太田述正コラム#13549(2023.6.17)
<皆さんとディスカッション(続x5565)/和辻哲郎の躓きが私を導き、厩戸皇子を再訪させ、かつ、日本文学発祥の秘密を解明させた>

<太田>

 本日掲載したところの、オフ会「講演」原稿、は、1から読み出すと「躓」いちまう人が多いと思うので、並み読者の方は、目次を見た上で、源氏物語のところから始めて自分が面白そうだと思った箇所だけ読むといいよ。
 とりわけ御用とお急ぎの方は、冥土の土産だと思って竹取物語のところだけでもぜひどうぞ。目から鱗だぜ、とPR。

<太田>

 安倍問題/防衛費増。↓

 <・・・。↓>
 「産総研漏えい、データ提供の1週間後に中国企業が特許申請…内容が類似・・・」
産総研漏えい、データ提供の1週間後に中国企業が特許申請…内容が類似
https://mainichi.jp/articles/20230616/k00/00m/040/338000c

 ウクライナ問題。↓

 <タフねえ。↓>
 Photo Shows U.S. Bradley After ‘Direct Hit’ by Russian Rocket—’Outstanding’・・・
https://www.newsweek.com/bradley-tanks-ukraine-russian-rocket-photo-counteroffensive-1807170
 <なーに、そのうち・・。↓>
 Despite war, post-Soviet states find breaking up with Russia hard to do・・・
https://www.csmonitor.com/World/Europe/2023/0614/Despite-war-post-Soviet-states-find-breaking-up-with-Russia-hard-to-d

 それでは、その他の国内記事の紹介です。↓

 バイじゃない国際会議、多過ぎ。↓
 
 「日米比が北朝鮮問題など協議…「台湾海峡の平和が重要」・・・」
https://japanese.joins.com/JArticle/305606

 騒ぐな。↓

 Japan redefines rape and raises age of consent in landmark move・・・
https://www.bbc.com/news/world-asia-65887198
 Japan (finally) changes a century-old law: The age of consent is now 16・・・
https://www.washingtonpost.com/world/2023/06/16/japan-age-of-sexual-consent-16/

 そのくせ、幕末維新期には「決断」できなかったな。↓

 「豊臣政権ではなく家康を選んだ前田利長の「決断」・・・」
https://news.yahoo.co.jp/articles/9a4e86b2517497cb006b7cf25996336d093203ea

 信長は縄文的弥生人のカガミだった。↓

 「・・・世間では「魔王」と言われることもある信長だが、・・・身体障害者<の>乞食・・・に同情して、私財を投じ、助けてやってくれないかと促した・・・逸話からは「仏」の顔を覗くことができる。  また信長は「怖くて近寄りがたい」イメージが流布しているが、若い頃は、踊りの興行をし、自ら「天人の衣装」をまとい、小鼓を打ち女踊をしたこともある。
 津島の年寄たちを御前に召して、親しく気安く声をかけ、暑い最中でもあったので、年寄たちを団扇であおいでやってもいる。「お茶を飲まれよ」とも勧めたという。年寄たちは、暑さの疲れを忘れ、感涙を流して帰っていったそうだ。・・・
 <また、>信長は不正を憎む精神を持ち、家臣が謀叛をしても翻意するならばそれを許す寛大さを持っていたと言えよう。残虐・傍若無人で塗りつぶされるだけの人物では決してなかったのだ。」
https://news.yahoo.co.jp/articles/dcb7bfc98061862ea73685494d89cc5b15a4213c

 日・文カルト問題。↓

 <「回収」?↓>
 「【写真】日本から回収した高麗の仏教経典『妙法蓮華経』・・・」
https://japanese.joins.com/JArticle/305597
 <観光客、歓迎。↓>
 「韓国野党 来週福島原発訪問へ=社民党が招待・・・」
https://jp.yna.co.kr/view/AJP20230616005000882?section=politics/index

 労作記事だな。
 どうして、子供達がかくれんぼやったのか、よく分かるわ。↓

 Mapping the search for Colombia’s plane crash children・・・
https://www.bbc.com/news/world-latin-america-65915078

 慶賀に堪えない。それも、基本的には杉山元らのおかげだなんだぜ。↓

 ・・・Serbian-American economist Branko Milanovic details how actual “global inequality,” as he defines it — that is, the income disparity between all citizens of the world, at a given time and adjusted for the differences in prices between countries — has dropped for the past two decades.
 A significant contributor to this phenomenon has been China’s emergence as an economic titan and the entry of hundreds of millions of people in the developing world into a new global middle class.・・・
https://www.washingtonpost.com/world/2023/06/16/inequality-global-income-branko-milanovic/

 それ人類一般というより、ゲルマン人じゃないのかい?↓

 「・・・フランコパンによれば、人類は時間ギリギリで到着する無礼な客みたいなもので、大混乱を引き起こし、自分たちが招かれた家を破壊しているという。・・・」
https://news.yahoo.co.jp/articles/2bfe0b18865f2e19857cc9745f3f21efbe088c25

 中共官民の日本礼賛(日本文明総体継受)記事群だ。↓

 <邦語媒体より。
 おめでとう。↓>
 「ネイチャーが選ぶ「研究論文の貢献度」 中国がついに米国抜く・・・」
https://mainichi.jp/articles/20230616/k00/00m/040/338000c
 <ここからは、レコードチャイナより。
 ご愛顧に深謝。↓>
 「「鬼滅の刃」伊黒小芭内と甘露寺蜜璃の胸キュンシーンを中国のアニメファンも絶賛「お似合いすぎて尊い」・・・中国版ツイッター・微博(ウェイボー)・・・」
https://www.recordchina.co.jp/b915691-s25-c30-d0203.html
 <あらま。↓>
 「英BBCが日本の痴漢集団の黒幕は中国人と報道、中国警察が容疑者の男を特定・・・香港メディアの香港01・・・」
https://www.recordchina.co.jp/b915781-s25-c30-d0193.html
 <報道価値なし。↓>
 「呉江浩大使「両国の青年が中日関係の素晴らしい未来を切り開くために青春の力を注いでほしい」・・・人民網日本語版・・・」

https://www.recordchina.co.jp/b915866-s6-c100-d0000.html

 一人題名のない音楽会です。
 すっかりハマってしまったので、引き続き、ルイーズ・ファランクを取り上げます。
 彼女が、人類史上これまでで最高の女性作曲家、で間違いないでしょう。
 但し、クラシック音楽で言う巨匠クラスかどうかは微妙なところです。
 改めて、女性って最初からリミッターがかかった状態で生まれて来て本当に可哀そうに思います。
 しかし、女性は図抜けた存在になることに一般に余り関心がなさそうなので、それで幸せなんでしょうね。
 ポリティカル・コレクトネスに真っ向から反逆する閑話であいすみません。
 話を戻しますが、今回は、いつも心掛けているところの30分枠に収めることができませんでした・・1時間ちょっとです・・が、あしからず。

Variations concertantes sur une mélodie Suisse, Op. 20:
0:00:00 I. Introduzione. Andante maestoso
0:01:09 II. Tema. Andante
0:02:07 III. Variation I. Più mosso
0:02:57 IV. Variation II
0:03:50 V. Variation II bis. Espressivo
0:04:59 VI. Variation III. Brillante
0:05:54 VII. Variation IV. Andante sostenuto
0:08:25 VIII. Finale. Vivace

Violin Sonata No. 1, Op. 37:
0:10:47 I Largo-Allegro
0:19:59 II Poco adagio
0:25:57 III Finale. Allegro vivace

Violin Sonata No. 2, Op. 39:
0:31:32 I Allegro grazioso
0:42:16 II Scherzo. Allegro
0:47:35 III Adagio
0:54:21 IV Finale. Allegro

https://www.youtube.com/watch?v=oEKrgePt1ck

–和辻哲郎の躓きが私を導き、厩戸皇子を再訪させ、かつ、日本文学発祥の秘密を解明させた–

1 和辻哲郎の躓き

2 どうして和辻哲郎は躓いたのか

[『源氏物語』とは何だったのか]
一 プロローグ
二 私見
(一)どうして紫式部は源氏物語を書いたのか
(二)日本でどうして長編純文学がその後明治維新後まで現れなかったのか
(三)どうしてそのタイトル/主人公に源氏という姓を用いたのか
[源氏物語と仏教]
[武士創出期の諸天皇–陽成天皇と光孝・宇多・醍醐天皇]
一 陽成天皇
二 光孝天皇
三 宇多天皇
四 醍醐天皇
[古今和歌集と土佐日記]
一 古今和歌集 
(一)プロローグ
(二)本論
二 土佐日記
[竹取物語]
[伊勢物語]
[後宇多天皇と後醍醐天皇]
[蜻蛉日記と更級日記]
一 始めに
二 蜻蛉日記
三 更級日記
[紫式部の同世代才女達]
 ・清少納言(966頃~1025年頃)
・和泉式部(978年頃~?年)
 ・赤染衛門(956年頃?~1041年以後)
 ・伊勢大輔(たいふ。989年?~1060年?)

