)>会員となる。1931年(昭和6年)12月、霞ケ浦海軍飛行学生、海軍中尉となる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E8%B3%80%E6%B8%85%E5%BF%97
(注2)「陸軍士官学校本科生。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E3%83%BB%E4%B8%80%E4%BA%94%E4%BA%8B%E4%BB%B6 (※)
 (注3)「陸軍士官学校本科生。」(※)

 山門を出ると、坂元兼一<(注4)>(士官候補生)がいた。

 (注4)「陸軍士官候補生として五・一五事件に連座。出所後、満蒙の地において馬賊を率いて、包頭特務機関長として活躍<。>」
https://shouwaishin.com/?p=147

⇒五・一五関与者達の何人かが泉岳寺詣でをしていた、というのは面白いですね。(太田)

 4名は合流して山門外の茶店の2階に上がり、サイダーを注文して、女中を席から遠ざけた。
 そして牧野伸顕(内大臣)の官邸を偵察している池松武志<(注5)>(元士官候補生)・・・は「牧野在邸しているようだ」と報告した。

 (注5)「昭和三年四月、・・・陸軍士官学校予科に入学<、>・・・肺尖炎兼肋膜炎で治療のため一ヶ年休学し、・・・昭和六<(1931)>年三月・・・卒業<、>・・・昭和六年四月、卒業後、野砲兵士官候補生として・・・朝鮮羅南の野砲兵第二十六連隊に赴任し・・・昭和六年十月、士官学校本科に入学するために、東京に帰って来た。本科に入学してから十日位経過した日に、士官学校予科に於て休学前の同期生であり、同一区隊(三十名位)であった、Aが会いに来た。彼の話は、日本が現在、非常な危機に際会しているので、陸海軍の青年将校を中心に、国家改造の動きがあるが、士官候補生もこれに参加したいと思って、同じ区隊であったBやCとも話し合っている。それで君にも参加してもらいたいと<誘われた。>・・・
 十月中の或日、士官候補生等の相談に基いて、国家改造趣旨を、改造決行の時、陸軍士官学校生徒に配布する目的で、謄写版によって、私が、休日、校外で印刷して来た。他の者は、都合で外出出来ない日であった。それを同志の一人が、自分のベットの藁蒲団の下においたのを、区隊長(陸軍中尉)に発見された。同じ頃N中尉が話していた所の、非常に近い時機の、所謂十月事件が、陸軍当局に感知され、抑圧された。・・・
 士官学校に於ては、十月事件関係者として、学校当局に取り調べられた者、三一六名と云われ、前述謄写版すり物のこともあって、私を含めて二名が退学処分を受けた。私の退学は、翌昭和七年一月末日であり、父母の住所である鹿児島県に、区隊長が送り届ける所を、長兄が大阪府下池田市の池田警察署長をしていたので、そこに送り届け<ら>れた。
 陸軍士官学校では、私の退学後のことを案じてくれ、神戸高等工業学校に入学出来るよう手配しておくから、そこに入学するように、と云ってくれたが、私は、二月中に上京してしまった。私が軍籍を失ったのは二月十七日である。」
https://inkyoclub.hatenablog.com/entry/2021/05/15/051002

⇒小山には、「士官候補生」とするだけではなく、その陸と海の区別をして紹介して欲しかったところです。
 どうやら、海軍士官候補生が誰も五・一五事件に直接的な関与をしていないようである理由は単純至極、当時、陸士は「本科・予科共に東京の「市ヶ谷台」に所在していた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%A3%AB%E5%AE%98%E5%AD%A6%E6%A0%A1_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
のに対し、海兵は広島県の江田島に所在しており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E5%85%B5%E5%AD%A6%E6%A0%A1_(%E6%97%A5%E6%9C%AC
物理的に関与するのが困難であったからでしょう。(太田)

 少し前にはいなかった護衛巡査が、官邸門前に就いていたことが、判断の理由であった。
 ・・・古賀清志・・・は第二組の行動予定について説明を始めた。
 その内容は、「内大臣官邸に着いたら、私と池松君が車を降りて手榴弾を投じ、外から威嚇するだけにとどめて、警視庁に向かう。警視庁では、私と菅君が手榴弾を投げる」であった。
 池松が、怪訝な顔をして聞いた。
 「どうして殺らないのですか。牧野はいないのですか」。
 牧野内大臣を斃すものと入念に偵察を重ねた池松は、急に「威嚇するだけ」と言い出した古賀に対して「少し不思議に思った」。
 他の陸軍士官候補生たちも「牧野を殺さないで何の決起か」と胸中で感じた。
 ロンドン海軍軍縮条約の経緯などから、牧野こそは陛下の大御心を覆う奸物の筆頭とみなされていた。
 だが古賀は「牧野がおるともいえん、おらんともいえん、わからない」と告げ、「警視庁で決戦するので、ここは威嚇にとどめる」と、再度繰り返した。」(16~17)

⇒私の仮説は、事件直前に、古賀清志が、例の牧野伸顕の社会教育研究所とのかかわりを、大川周明らないしは同研究所で「学んだ」陸海軍「学生」もしくはそのOB(コラム#省略)、から聞いて、いや、聞かされて、急遽、牧野の暗殺を中止した、というものです。(太田)

(続く)