太田述正コラム#13368(2023.3.18)
<小山俊樹『五・一五事件–海軍青年将校たちの「昭和維新」』を読む(その10)>(2023.6.13公開)

 「霞ヶ浦の地を拠点とした藤井斉は、志をともにできると見た人物に積極的に近づき、同志の糾合に努めた。
 土浦にある本間憲一郎<(注25)(元陸軍通訳、大陸従軍経験者)の「柴山塾」には頻繁に通い、近隣の国家主義者と交流を広めていく。」(50~51)

 (注25)1889~1959年。「古河町(現在の茨城県古河市)に生まれた。・・・憲一郎は水戸藩主徳川斉昭の侍医であった本間玄調のひ孫である。本間玄調の長男が本間高佐(たかすけ)で、高佐の二女が憲一郎の母まさ(お正とも記述する)である。・・・
 明治44年(1911年)東洋協会専門学校(現在の拓殖大学)支那語科に入学。在学中に陸軍省通訳官試験に合格。大正3年(1914年)東洋協会専門学校三学年修了にて中途退学する。
 同年8月、陸軍通訳として青島守備軍司令部に勤務(大正3年10月~大正4年4月)。朝比奈知泉の紹介で奈良武次参謀長と面会し特殊任務に就く(大正4年4月~大正5年10月)。大正5年(1916年)5月、支那第三革命が起り、維県を中心に居正によって討袁の軍隊が進められる。 憲一郎は、これに参加。その際、井上日召、前田虎雄を知り、共に進撃に参画した。 袁世凱の死後、日本軍の革命派対策の方針が変更され、占領地の確保が困難になり、中華革命党も解散するにおよび、憲一郎は特殊任務を解任された。憲一郎は青島を脱出して大連に至り、・・・福井県出身の明治・大正期の新聞記者・漢学者で、大連で私塾の振東学社を主宰、大陸の青年の教育に生涯をかけ<、>大陸浪人に多大なる精神的影響を与えた・・・金子雪斎の振東学社に入り、その塾長として寄寓、かたわら雑誌「大陸の日本」の編さんを預かる。大正6年(1917年)9月、母まさの訃報に接して帰国した。この年、頭山満門下となる。 大正7年(1918年)7月、シベリア出兵が決定し、憲一郎は再度、陸軍通訳官(大尉待遇)として応召、第12師団に配属され約1年2ヶ月の諜報勤務につき、満州、シベリアで過ごした。 大正8年(1919年)10月、勤務を終り内地に帰還した憲一郎は、頭山満翁の秘書となり、その提唱する日支提携論(日本・支那提携論)のみが、東亜の時局を安定させる方途であることに同調し、これの実現に奔走した。・・・
 大正13年(1924年)憲一郎は、張作霖の顧問に就任するよう要請されるとともに当時の関東軍首脳部からも推薦されており、本人もこれを受諾したが、はからずもカリエス発病のため土浦の新治病院に転地療養することになった。・・・昭和元年(1926年)この頃、憲一郎、井上日召、橘孝三郎等、水戸に会合し、時局を分析した。昭和3年(1928年)5月、憲一郎は奏任官待遇陸軍通訳官として応召、5月~10月まで済南事変に従軍した。同年6月4日に張作霖爆殺事件が起った。紛争解決後に招集解除となった。同年10月14日、郷里茨城県土浦市真鍋台に帰り、柴山塾を開設した。
 昭和6年(1931年)2月、・・・頭山満の3男<の>・・・頭山秀三が天行会を設立し、憲一郎が理事に就任した。・・・
 昭和14年(1939年)3月20日に勤皇まことむすびを結成し運動を展開、同年8月、湯浅倉平内大臣暗殺予備事件のダイナマイト所持で同年検挙された。昭和16年(1941年)5月に仮出所した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E9%96%93%E6%86%B2%E4%B8%80%E9%83%8E


[特務機関]

 「日露戦争中、スウェーデン駐在武官の明石元二郎大佐は「明石機関」を設置し、ロシア国内の反体制派への支援等の活動を行った。この活動は、陸軍における最初の本格的な特殊任務として、陸軍中野学校の授業でも題材とされた。この種の活動を行う組織が「特務機関」と称されたのは、シベリア出兵に際して、純粋な作戦行動以外に生じた種々の複雑困難な問題に対応する必要から、1919年に現地における情報収集・謀略工作を担当する機関を設置したときである。「特務機関」の名称の発案者は、当時のオムスク機関長高柳保太郎陸軍少将で、ロシア語の「ウォエンナヤ・ミシシャ」の意訳とされる。
 このとき設置された特務機関の任務は、統帥の範囲外の軍事外交と情報収集とされた。初期の特務機関はシベリア派遣軍の指揮下で活動し、機関員の辞令はシベリア派遣軍司令部附として発令され、その業務は軍参謀長の監督を受けた。はじめ、ウラジオストク、ハバロフスク等各地に設置されたが、戦局の推移にともない改廃・移動が度々なされた。シベリア撤退後は、そのままハルビン特務機関を中心に、ソ連各地で情報収集にあたっていた。1940年にそのハルビン特務機関は関東軍情報部に、それ以外の各特務機関は情報部支部へと改編された。それら11支部あった情報部支部は1945年8月には特別警備隊に改編され、終戦を迎えた。
 また明治期後半から、陸軍は<支那>各地の地方政権や軍閥に軍事顧問(団)を派遣した。それらの軍事顧問と配下の機関員を含む組織全体でもって「特務機関」として活動していた。例えば袁世凱政権・張作霖政権等に軍事顧問が派遣されていた(形の上では招聘)。また、東南アジア各地においても<支那>における軍事顧問と同様の軍事顧問という形での「特務機関」が存在し、それらは反英(米・蘭)運動を煽動する各種の工作活動を行った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E5%8B%99%E6%A9%9F%E9%96%A2

⇒藤井斉がリクルートされたと私が見ている1924年時点で、既に20年にもわたって、陸軍は、各種特務機関を通じて、盛んに諜報活動を積み上げてきており、杉山元らが、同じような発想でもって、表の職務を持っている自分達を、陸海軍等のカネを使って裏で一種の特務機関化して、日本国内を対象として諜報活動を行うことにした、と、私は見ている次第だ。

 なお、諜報活動耐性があったと考えられるところの、ロシア人、満州族、モンゴル人、漢人、等に比して、そんな耐性とは無縁の日本人達を対象とする諜報活動は、赤子の手をひねるようなものであったと思われる。(太田)

(続く)