3 武士創出の歴史を振り返る
(1)始めに
(2)武士創出の歴史
 ア ホップ—————|
|
[阿衡事件] |
[宇多天皇の出家] |
一 前史 |
二 宇多天皇の出家 |
|
 イ ステップ ←←←←←←| |
 ウ ジャンプ

[源経基の嫡男・源満仲]

4 平安時代初中期の内憂外患
(1)始めに
(2)内憂
ア 伊予親王の変(807年)
 イ 薬子の変(くすこのへん。810年)
 ウ 承和の変(じょうわのへん。842年)
 エ 善愷訴訟事件(ぜんがいそしょうじけん。845~846年)
 オ 応天門の変(866年)
 カ 元慶の乱(がんぎょうのらん。878年)
 キ 阿衡事件(887~888年)
 ク 寛平・延喜東国の乱(889年)
 ケ 昌泰の変(しょうたいのへん。901年)
 コ 承平天慶の乱(935~941年)
 ・平将門の乱
 ・藤原純友の乱
 サ 天慶の出羽俘囚の乱(938年)
 シ 安和の変(あんなのへん。969年)
 ス 寛和の変(かんなのへん。986年)
 セ 長徳の変(995年)
 ソ 平忠常の乱(1028年)
(3)外患
 ア 弘仁の新羅の賊(811年、813年)
 イ 弘仁新羅の乱(866年)
 ウ 山春永らの対馬侵攻計画(866年)
 エ 貞観の入寇(869年)
 オ 寛平の韓寇(893、894年)
 カ 長徳の入寇(997年)
 キ 刀伊の入寇(といのにゅうこう。1019年)

[太政大臣・摂政・関白]

1 和辻哲郎の躓き

 私が和辻の『人間の学としての倫理学』を、正しく読んでいたかのように見えるのが、以前の下掲の私の文章だ。↓

 「私は、帰国子女のはしりの一人ですが、小学校5年生の時(1959年)にエジプトから日本に帰国した時に感じたカルチャーショックは大きく、中学から大学時代にかけて日本文化論のジャンルの本を読みあさったものです。その中で、最も印象に残っているのが梅棹忠夫の「文明の生態史観」(『中央公論』掲載1957年)と和辻哲郎の「風土―人間的考察」(1935年)です。(私の欧州文明とアングロサクソン文明の対置論は、お二人の説に違和感を覚えた点・・イギリス文明と欧州文明を区別していない・・を掘り下げていった「成果」です。)
 和辻の有名な著作としては、ほかに「古寺巡礼」(1919年)や「鎖国」(1950年)などがありますが、現時点で振り返ってみると、「人間の学としての倫理学」(1934年。「人間」を「じんかん」と読ませる)の重要性が際だっています。(エージェンシー関係の重層構造に着目する、私の日本型経済体制論(コラム#40、42、43参照)は、この本に触発されたところが大きい、と今になって思います。)
 ご存じない方のために、和辻の人間(じんかん)論を簡単に紹介しておきましょう。
 「人間」とは、輪廻転生の五道(六道)の一つを表す仏教用語(漢語)であって、本来は「人(human、man)の世界」を意味し、「人」の意味はありません。(「人間萬事塞翁馬」という用例を想起せよ。)しかし、日本ではそれが「人(ひと)」と同じ意味の言葉として転用されるようになりました(和辻「人間の学としての倫理学」岩波全書1934年、16~17頁)。それは、「ひとの物を取る」、「ひと聞きが悪い」、「ひとをばかにするな」のように、もともと大和言葉の「ひと」には、「他人」、「世間」、「自分」の三つの意味があった(14頁)からです。
 このほかにも日本語には、「人(ひと)」=「人間」、に関連する言葉で同じように複合的な意味を持つ「兵隊」、「友達」、「なかま」、「郎等」、「若衆」、「女中」、「連中」などがあります(20頁)。
 これらのことから日本人は、「人が人間関係に於てのみ初めて人であ<る>」(12頁)と考えているとし、この考え方には普遍性があると和辻は主張したのです。
 これは、欧米の個人主義と全体主義(私に言わせれば、英米の個人主義と欧州の全体主義)のいずれをも批判する含意を持つ主張でした。
 すなわち和辻は、「アリストテレス<は>考察の便宜上個人的存在を抽象し」(52頁)ただけだったのに、「近代・・ブルジョワ社会<は>、・・恰も現実に於て<個人が存在する>かの如くに見」て「個人主義的な思想を生み出す」に至ってしまった(53頁)と個人主義を批判するとともに、「マルクス・・は、人間存在に於て特に『社会』の契機をのみ捕」えた(183頁)とし、全体主義も批判したのでした。」(コラム#113)
 
 しかし、中には、下掲のように、勘違いをしてしまっているかのように見える人もいる。↓

 「『倫理学』<・・『人間の学としての倫理学』ではないことに注意(太田)・・>は、その上巻のみの英語訳がアメリカで出版されている。しかしその題名は“Watsuji Tetsuro’s Rinrigaku:Ethics in Japan”<(注1)>。

 (注1)Watsuji Tetsuro’s Rinrigaku: Ethics in Japan (Suny Series in Modern Japanese Philosophy) Paperback – October 3, 1996
https://www.amazon.co.jp/Watsuji-Tetsuros-Rinrigaku-Japanese-Philosophy/dp/0791430944

 これもまた不幸な扱いである。和辻は日本社会に根ざした倫理を体系化したわけではなく、あくまでも西洋にも通じる普遍的な理論のつもりで叙述しているにもかかわらず、欧米の研究者からは「リンリガクという名の日本のethics」を記述した本と見なされてしまっている。
 ・・・こ<れ>は浅薄な誤解<だ。>」
https://www.webchikuma.jp/articles/-/390

 翻訳者のRobert Carter and Yamamoto Seisaku(注2)
https://www.proquest.com/docview/216881757
が本当に勘違いをしてしまっている可能性は、共訳者の山本の経歴からしてまずないので、このタイトルは、英語圏の人々へのマーケティングの観点からあえてそう付けたものではなかろうか。

 (注2)山本誠作(1929年~)。京大文卒、同大院博士課程退学、米エモリー大Ph.D、「ホワイトヘッドの宗教哲学」で京大博士(文学)、同大教養部助教授、教授、名誉教授、関西外大教授。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E8%AA%A0%E4%BD%9C

 他方、私は、まことにもって恥ずかしい限りだが、同じ和辻による『風土』、を、ずっと前に読んでいたところ、『人間の学としての倫理学』を読んだことによって、再度読み返すことなく、『風土』ではなく『風土–人間学的考察』であって「人間学的考察」という副題がついていた
https://kotobank.jp/word/%E9%A2%A8%E5%9C%9F%28%E5%92%8C%E8%BE%BB%E5%93%B2%E9%83%8E%E3%81%AE%E8%91%97%E6%9B%B8%29-1584806
こともすっかり忘れてしまっていて、『風土』には、本来人というものは人間(じんかん)的存在なのだがそれが顕在化しているのは基本的に日本という地帯においてのみである、と書いてあったと勝手に思い込んでしまい、『人間の学としての倫理学』は普遍的アプローチなのに『風土』は非普遍的アプローチだ、的なイターイ総括をしてしまっていたのだ(コラム#13388)。
 実際には、和辻は、それはあらゆる地域において顕在化しているのだけれど、風土の違いに応じて地帯・・大きくは、南アジアを中心とするモンスーン地帯、西アジアの砂漠地帯、ヨーロッパの牧場地帯(注3)・・ごとに異なった形で顕在化している、と主張していた、らしいというのに・・。
https://www.shunan-u.ac.jp/_file/ja/article/4535/fileda/2/

 (注3)「モンスーン地帯には受容的忍従的生き方と汎神論的世界観が、砂漠地帯には戦闘的で団結と服従を重んずる生き方が、牧場地帯には自然のなかに法則をみいだす合理的生き方が生まれたとしている。そして日本人はモンスーン地帯の受容的忍従的生き方を基調とするが、東アジアは南アジアより四季の変化が激しいので、激情と淡泊なあきらめが混じり合っている点にその精神的特徴があるとみている。」
https://kotobank.jp/word/%E9%A2%A8%E5%9C%9F%28%E5%92%8C%E8%BE%BB%E5%93%B2%E9%83%8E%E3%81%AE%E8%91%97%E6%9B%B8%29-1584806

