太田述正コラム#13352(2023.3.10)
<小山俊樹『五・一五事件–海軍青年将校たちの「昭和維新」』を読む(その2)>(2023.6.5公開)

 「のちに牧野の襲撃が「手温(てぬる)かった」ことについて、牧野伸顕–大川周明–古賀のつながりから、大川の示唆をうけた古賀が、牧野の助命を画策したとの「疑惑」が出た。・・・

⇒やっぱりそういう疑惑があったのですね。
 これ、疑惑ではなく、事実でしょう。(太田)

 古賀が最も苦心したのは、海軍・陸軍・民間が合力した「決起」にすることであった。
 そうして初めて、恐慌に苦しむ農民と、軍縮に憤る軍人が一致して、腐敗した政党・財閥ら上層階級に異議を唱える「大義名分」が生まれる。
 橘孝三郎ら民間の愛郷塾を必死で口説き、陸軍士官候補生の協力を強く求めたのも、そのためであった。
 海軍・陸軍、そして民衆の三者が国家のために起つという、古賀の計画の核心部分を考えたとき、牧野の殺害計画は否定されないまでも、そこからやや外れる優先度の低い標的だった。

⇒小山の言わんとすることがさっぱり分かりません。(太田)

 午後7時を過ぎ・・・一同は武装を解き、憲兵隊に<自らを>差し出した。
 古賀と・・・中村義雄<(注6)>(海軍中尉)・・・の2名は、渋谷の憲兵隊分隊に移送された。
 そこに秦真次<(注7)>(はたしんじ)憲兵司令官(陸軍中将)が来た。

 (注6)「中村義雄海軍中尉率いる第三班4人は、新橋駅に集合後タクシーで立憲政友会本部に行って手榴弾を投げ込み、警視庁に向かい、その後、憲兵隊本部に出頭した。」
https://wedge.ismedia.jp/articles/-/26585
 (注7)1879~1950年。幼年学校、陸士(12期)、陸大(21期)。「旧小倉藩典医・・・の長男<。>・・・参謀本部員に就任。1913年(大正2年)11月、歩兵少佐に昇進。1914年(大正3年)1月、オーストリア大使館付武官補佐官となり、オランダ公使館付武官、歩兵第70連隊大隊長などを経て、1918年(大正7年)7月、歩兵中佐に進級し歩兵第70連隊付となる。同年12月、陸軍兵器本廠付となり、初代陸軍省新聞班長を経て、1922年(大正11年)2月、歩兵大佐に昇進し歩兵第21連隊長に就任した。1923年(大正12年)8月、第3師団参謀長に発令され、臨時東京警備参謀長、常設東京警備参謀長を歴任し、1926年(大正15年)3月、陸軍少将に進級し歩兵第15旅団長となった。1927年(昭和2年)7月、陸大教官に就任し、関東軍司令部付(奉天特務機関長)、第9師団司令部付、第14師団司令部付を経て、1931年(昭和6年)8月、陸軍中将に進み東京湾要塞司令官に着任。1931年10月、兵器本廠付(陸軍次官補佐)となり、憲兵司令官を経て、1934年(昭和9年)8月、第2師団長に親補された。1935年(昭和10年)8月に待命、翌月、予備役に編入された。
1937年(昭和12年)4月、神宮皇學館研究生となり、後に神職となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A6%E7%9C%9F%E6%AC%A1

 秦司令官は「きみたちはどうして上層部へ連絡しておかんのだ」と言った。
 古賀は「私ら海軍には、こんなこと言ってもわかる上層部はいませんよ」と答えた。
 秦司令官は、渋谷分隊の憲兵隊長に「この連中は国士待遇にするんだ」と命じた。
 古賀らにはウィスキーなどがふるまわれ、その晩は「たいへんなごちそう」になったという。

⇒秦は杉山元
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E5%85%83
と同じ小倉出身で、しかも、同じ年次でかつ陸士同期生で、親しかったと思われ、5月に起こった五・一五事件が、杉山・・同年2月に陸軍次官から久留米の第12師団長に転じていたが、杉山の次官当時に秦は次官補佐官をしていた(上掲)・・の画策で引き起こされたことに気付いていたからこそ、こういう大甘の姿勢で蹶起者達に接した、というのが私の見方です。(太田)

第四組<(班)>–といっても、ここには奥田秀夫<(注7)>(明治大学学生)ただ1人が属する–は、午後4時頃に行動を開始した。・・・

 (注7)「明治大学予科生で血盟団の残党<。>・・・単独で行動を開始、三菱銀行本店の偵察を行う。午後7時20分頃、他の組が行動を開始して市内が騒然とする中、奥田は三菱銀行に到着、裏庭に向かって手榴弾を投げ込むが、木に当たって路上で爆発し外壁等に損傷を与えただけだった。
 その後、奥田は友人宅へ泊まり、翌日自宅に帰ったところを逮捕された。」(※)

<襲撃を受けた>西田税<(注8)>・・・<には>ただちに手術が行われ、西田は奇跡的に生命をとりとめた。

 (注8)「5月15日、・・・陸軍青年将校の決起に反対していた西田は暗殺対象者となり、血盟団員川崎長光から裏切り者として銃撃され、出血多量で瀕死の重傷を負う。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E7%94%B0%E7%A8%8E
 「平磯保育園の建つ場所は新道を隔てて津神社に隣接している。津神社は幕末の天狗党の乱で平磯に立て篭もった場所である。新道は其の名の通り比較的最近造られた道路で江戸時代には平磯保育園の土地は津神社の鎮守の杜其の物だっただろう。右翼思想により川崎長光氏は天狗党所縁の場所に敢えて保育園を設立したのだと思われる。川崎長光氏は昭和16年に平磯保育園を創設して戦中戦後と同園の運営に努めその功績により昭和57年に勲五等雙光旭日章を授与され血盟団のメンバーの中で最も長命で2011年に101歳で亡っている。」
http://doumekipaint.web.fc2.com/ketumeidan/ketumeidan.html

 一報を聞いた児玉誉士夫が病室に駆け付けると、西田のかたわらで北一輝が、目を閉じて一心に法華経を唱えていた。」(20~22、24~25、29~30)

⇒西田税は日蓮の立正安国論を愛誦していた人物で、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E7%94%B0%E7%A8%8E 前掲
北一輝は法華経を唱えていた人物で、児玉誉士夫は日蓮宗信徒である、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%90%E7%8E%89%E8%AA%89%E5%A3%AB%E5%A4%AB
ということに、小山は、余り関心がないようなのが不思議です。(太田)

(続く)