 その上でだが、『倫理学』の「誤解」に基づいた英訳タイトルにせよ、私による『風土』の誤読にせよ、その責任の一半は和辻の『倫理学』のコアとも言うべき、『人間の学としての倫理学』の叙述の浅薄性にある、と、私は、この際、あえて和辻を叱責したい。
 和辻が浅薄だったのは、彼が、人を人間(にんげん/じんかん)と表現するのが日本語だけなのはどうしてなのか、という疑問を抱かなかったところにある。
 別の言い方をすれば、和辻の浅薄性は、日本人しか、「人が人間関係に於てのみ初めて人であ<る>」、と思わなかったのはどうしてなのか、という疑問を抱かなかったところにある。
 疑問を抱いていたならば、それは、相当昔から、世界で、日本においてのみ、人々が、「他人」、「世間」、に常に配慮しながら「自分」の言動を律している、からである可能性に思い至り、そのような生き様をする言葉として、私が作るまでもなく、「人間主義」に類する言葉を彼自身が作っていたはずだからだ。
 私は、『人間の学としての倫理学』を読んで、そのような可能性に思い至ったからこそ、それから10年ほど経った時点で、非「人間主義」の諸社会の組織の在り方と「人間主義」社会における組織の在り方とを対置させるところの、「「日本型」経済体制論」を書いたのだし、それから30年以上経ってから、人間主義の発現形態や発現度でもって世界を空間的、時間的に区別するところの、人間主義文明論的歴史観に到達することができたのだが、和辻は、『人間の学としての倫理学』を上梓した1934年から15年後に『倫理学』を書き終えた1949年に至っても浅薄なままで、そのまま1960年に死を迎えたたために、1996年に『倫理学』の前半部分の英訳本において、あたかもそれが、「「人々」」が、「「他人」、「世間」、に常に配慮しながら「自分」の言動を律」すべきであるとされる日本社会にだけ通用する倫理学、であるかのごとき、オリエンタリズム臭ぷんぷんの’Ethics in Japan’という、マーケティング用の羊頭狗肉的なタイトルを付けられる羽目になったわけだ。
 以下、蛇足。
 「和辻の門下で学んだ日本倫理思想史の研究者、相良亨<は、>「日本における道徳理論」(一九六八年初出、『日本人の心』増補新装版、東京大学出版会に再録)で・・・、近代西洋の個人主義的な人間観だけでなく、日本の思想が伝統的に抱えている傾向を克服する営みを、『倫理学』に見出している。
 和辻は、「個人意識」の問題として倫理を論じることが、そもそも間違いだとする。人間は常に他者との何らかの関わりのなかで生きているのであり、一人でものを思うときも、その意識は他者との言葉や記憶の共有を前提にしている。したがって、倫理というものが働く場所は、人と人とのあいだ、具体的な「実践的行為的連関」なのである。
 和辻自身はこれを「近世の個人主義的人間観」に対置しているが、相良によればそれは同時に、主観的な「まこと・まごころ」の発揮を礼賛する日本人の傾向をのりこえるものとして、重要な意味をもつ。純粋な「まごころ」に根ざした行動ならば許されるという感覚が、上位者によるハラスメントを容認し、はては違法行為やテロリズムへの同情に人を導いてしまうことは、たしかにこの二十一世紀の日本にも見られる。それが本当に日本だけの傾向かどうかについては検討の余地はあるものの、客観的な「行為的連関」の中で行動の善悪が決まると説く和辻の理論は、たしかにこれに対する強い批判になっている。」(苅部直「和辻哲郎『倫理学』」より)
https://www.webchikuma.jp/articles/-/390 前掲
と指摘しているが、これには恐れ入る。
 まごころ(真心)は「真実の心。偽りや飾りのない心。誠意。」
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E7%9C%9F%E5%BF%83/
であるところ、「誠意」は、「私利・私欲を離れて、正直に熱心に事にあたる心。」
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E8%AA%A0%E6%84%8F/
であって、まさに、「人」が「「「他人」、「世間」、に常に配慮しながら「自分」の言動を律」する「心」だからだ。
 もとより、それが、いかなる「「他人」、「世間」」の顕在的・潜在的意図に合致しているとその「人」が思っているのか、また、それが、本当に、その「「他人」、「世間」」の顕在的・潜在的意図に合致しているのか、そしてまた、合致していたとして、「事にあた」った結果、その「「他人」、「世間」」の顕在的・潜在的意図に合致した結果をもたらしたかどうか、が問題になるのであって、それぞれに齟齬がなければないほど、いつか褒められる可能性が高いけれど、永遠に無視されたり非難されたりして終わる可能性も常にある、というだけのことだ。

2 どうして和辻哲郎は躓いたのか

 表記について、「和辻哲郎は「日本精神史研究」の中で、日本の奈良時代以前の古代文化を仏教の受容によって代表させたが、平安時代の日本文化については、清少納言と紫式部によって代表される女流文学を以てその典型とした。ところで、平安時代の女流文学、特に紫式部の「源氏物語」に高い価値を認め、そこに現わされている「もののあはれ」なるものを、日本の文芸のみならず、日本人一般の精神的な本質として称揚した者に、本居宣長が上げられる。それ故和辻の平安文学論が、宣長の所説を大きく意識したものになるのは、ある意味自然なことであった。・・・
 和辻は、女の心に咲いた「もののあはれ」を、日本の文芸の一つのありかたとして認めながらも、それを平安時代という一時代に局限されたものとして、日本文学一般とは切離して考えるべきだというのである。その点では、「もののあはれ」を、日本文学の歴史に通底する普遍的な理念としてとらえた宣長とは根本的に異なっている。宣長はめめしさが日本人の本質でよいではないか、と割り切るのに対して、日本人はめめしいばかりではだめだ、と和辻は言っているわけである。」
https://philosophy.hix05.com/Japanese/watsuji/watsuji06.heian.html
ということから、和辻の、本居宣長/もののあはれ、理解に問題があったことが、その原因の一つではないか、と思い、上出に登場する、和辻の『日本精神史研究』
https://www.aozora.gr.jp/cards/001395/files/49905_63366.html ←全文が読める
を読んでみた。↓

 「「もののあはれ」を文芸の本意として力説したのは、本居宣長の功績の一つである。彼は平安朝の文芸、特に『源氏物語』の理解によって、この思想に到達した。文芸は道徳的教誡を目的とするものでない、また深遠なる哲理を説くものでもない、功利的な手段としてはそれは何の役にも立たぬ、ただ「もののあはれ」をうつせばその能事は終わるのである、しかしそこに文芸の独立があり価値がある。このことを儒教全盛の時代に、すなわち文芸を道徳と政治の手段として以上に価値づけなかった時代に、力強く彼が主張したことは、日本思想史上の画期的な出来事と言わなくてはならぬ。
 しからばその「もののあはれ」は何を意味しているのか。彼はいう(源氏物語玉の小櫛、二の巻、宣長全集五。一一六〇下)、「あはれ」とは、「見るもの、聞くもの、ふるゝ事に、心の感じて出る、嘆息の声」であり、「もの」とは、「物いふ、物語、物まうで、物見、物いみなどいふたぐひの物にてひろくいふ時に添ふる語」(同上一一六二上)である。従って、「何事にまれ、感ずべき事にあたりて、感ずべき心をしりて、感ずる」を「物のあはれ」を知るという(同上一一六二上)。感ずるとは、「よき事にまれ、あしき事にまれ、心の動きて、あゝはれと思はるゝこと」である、『古今集』の漢文序に「感二鬼神一」と書いたところを、仮名序に「おに神をもあはれと思はせ」としたのは、この事を証明する(同一一六一―六二)。後世、「あはれ」という言葉に哀の字をあて、ただ悲哀の意にのみとるのは、正確な用法とは言えない。「あはれ」は悲哀に限らず、嬉しきこと、おもしろきこと、楽しきこと、おかしきこと、すべて嗚呼ああと感嘆されるものを皆意味している。「あはれに嬉しく、」「あはれにをかしく、」というごとき用法は常に見るところである。ただしかし、「人の情のさま/″\に感ずる中に、うれしきこと、をかしきことなどには、感ずること深からず、たゞ悲しきこと憂きこと恋しきことなど、すべて心に思ふにかなはぬすぢには、感ずることこよなく深きわざなるが故に、しか深き方をとりわきて」、特に「あはれ」という場合がある。そこから「あはれ」すなわち「哀」の用語法が生まれたのである(同一一六一下)。
 宣長の用語法における「物のあはれ」がかくのごとき意味であるならば、それは我々の用語法における「感情」を対象に即して言い現わしたものと見ることができよう。従って彼が、これを本意とする文芸に対して、哲理の世界及び道徳の世界のほかに、独立せる一つの世界を賦与したことは、時代を抽(ぬき)んずる非常な卓見と言わなくてはならぬ。
 しかし彼は、文芸の本意としての「物のあはれ」が、よってもって立つところの根拠を、どこに見いだしたであろうか。それは何ゆえに哲理及び道徳に対してその独立を主張し得るのであるか。彼は文芸の典型としての『源氏物語』が、「特に人の感ずべきことのかぎりを、さま/″\に書き現はして、あはれを見せたるもの」であると言った(同一一六二下)。そうしてこの物語をよむ人の心持ちは、物語に描かれた事を「今のわが身にひきあて、なずらへて」物語中の人物の「物のあはれをも思ひやり、おのが身のうへをもそれに比べ見て、物のあはれを知り、憂きをも思ひ慰むる」にあると言った(同一一四七上)。すなわち表現されたる「物のあはれ」に同感し、憂きを慰め、あるいは「心のはるゝ」(同一一五二上)体験のうちに、美意識は成立するわけである。が、表現された「物のあはれ」は、いかなる根拠によって「心をはれ」させ、「うきを慰める」のであるか。また晴れた心の清朗さ、慰められた心の和なごやかさは、憂きに閉じた心よりもはるかに高められ浄きよめられていると見てよいのであろうか。よいとすれば、表現された「物のあはれ」は、何ゆえに読者の心を和らげ、高め、浄化する力を持つのであるか。これらの疑問を解くことなくしては、「物のあはれ」によって文芸の独立性を確立しようとする彼の試みは、無根拠に終わると言われなくてはならぬ。
 彼がここに根拠づけとして持ち出すものは、「物のあはれ」が「心のまこと」「心の奥」であるという思想である。

⇒宣長による「物のあはれ=人間主義」宣言だが、ここまでの、和辻による宣長「物のあはれ」理解は問題がなさそうだ。(太田)

 彼は、「道々しくうるはしきは皆いつはれる上面うわべのことにて、人のまことの情を吟味したるは、かならず物はかなかるべき」ゆえん(石上私淑言下。全集五。五九〇―九一)を説いて、人性の根本を「物はかなくめゝしき実(まこと)の情(こころ)」に置いた。すなわち彼にとっては、「理知」でも「意志」でもなくてただ「感情」が人生の根柢なのである。従って、表現された「物のあはれ」に没入することは、囚われたる上面うわべを離れて人性の奥底の方向に帰ることを意味する。

⇒素晴らしい。
 そう、「人性の奥底<に潜む人間主義>の方向に帰る」ために『源氏物語』は書かれたのであり、それを読む人が、人間主義に帰ってくれることを紫式部は期待したのだ。(太田)

 特に彼が典型と認める中古の物語は、「俗よの人の情とははるかにまさりて」、「こよなくあはれ深き」、「みやびやかなる情こころ」のかぎりを写している(玉の小櫛、全集五。一一九八―九九)。ゆえに、これを読む人の心には、その日常の情よりもはるかに高い、浄められた、「物のあはれ」がうつってくるのである。

⇒イエース!(太田)

 かくして前の疑問は、彼の「人情主義」の立場から解かれている。が、かく「物のあはれ」を根拠づけるとともに、「物のあはれ」をば単に感情を対象に即して言い現わしたものとのみ見ることは許されなくなる。もとより「物のあはれ」はその領域としては「人の感ずべき限り」を、すなわち広さにおいては、単に官能的のみならず道徳的宗教的その他一切の感情を、――たとえば人の品位に感じ仏心の貴さにうたれるというごときことをも、――また深さにおいては、およそ人間の感受力の能う限りを、包括しなくてはならない。しかし最初に定義したごとくいかなる感情も直ちにそのままに「物のあはれ」と見らるべきであるとすれば、右のごとき「物のあはれ」の浄化作用は解き難いものとなるであろう。そこで彼は、(ここに説くごとき論理的必要によってではないが、)「物のあはれ」に性質上の制限を加える。
 (一) 人としては感情なきものはない。しかし彼は「物のあはれ知らぬもの」を認める。その一例は法師である。出家の道は「物のあはれを知りては行ひがたきすぢなれば、強しひて心強く、あはれ知らぬものになりて、行ふ道」(全集五。一一六五)であるゆえに、法師が真に法師である限り、彼は「あはれ」知らぬものである。この意味では、「物のあはれ」は世間の人情に即するものと解せられなくてはならぬ。また他の一例は夫たる帝(みかど)が悲嘆に沈まれているにかかわらず、お側にも侍らで、月おもしろき夜に夜ふくるまで音楽をして遊ぶ弘徽殿(こきでん)のごとき人である(同一一六四)。もとより彼女は喜びあるいは苦しむ心を持たぬ人ではない。彼女が帝の悲嘆に同情せぬのは、その悲嘆が彼女の競争者たる他の女の死に基づくゆえである。しかしたとい、その悲嘆さえもが彼女の嫉妬を煽るにしろ、その嫉妬のゆえに心を硬くして、夫の苦しみに心を湿らさぬ女は、「物のあはれ」を知るとは言えない。この例によって見れば、「物のあはれ」は単に自然的な感情ではない。(たとえば嫉妬のごとき。)むしろある程度に自然的な感情を克服した、心のひろい、大きい、同情のこころである。

⇒「物のあはれ=人間主義」だというわけだ。(太田)

 (二) 「物のあはれ知り顔をつくりて、なさけを見せむ」とするのは、まことに「あはれ」を知るのではない(同一一六六上)。すなわちここでは感情の誇張を斥ける。感情が純でなくては「物のあはれ」と言えぬ。
 (三) 「物のあはれを知り過す」のも「物のあはれ」を知るのでない(同一一六六下)。この「知り過す」というのは、深く知る意ではなく、さほどに感ずべきでないことにもさも感じたようにふるまって、そのために、深い体験を伴なうべきことも軽易に、浮か浮かと経験して通ることである。従ってその経験は多岐であっても、内容は浅い。たとえば移り気に多くの女を愛するものは、「なさけあるに似たれども然らず。まことには物のあはれ知らざるなり。……これをもかれをもまことにあはれと思はざるからにこそはあはれ」(同一一七〇下)。一人を愛する心の深さを知らぬものが、すなわちまことに「物のあはれ」を知らぬものが、多くの人に心を移すのである。これは感傷や享楽的態度を斥けた言葉と見られるであろう。従って「物のあはれ」は、感傷的でない、真率な深い感情でなくてはならぬ。
 これらの制限によって、「物のあはれ」は、世間的人情であり、寛い humane な感情であり、誇張感傷を脱した純な深い感情であることがわかる。従って「物のあはれ」を表現することは、それ自身すでに浄められた感情を表現することであり、それに自己を没入することは自己の浄められるゆえんであることもわかる。かくて彼が古典に認める「みやび心」、「こよなくあはれ深き心」は、我らの仰望すべき理想となる。

⇒物のあはれ=みやび心=こよなくあはれ深き心=人間主義!
 中井千之(ちゆき。1929~2021年。上智大文(独文)卒、同大院博士課程満期退学、ボン大博士(文学)、上智大文助手、専任講師、助教授、教授、名誉教授。
https://d.hatena.ne.jp/keyword/%E4%B8%AD%E4%BA%95%E5%8D%83%E4%B9%8B )も、「宣長は『源氏物語』の本質を、「もののあはれをしる」という一語に集約し、個々の字句・表現を厳密に注釈しつつ、物語全体の美的価値を一つの概念に凝縮させ、「もののあはれをしる」ことは同時に人の心をしることであると説き、人間の心への深い洞察力を求めた。それは広い意味で、人間と、人間の住むこの現世との関連の意味を問いかけ、「もののあはれをしる」心そのものに、宣長は美を見出した。」(中井千之「「もののあはれをしる」と浪漫的憧憬」より)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%82%E3%81%AE%E3%81%AE%E3%81%82%E3%81%AF%E3%82%8C
https://digital-archives.sophia.ac.jp/pub/repository/00000006258/pdf/4_0-DC4_5a5c79697e439591d99864faf3c9b205948efc218f4c4074588a769a13e4be7d_1681647857889_200000020552_000002600_9.pdf?dl=1 (太田)
 
 しかし彼は果たして理想主義を説いているであろうか。「物はかなきまことの情」が人生の奥底であり、そうして「物のあはれ」が純化された感情であるとすれば、その純化の力は人性の奥底たるまことの情に内在するのであるか。すなわち人性の奥底に帰ることが、浄化であり純化であるのか。言い換えれば、彼のいわゆる人性の奥底は真実の Sein であるとともに Sollen であるのか。彼はこの問題に答えておらぬ。彼が「物のあはれ」を純化された感情として説く典拠は、『源氏物語』に散見する用語例である、従って結局は紫式部の人生観である。しかし彼は紫式部の人生観がいかなる根拠に立つかを観察しようとはしない。紫式部は彼にとって究竟の権威であった。彼はただ紫式部に従って、『源氏物語』自身の中から『源氏物語』の本意を導き出し、それをあらゆる物語や詩歌の本意として立てた。我々はここに彼の究竟の、彼の内に内在して彼の理解を導くところの、さらに進んでは紫式部を初め多くの文人に内在してその創作を導いたところの、一つの「理念」が反省せられているのを、見いだすことはできぬ。
 かくのごとく彼自身はこのことを説いていないのであるが、しかし彼の言葉から我々は次のごとく解釈し得る。彼のいわゆる「まごころ」は、「ある」ものでありまた「あった」ものではあるが、しかし目前には完全に現われていないものである。そうして現われることを要請するものである。従ってそれは十分な意味において理想と見られてよい。彼が人性の奥底を説くとき、それは真実在であるとともにまた当為である。そのゆえに、あの「みやび心」は、――「まごころ」の芸術的表現は、――現わされたる理想としての意義を持つのである。
 我々はこの宣長の美学説に相当の敬意を払うべきである。

⇒ここ↑までは、和辻=中井=私、であり、その上で、私であれば、「人性の奥底」の「まごころ」を「芸術的<に>表現」することは、他の諸国や諸地域においても一般的なのだろうか、いや、どうもそうではなさそうだ、となると、日本においてのみ、この「まごころ」、私の言葉で言う人間主義性、を所与のものとして、いや、少なくともそれに期待して、人は言動を行うことができるのではないか、そう、だからこそ、日本においてのみ、人のことを人間とも表現するのではないか、と、私なら考えたであろうところを、あにはからんや、以下↓のように、和辻は、あらぬことを書きなぐり始める。(太田)

 ある意味では、推古仏のあの素朴な神秘主義<(注4)>を裏づけるものは、宣長の意味での「物のあはれ」だと言えなくはない。

 (注4)「広隆寺<の、あの>国宝の弥勒菩薩半跏思惟像<(宝冠弥勒)>・・・は、秦河勝(はたのかわかつ)が聖徳太子から賜ったものと伝えられています。」
https://kyoto-stories.com/4_4_koryuji/

⇒和辻は、川崎のこの論考を生前読めなかったわけだが、「弥勒半跏思惟像と共に悉達太子半跏思惟像が渡来していたと考えられるならば、・・・太子像という名称から上代人達は悉達太子と聖徳太子を同列に見たのではないだろうか。彼らは悉達太子半跏思惟像を拝して、聖徳太子をこの御姿で造仏しようと思ったのではないだろうか。」(川崎滋子)「半跏思惟考」(跡見学園女子大学美学・美術史学科報1979-03)より)(川崎滋子については、跡見学園女子大学の教員のようだが不詳。)
https://core.ac.uk/download/pdf/229231436.pdf
https://atomi.repo.nii.ac.jp/index.php?action=repository_view_main_item_snippet&pn=1&count=20&order=16&lang=japanese&creator=%E5%B7%9D%E5%B4%8E+%E6%BB%8B%E5%AD%90&page_id=13&block_id=21
という説もあり、この説は殆ど連想だけに頼った非実証的なものだが魅力的であるところ、仮にこの説が正しいとすればだが、当時の一連の太子ゆかりの半跏思惟像群中の広隆寺の宝冠弥勒は、人間主義者たる聖徳太子(厩戸皇子)を理想化して描いた最も出来の良い像であると言えそうだ。(太田)

 白鳳天平のあの古典的な仏像やあの刹那の叫びたる叙情詩についても同様である。鎌倉時代のあの緊張した宗教文芸、哀感に充ちた戦記物、室町時代の謡曲、徳川時代の俳諧や浄瑠璃、これらもまた「物のあはれ」の上に立つと言えよう。しかし我々は、これらの芸術の根拠となれる「物のあはれ」が、それぞれに重大な特異性を持っていること、そうして平安朝のそれも他のおのおのに対して著しい特質を持つことを見のがすことができない。これらの特異性を眼中に置くとき、特に平安朝文芸の特質に親縁を持つ「物のあはれ」という言葉を、文芸一般の本意として立てることは、あるいは誤解を招きやすくはないかと疑われる。

⇒和辻は、推古朝、すなわち、厩戸皇子の頃の物のあはれと『源氏物語』が書かれた平安時代における物のあはれとは異なる、物のあはれが私の言う人間主義であったのは平安時代だけだ、と言い出すのだ。
 それにしても、和辻は、どうしてこんなケチを宣長の物のあはれ論につけたのだろうか。
 それは、和辻の最大の関心事が、「心のひろい、大きい、同情のこころ」(前出)、すなわち、人間主義、なんぞではなかったからだろう。(太田)

 我々は宣長が反省すべくしてしなかった最後の根拠を考えてみなければならぬ。宣長は「もの」という言葉を単に「ひろく言ふ時に添ふる語」とのみ解したが、しかしこの語は「ひろく言ふ」ものではあっても「添ふる語」ではない。「物いう」とは何らかの意味を言葉に現わすことである。「物見」とは何物かを見ることである。さらにまた「美しきもの」、「悲しきもの」などの用法においては、「もの」は物象であると心的状態であるとを問わず、常に「或るもの」である。美しきものとはこの一般的な「もの」が美しきという限定を受けているにほかならない。かくのごとく「もの」は意味と物とのすべてを含んだ一般的な、限定せられざる「もの」である。限定せられた何ものでもないとともに、また限定せられたもののすべてである。究竟の Es であるとともに Alles である。「もののあはれ」とは、かくのごとき「もの」が持つところの「あはれ」――「もの」が限定された個々のものに現わるるとともにその本来の限定せられざる「もの」に帰り行かんとする休むところなき動き――にほかならぬであろう。我々はここでは理知及び意志に対して感情が特に根本的であると主張する必要を見ない。この三者のいずれを根源に置くとしても、とにかくここでは「もの」という語に現わされた一つの根源がある。そうしてその根源は、個々のもののうちに働きつつ、個々のものをその根源に引く。我々がその根源を知らぬということと、その根源が我々を引くということとは別事である。「もののあはれ」とは畢竟この永遠の根源への思慕でなくてはならぬ。

⇒そう。和辻の最大の関心事は、形而上学的な「永遠の根源」だったのだ。(太田)

 歓びも悲しみも、すべての感情は、この思慕を内に含む事によって、初めてそれ自身になる。意識せられると否とにかかわらず、すべての「詠嘆」を根拠づけるものは、この思慕である。あらゆる歓楽は永遠を思う。あらゆる愛は永遠を慕う。かるがゆえに愛は悲である。愛の理想を大慈大悲と呼ぶことの深い意味はここにあるであろう。歓びにも涙、悲しみにも涙、その涙に湿おされた愛しき子はすなわち悲しき子である。かくて我々は、過ぎ行く人生の内に過ぎ行かざるものの理念の存する限り、――永遠を慕う無限の感情が内に蔵せられてある限り、悲哀をば畢竟は永遠への思慕の現われとして認め得るのである。それは必ずしも哲学的思索として現われるのみでない。恋するものはその恋人において魂の故郷を求める、現実の人を通じて永遠のイデアを恋する。

⇒和辻は、プラトンのイデア論を紹介しているわけだが、それと宣長の物のあはれ論は次元が全く異なることに和辻は気が付いていないか、あえて気が付かないフリをしている。(太田)

 恋に浸れるものがその恋の永遠を思わぬであろうか。現実の生において完全に充たされることのない感情が、悲しみ、あえぎ、恋しつつ、絶えず迫り行こうとする前途は、きわまることなき永遠の道である。人生における一切の愛、一切の歓び、一切の努力は、すべてここにその最深の根拠を有する。「もののあはれ」が人生全般にひろまるのは、畢竟このゆえである。
 かく見ることによって我々は、「物のあはれ」が何ゆえに純化された感情として理解されねばならなかったかのゆえんを明らかに知ることができる。「物のあはれ」とは、それ自身に、限りなく純化され浄化されようとする傾向を持った、無限性の感情である。すなわち我々のうちにあって我々を根源に帰らせようとする根源自身の働きの一つである。文芸はこれを具体的な姿において、高められた程度に表現する。それによって我々は過ぎ行くものの間に過ぎ行くものを通じて、過ぎ行かざる永遠のものの光に接する。
 が、また右の理解とともに我々は、「物のあはれ」という言葉が、何ゆえに特殊のひびきを持つかのゆえんをも理解することができる。永遠への思慕は、ある時代の精神生活全体に規定され、その時代の特殊の形に現われるものであって、必ずしも「物のあはれ」という言葉にふさわしい形にのみ現われるとは限らぬ。愛の自覚、思慕の自覚の程度により、あるいは、愛の対象、思慕の対象の深さいかんにより、ある時は「物のあはれ」という言葉が、率直で情熱的な思慕の情の直接さを覆うおそれがあり、またある時は、強烈に身をもって追い求めようとする思慕のこころの実行的な能動性を看過せしめるおそれがある。「物のあはれ」という言葉が、その伴なえる倍音のことごとくをもって、最も適切に表現するところは、畢竟平安朝文芸に見らるる永遠の思慕であろう。
 平安朝は何人も知るごとく、意力の不足の著しい時代である。その原因は恐らく数世紀にわたる平和な貴族生活の、眼界の狭小、精神的弛緩、享楽の過度、よき刺激の欠乏等に存するであろう。当時の文芸美術によって見れば、意力の緊張、剛強、壮烈等を讃美するこころや、意力の弱さに起因する一切の醜さを正当に評価する力は、全然欠けている。意志の強きことは彼らにはむしろ醜悪に感ぜられたらしい。それほど人々は意志が弱く、しかもその弱さを自覚していなかったのである。従ってそれは、一切の体験において、反省の不足、沈潜の不足となって現われる。彼らは地上生活のはかなさを知ってはいる、しかしそこから充たされざる感情によって追い立てられ、哲学的に深く思索して行こうとするのではない。また彼らは地上生活の愉悦を知ってもいる、しかし飽くことなき楽欲に追われて、飽くまでも愉悦の杯をのみ干そうとする大胆さはない。彼らは進むに力なく、ただこの両端にひかれて、低徊するのみである。かく徹底の傾向を欠いた、衝動追迫の力なき、しかも感受性においては鋭敏な、思慕の情の強い詠嘆の心、それこそ「物のあはれ」なる言葉に最もふさわしい心である。我々はこの言葉に、実行力の欠乏、停滞せる者の詠嘆、というごとき倍音の伴なうことを、正当な理由によって肯くことができる。

⇒つまり、和辻は、平安時代、典型的には『源氏物語』、の「物のあはれ」には、人間に本来備わっているところの、「永遠の根源」、への志向性が欠如している、と貶めるのだ。
 まことにもって遺憾なことに、和辻は、平安朝文芸の頂点たる『源氏物語』の時代が、本当にそんな「実行力の欠乏、停滞せる者」達の時代であったかどうか、自らしっかり確認した上で、『源氏物語』を、その背景の中に位置づける形で理解しようとはしなかったのだ。
 いや、その前に、そもそも、どうして本居宣長が『源氏物語』に注目し、また、(もちろん、本居宣長はいわゆる国学者であって、『源氏物語』の研究は彼の主要諸研究のうちの一つに過ぎなかったと言えばその通りではあるものの、)そんな宣長を、一体どうして御三家の一つの紀州藩が召し抱えた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%B1%85%E5%AE%A3%E9%95%B7
のか、和辻は不思議に思わなかったのだろうか。(太田)

 かくて我々は「物のあはれ」が、平安朝特有のあの永遠の思慕を現わしているのを見る。我々はそれを特性づけて、「永遠への思慕に色づけられたる官能享楽主義」、「涙にひたれる唯美主義」、「世界苦を絶えず顧慮する快楽主義」、あるいは言い現わしを逆にして、「官能享楽主義に囚われた心の永遠への思慕」、「唯美主義を曇らせる涙」、「快楽主義の生を彩る世界苦」等と呼ぶことができよう。
 本居宣長は「物のあはれ」を文芸一般の本質とするに当たって、右のごとき特性を十分に洗い去ることをしなかった。従って彼は人性の奥底に「女々めめしきはかなさ」をさえも見いだすに至った。これはある意味では「絶対者への依属の感情」とも解せられるものであるが、しかし我々はこの表出にもっと弱々しい倍音の響いているのを感ずる。永遠の思慕は常に「女々しくはかなき」という言葉で適切に現わされるとは考えられない。『万葉』におけるごとき朗らかにして快活な愛情の叫び、悲哀の叫び。あるいは殺人の血にまみれた武士たちの、あの心の苦闘の叫び。あるいはまた、禅の深い影響の後に生まれたあの「寂さび」のこころ。それらを我々は「女々しくはかない」と呼ぶことはできぬ。もとよりここにも「物のあはれ」と通ずるもののあることは明らかである。なぜならそれらはともどもに永遠の思慕の現われであるから。しかし力強い苦闘のあとを見せぬ、鋭さの欠けた、内気な、率直さのない、優柔なものとして特性づけられる「物のあはれ」は、――すなわちこの意味での本来の「物のあはれ」は、厳密に平安朝の精神に限られなくてはならぬ。・・・

⇒前出の「もののあはれ」のウィキペディア執筆者は、「和辻哲郎は、宣長の説いた「もののあはれ」論に触れて、「もののあはれをしる」という無常観的な哀愁の中には、「永遠の根源的な思慕」あるいは「絶対者への依属の感情」が本質的に含まれているとも解釈している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%82%E3%81%AE%E3%81%AE%E3%81%82%E3%81%AF%E3%82%8C
としているが、これは和辻の「物のあはれ(もののあはれ)」論の誤読に近い。
 和辻は、もののあはれなんてものは、仏教に言う「無」への余りにも柔弱な志向性なのであって、「無」へのまっとうな志向性とは言い難い、と、宣長をディスっているのだから・・。
 恐らく、ウィキペディア執筆者は、中井が、上出の論考の中で、「和辻哲郎博士は、・・・『日本精神史研究』の中で本居宣長の「もののあはれ」について論じ、「もののあはれをしる」という無常観的な有終の中に「永遠の根源への思慕」、あるいは「絶対者への依属の感情」が本質的に含まれていることを指摘されている。もちろん、和辻博士の指摘の背景には。ニーチェやキエルケゴール研究<(注5)>を中心として蓄積された、ヨーロッパ精神史に関する氏の該博な学識があることはいうまでもない。

 (注5)「1915年(大正4)に・・・和辻哲郎が『ゼエレン・キェルケゴオル』で、当時の日本の哲学界ではほとんど知られていなかったキルケゴールの思想を全般にわたって詳しく紹介した。」
https://kotobank.jp/word/%E3%82%AD%E3%83%AB%E3%82%B1%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%AB-53805
セーレン・キェルケゴール(1813~1855年)。「ヘーゲル風の汎(はん)論理主義に抗して、不安と絶望のうちに個人の主体的真理を求めた彼の思想は、20世紀に入るまでデンマーク国外ではほとんど知られなかった。しかし1909年からドイツで神学者のシュレンプChristoph Schrempf(1860―1944)による翻訳全集が出て、当時新進のK・バルトやハイデッガー、ヤスパースらの弁証法神学者や実存哲学者に大きな影響を与え、そこからキルケゴールの名は現代キリスト教思想や実存思想の先駆者として、ヨーロッパのみならず世界的に知られるようになった。」
https://kotobank.jp/word/%E3%82%AD%E3%83%AB%E3%82%B1%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%AB-53805

 「無限なるものへのあこがれ」そのものが、18世紀から19世紀初頭にかけて展開されたドイツ・初期ロマン派の基本的な心的態度であり、また一般的にドイツ・ロマン派を特徴づける標語になったことはひろく知られている。しかし、このような、無限なるもの、永遠なるもの、あるいは絶対的なるものへのあこがれが、単にドイツ・ロマン派ひとりの独創的な精神態度ではなく、それぞれ違った表現をとりながら古代からヨーロッパ文化の中で流れ続けてきた一つの基調音であることはいうまでもない。古くはプラトンの「イデア」<(注6)>論からそれに続くプラトニズムの中にも、中世の「ミンネの歌」の中にもそれはあった。

 (注6)「《見られたもの、知られたもの、姿、形の意》プラトン哲学で、時空を超越した非物体的、絶対的な永遠の実在。感覚的世界の個物の原型とされ、純粋な理性的思考によって認識できるとされる。中世のキリスト教神学では諸物の原型として神の中に存在するとされ、近世になると観念や理念の意で用いられるようになった。」
https://kotobank.jp/word/%E3%82%A4%E3%83%87%E3%82%A2-31589

 いや、ヨーロッパだけに限らず、これは人間意識の奥深くに潜在する人類共通のトポス<(注7)>的な心情といえよう。

 (注7)「元来は,場所を意味するギリシア語。単に物理学的な空間を意味するだけでなく,アリストテレス以来,修辞論上の場所,すなわち何かを論じる際の基本的論述形式,あるいは論題を蓄えている場所をもいう。英語ではズバリ月並みな表現・主題を意味する。」
https://kotobank.jp/word/%E3%83%88%E3%83%9D%E3%82%B9-161922

 土俗宗教や神話・伝説、あるいは民話などの、およそ人間の心情の奥深くから自然発生的に生まれた文化的所産は、このトポス的な心情に触れることなしには説明できないのである。」
https://digital-archives.sophia.ac.jp/pub/repository/00000006258/pdf/4_0-DC4_5a5c79697e439591d99864faf3c9b205948efc218f4c4074588a769a13e4be7d_1681647857889_200000020552_000002600_9.pdf?dl=1 前掲
と言っていることに引きずられたのだろう。

 

[『源氏物語』とは何だったのか]

一 プロローグ

 表記について、私見を述べる。
(一)どうして紫式部は源氏物語を書いたのか、
(二)日本でどうして長編純文学がその後明治維新後まで現れなかったのか
 また、
(三)どうしてそのタイトル/主人公に源氏という姓を用いたのか、
についてだ。

二 私見

(一)どうして紫式部は源氏物語を書いたのか

 表記についてのこれまでの議論は次の通りだ。↓

 「『源氏物語』<(注8)>は、なぜ藤原氏全盛の時代に、かつて藤原一族が安和の変<(後出)>で失脚させた源氏<(注9)>を主人公にし、源氏が恋愛に常に勝ち、源氏の帝位継承をテーマとして描いたのか。

 (注8)源氏物語各帖のあらすじ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E%E5%90%84%E5%B8%96%E3%81%AE%E3%81%82%E3%82%89%E3%81%99%E3%81%98
 桐壺
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%90%E5%A3%BA
 ・・・
 夢浮橋
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A2%E6%B5%AE%E6%A9%8B

 (注9)源高明(914~983年)。「醍醐天皇の第十皇子。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%AB%98%E6%98%8E
 「醍醐源氏には祖とする天皇別に二十一の流派(源氏二十一流)があり、醍醐源氏はそのうちの一つで醍醐天皇から分かれた氏族である。
 一世賜姓では源高明、源兼明が左大臣に昇るが、それぞれ政争によってその地位を追われた。しかし高明の子孫は院政期まで栄え、一条朝の四納言の一人である源俊賢をはじめとして、源経房、源隆国、源俊明などの多くの公卿を輩出した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%8D%E9%86%90%E6%BA%90%E6%B0%8F
 兼明親王
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%BC%E6%98%8E%E8%A6%AA%E7%8E%8B

 初めてこの問いかけを行った藤岡作太郎は、「源氏物語の本旨は、夫人の評論にある」とした論の中で、政治向きに無知・無関心な女性だからこそこのような反藤原氏的な作品を書くことができ、周囲からもそのことを問題にはされなかったのだとした。

⇒和辻説と同工異曲。(太田)

 一方、池田亀鑑は、藤原氏の全盛時代という現実世界の中で生きながらも高邁な精神を持ち続けた作者紫式部が理想を追い求めた世界観の表れがこの『源氏物語』という作品であるとしている。

⇒その限りでは間違いとは言えないが、しかし・・。(太田)

 この問題を取り上げた中には、『源氏物語』を著したのは藤原氏の紫式部ではなく多数の作者らであるとする、推理作家である藤本泉の説・・・光源氏のモデルと言われる源高明自身が作者という説がある。

⇒ナンセーンス。(太田)

 推理作家の藤本泉は1962年(昭和37年)の小説をはじめとして『源氏物語』多数作者説をとっていた。その中の著作で、桐壺など「原 源氏物語」を源高明とその一族が書いたと仮定していたが、続く著作において源高明説が弱いことを認めており、同著でほかの複数作者の推定を行っている。作者は紫式部ではないとする説の根拠の一部は以下の通り。
 藤原道長をはじめとする当時の何人もの人物がもてはやしたとされる作品であるにもかかわらず、当事者の記録とされている『紫式部日記』(原題『紫日記』)(藤本泉はこの『紫日記』も紫式部の作ではないとしている)を除くと、当時、数多く存在した公的な記録や日記などの私的な記録に一切記述がない。
 現実とは逆に、常に藤原氏が敗れ、源氏が政争や恋愛に最終的に勝利する話になっており、藤原氏の一員である紫式部が書いたとするのは不自然である。
 作中で描かれている妊娠や出産に関する話の中には、女性(特に、子どもを産んだ経験のある女性)が書いたとするにはあり得ない矛盾がいくつも存在する。
 女性の手による作品のはずなのに、作中に婦人語と呼べるものがまったくみられない。
 源氏物語の中において描かれている時代が紫式部の時代より数十年前の時代と考えられる。
 紫式部の呼び名の元になった父親(式部大丞の地位に就いていた)を思わせる「藤式部丞」なる者が、帚木の帖の雨夜の品定めのシーンにおいてもっとも愚かな内容の話をする役割を演じており、紫式部が書いたとするには不自然である。・・・
 恨みをはらんで失脚していった源氏の怨霊を静めるためであるという『逆説の日本史』などで論じた井沢元彦の説
 といった説も存在する。もっとも、このような見解については『源氏物語』成立の背景に以下のような理由を挙げている大野晋の見解のように、氏族として藤原氏と源氏が対立しているとはいえず、仮にそのようなものがあったとしても、個人的な対立関係の範疇を超えないとして、問いかけの前提の認識に問題があるとする見方もある。
 この物語の作者である紫式部は、父・藤原為時が<村上源氏の>源師房の父具平親王と親しく、一時期、家司をつとめていたこともあるとみられるなど、藤原氏の中でも源氏と近い立場にあること。
 藤原道長はその甥藤原伊周との対立など藤原氏一族の内部での激しい権力闘争を行う一方、以下のように源氏一族とは縁戚関係の構築に積極的であり、源氏との対立関係にあるとはいいがたいこと。
 藤原道長の正妻が<宇多源氏の>源倫子である(道長はそのほかにも<源高明の娘の>源明子も妻にしている)。
 道長の息子・藤原頼通の正室・隆姫女王の弟であった源師房が、頼通の猶子(『小右記』には「異姓の養子」と表記)になり、道長の娘婿ともなり、藤原摂関家ともっとも密接な関係を築き上げたことにより、源氏長者の地位に就き、唯一の公家源氏である村上源氏の祖となった。
 また、より積極的に、上記のような事実関係を前提にして「『源氏物語』は紫式部が父の藤原為時とともに具平親王の元にいた時期に書き始められた」とする見解もある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E

 いやはや、百家争鳴であることよ。
 それでは、私による新説を述べよう。↓

 「『日本紀』などは、ただかたそばぞかし。これらにこそ道々しく詳しきことはあらめ」(=「日本紀』などは、ほんの一面にしか過ぎません。物語にこそ道理にかなった詳細な事柄は書いてあるのでしょう」と、紫式部自身が『源氏物語』の中で書いている
http://www.genji-monogatari.net/html/Genji/combined25.3.html
ということは、諸々の物語群の中で少なくとも『源氏物語』に関しては歴史的に重大なメッセージが込められている公文書である、と、いう意味である、と我々は受け止めなければならないのだ。
 以下を読めば、「ディスカッション」(コラム#13515、13537)の中で紹介した、中村真一郎の源氏評、がいかに的外れか、お分かりいただけるのではなかろうか。

 さて、紫式部は、
「誕生 不明(・・・970年・・・以降~・・・978年・・・以前)
 死没 不明(・・・1019年・・・以降)・・・
 活動期間 990年代 – 1000年代」」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%AB%E5%BC%8F%E9%83%A8
という人物だ。
 この年代を頭にしっかり入れておいて欲しい。
 紫式部は、「父の藤原為時<[949頃~1029頃]が>・・・越前国の受領となる<と、そ>・・・の娘時代の約2年を父の任国で過ご<している>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%AB%E5%BC%8F%E9%83%A8
ところ、越前においては、同地が比較的京に近く、九州/中国地方におけるような外患、瀬戸内海沿岸のような海賊、奥州における蝦夷のような「蛮族」、が存在せず、また、荒くれものたる武士も出現していなかったことから、彼女は、弥生性経験をすることがなかった可能性があるけれど、「<結婚相手の>藤原宣孝<(?~1001年)は、>・・・990年<に>筑前守に任ぜられて筑紫に赴任<し、のち>太宰少弐も兼ね<、>この頃に紫式部<は、彼と>結婚している<ところ、その後>、任官時期は不明なるも弁官を務めたらしいが、蔵人・右衛門権佐(検非違使佐)と同時には兼帯せず、三事兼帯とはならなかったという」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%A3%E5%AD%9D
ので、紫式部は、長徳3年(997年)に長徳の入寇(後出)が起こり、「蔵人頭の・・・藤原行成の「権記」・・・で・・・かなり深刻<とされたこの>事態<について、>・・・参議藤原実資<が>「小右記」<で>・・・報告を受けたときの道長たちのあわてぶりを克明に記し<た>」折、まだ存命であった夫から、そのちょっと前、官兵がかろうじて機能していた頃の寛平の韓寇(893~894年)<(後出)>における文屋善友の活躍(注10)を聞かされ、今回の対応(注11)は失態だと思うとともに、日本には外患があること、また、国内にも危険な「蛮族」がいて内患もあることも聞かされ、危機意識を抱いた可能性が高い。

 (注10)文屋善友(ふんやのよしとも)は、「883年)に上総国で起きた俘囚の乱を上総大掾として諸郡の兵1000を率いて鎮圧した経験を有していた。・・・
 893年・・・にも新羅の賊が九州北部の人家を焼くという事件があり、・・・翌・・・894年・・・4月には新羅の船大小100艘に乗った2500人にのぼる新羅の賊の大軍が対馬に来襲した<のに対し、>[朝廷は、政治の中枢の人間である参議の藤原国経を大宰権帥として派遣するなどの対策を定めたが、賊は逃げていった。]
 [<その後、同年、>唐人も交えた新羅の船大小100艘に乗った2500人にのぼる新羅の賊の大軍が襲来し、対馬に侵攻を始めた。]<対馬守に転じていた>善友<は>・・・9月5日の朝、・・・45隻<が>・・・対馬に押し寄せたの<に対し、>[郡司士卒を率い<、>]・・・まず前司の田村高良に部隊を整えさせ、対馬嶋分寺の上座面均と上県郡の副大領下今主を押領使とし、100人の兵士を各5名ずつ20番に分けた。まず豊円春竹が率いる40人の弱軍をもって敵を善友の前までおびき寄せ、弩による射撃戦を挑んだ。矢が雨の如しという戦いののち、逃走しようとする敵をさらに追撃し大将3人、副将11人を含む賊302人を射殺した。また船11隻、甲冑、保呂、銀作太刀および太刀50柄、桙1000基、弓110張、弓胡(やなぐい)110、置き楯312枚など莫大な兵器を捕獲し賊1人を生け捕った。・・・
 撃退の成功は大宰府の飛駅によって、9月19日に都に伝えられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%B1%8B%E5%96%84%E5%8F%8B
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%BE%85%E3%81%AE%E5%85%A5%E5%AF%87 ([]内)
 (注11)「高麗人が、対馬、肥前、壱岐、肥後、薩摩、大隅など九州全域を襲う[39]。民家が焼かれ、財産を収奪し、男女300名がさらわれた。これは南蛮の入寇ともいわれ、奄美島人も賊に参加していたといわれる。・・・
 寛平の韓寇と酷似している<が、>・・・数百人の拉致<は>前例がない。」(上掲)

 なにせ、彼女は、一条天皇から、「この人は、日本紀を読んでいるのだろう。本当に漢字の才があるにちがいない。」と言われた
https://shikinobi.com/shikibu-mitsubone
人物であり、日本紀とは日本書紀のこと
https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B4%80-592697
で、日本書紀にはポリティコミリタリー事案が満載されていることを想起して欲しい。
 しかし、紫式部の弥生性の(広義の)同時代「経験」はこれらにとどまらなかった。
 939年(天慶2年)~940年(天慶3年)に関東での平将門の乱と瀬戸内海での藤原純友の乱が同時に起こったところの、天慶の乱<(後出)>、が、その鎮圧者達も含めて、彼女の「身内」たるほんの少し前の先祖達が関わった乱であったが故に、父からも夫からも、また、藤原道長や道長の子の彰子や道長の甥の一条天皇らからも、この乱の話題が折に触れて出たと想像されるからだ。
 下掲の系図群を参照されたい。↓

 (源氏物語関連系図)

         |-魚名-藤成-豊沢(仮冒?)-村雄-秀郷●-千晴〇
        |(弟)         –遠軽-良範-/=養子=純友●
         |           |
      |         –長良—基経   –詮子-一条天皇※—|
        |         |     ↓   | || |
  | |-良房===養子-忠平-師輔-兼家〇—道長-彰子 |
  | | ・   ・ ・ ・ ・ |
藤原不比等-房前—真楯-内麻呂-冬嗣—良門—利基-兼輔-→* |
     (北家) (兄)  ・  ・   |                     |     –高藤-定方—朝頼-為輔-宣孝 |
                            |       || |
                            –藤原雅正室 || |
|| || |
*→雅正—為時-【紫式部】 |
| |
–平維将室 |
|| |
平維将 |
          ↑ |
       (どちらせよ、平国香の子であるところの、平貞盛又は繁盛の子。) |
        | |
桓武天皇—葛原親王-平高望—平国香—貞盛 | |
| (弟) | | ——————-| |
| |    –繁盛 |
   |         –平良将—将門●)          |
–嵯峨天皇-仁明天皇-文徳天皇-清和天皇-貞純親王-源経基-満仲-頼光(摂津源氏)|
       (兄)   |  (兄)               | |
             |                    |–頼信(河内源氏)|
| |
             |—-光孝天皇-宇田天皇-醍醐天皇-村上天皇-円融天皇-一条天皇–|
                (弟)

 (凡例等)
 ・ ●は天慶の乱(939年)の関係者、〇は安和の変(969年)関係者。
 ・下に「・」は藤氏長者。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E6%B0%8F%E9%95%B7%E8%80%85
 ・※の一条天皇(980~1011年。天皇:986~1011年)の中宮は道長の同母兄の道隆の娘の定子、及び、道長の娘の彰子。中宮2人は史上初。定子に仕えたのが清少納言、彰子に仕えたのが紫式部や和泉式部。

 「<後の一条天皇は、>984年・・・、花山天皇が皇位を継いだ時、皇太子に立てられる。・・・986年・・・、花山天皇が内裏を抜け出して出家したため、数え年7歳で<天皇に>即位した。これは孫の早期即位を狙った兼家の陰謀と言われる(寛和の変<(後出)>)。皇太子には従兄にあたる居貞親王(三条天皇)を立て、摂政に藤原兼家が就任した(のちに関白)。
 兼家の死後は長男の道隆が引き続き外戚として関白を務め、一条天皇の皇后に娘の定子を入れ、中宮を号させるが、・・・995年・・・に病没。代わりに弟の道兼が関白に就任するがわずか7日後に没し、道隆の子伊周との争いに勝利した道隆・道兼の弟道長が、姉で天皇の生母・詮子の推挙を受け、内覧となって実権を掌握した。道長は先に中宮を号していた定子を皇后宮と号し、娘の彰子も皇后に立てて中宮を号させる事で、一帝二后の先例を開いた。
 一条天皇の時代は道隆・道長兄弟のもとで藤原氏の権勢が最盛に達し、皇后定子に仕える清少納言、中宮彰子に仕える紫式部・和泉式部らによって平安女流文学が花開いた。天皇自身、文芸に深い関心を示し、『本朝文粋』などに詩文を残している。音楽にも堪能で、笛を能くしたという。また、人柄は温和で好学だったといい、多くの人に慕われた。
 また道長が内覧に留まったのは、当時閣議に出られない決まりがあった摂政・関白よりも、内覧を兼ねたまま一上(閣員の首座)として実権を掌握しようとしたためと見られるが、天皇自身も長ずるにつれ曽祖父の醍醐天皇・祖父の村上天皇のような親政を志したとされる。道長も天皇と協調し、これにより、後に大江匡房が『続本朝往生伝』で藤原実資や藤原行成等の有能な人材を輩出したと称えたほど、有為な政治体制が確立した。・・・
 母である藤原詮子は、飛鳥時代の天武天皇の皇女十市皇女の11世孫にあたる。天武天皇の男系皇統は途切れてしまうものの、女系の血は一条天皇を介して徳仁たる現在の皇室及び旧皇族に伝わっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E5%A4%A9%E7%9A%87
 「藤原文化の最盛期ではあったが,<もともと実態を殆ど伴っていなかったところの(太田)>律令制は<完全な(太田)>崩壊の一途をたどった。」
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E5%A4%A9%E7%9A%87-31314
 「一条天皇の「源氏の物語の作者は日本紀をよく読んでいる」という述懐<(前出)>により<、紫式部は、>日本紀の御局と呼ばれた<。>・・・

⇒それほどポリティコミリタリーに係る事柄(=弥生性に係る事柄)が中心であるところの歴史に通暁していたにもかかわらず、紫式部は、『源氏物語』や『紫式部日記』の中で、長徳の入寇のような外患的なものや、天慶の乱のような内患的なものや、安和の変のような政変的なもの、しかも、ことごとく自分の一族に関わる事柄群、的なもの、を一切取り上げていない。
 これは、余りにも異常ではないか。(太田)

 <『源氏物語』の>2系統の本文のうち、鎌倉時代には「河内本」が圧倒的に優勢な状況であり、今川了俊<(注12)>などは「青表紙本は絶えてしまった」と述べていたほどであった。

 (注12)今川貞世(1326~1420年?)。「鎌倉時代後期から南北朝・室町時代の武将、守護大名。室町幕府の九州探題、遠江、駿河半国守護。九州探題赴任中は備後、安芸、筑前、筑後、豊前、肥前、肥後、日向、大隅、薩摩の守護も兼ねた。・・・法名は了俊(りょうしゅん)で、今川了俊と呼ばれることも多い。没年は異説あり。『難太平記』の著者である。・・・
 『難太平記』は古典『太平記』を難ずる意味の歴史書で、応永の乱における自らの立場や、太平記に記されない一族の功績を記している。・・・
 和歌は祖母の香雲院や京極為基、冷泉為秀らに学び、連歌では二条良基らに学び、二条良基主催の年中行事歌合に参加している。正徹とも交友。禅や儒学なども行う。『言塵集』という歌論書や、九州探題としての赴任途中の紀行文『道ゆきぶり』を残す。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E5%B7%9D%E8%B2%9E%E4%B8%96
 「今川氏<は、>・・・足利義兼の孫吉良長氏の次男国氏が、三河国幡豆郡今川庄を領して今川と称したことに始まる。今川家は足利一門において名門とされ、足利将軍家の親族としての家格を有し、室町将軍家から御一家として遇された吉良家の分家にあたる。「御所(足利将軍家)が絶えなば吉良が継ぎ、吉良が絶えなば今川が継ぐ」と言われていたように、足利宗家(室町将軍家系統)の血脈が断絶した場合には吉良家は足利宗家と征夷大将軍職の継承権が発生する特別な家柄であったとも伝わる。吉良家からは守護および管領や侍所所司が1人も出ていないのはこのためである(これらの役職は「家臣の仕事」であり、足利宗家の継承権を持つ家の者は管領などに任じられる身分ではなかった)。吉良家の分家である今川家は守護や侍所所司を務めた。軍功により副将軍の称号をゆるされた今川範政の子範忠は、永享の乱の戦功によって室町将軍家から本人とその子孫以外の今川姓の使用を禁じるとする「天下一苗字」の待遇を受けたため、日本各地で栄えていた今川姓も駿河守護家のみとなったと伝えられる。しかし、範忠没後に一時期宗家の地位を争う立場にあった小鹿氏には、その後も万一の際の家督継承の有資格者として今川姓を許されていたとする研究もある。
 駿河今川家:駿河守護職を代々継承した嫡流。・・・
 遠江今川家:<駿河今川家>の分家で、遠江に所領を与えられた今川貞世(了俊)を祖とする一族。瀬名氏を参照。
 肥前今川家:同じく<駿河今川家>の分家で、肥前に所領を与えられた今川仲秋を祖とする一族。持永氏を参照。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E5%B7%9D%E6%B0%8F

 そのもっとも大きな原因は、話の筋や登場人物の心情を理解するためにはそれ自体として意味のくみとれなかったり、前後の記述に矛盾のある(ようにみえる)箇所を含んでいる「青表紙本」よりも、そのような矛盾を含んでいない(ようにみえる)「河内本」のほうが使いやすかったりしたからであると考えられている。それでも、室町時代半ばごろから藤原定家の流れを汲む三条西家の活動により、古い時代の本文により忠実だとされる「青表紙本」が優勢になり、逆に「河内本」の方が消えてしまったかのような状況になった。三条西家系統の「青表紙本」は、純粋な「青表紙本」と比べると「河内本」などからの混入がみられる本文であった。・・・

⇒注目して欲しいのは、室町時代の『源氏物語』の最も著名な愛読者が室町幕府の有力者たる武家の今川了俊だったことだ。
 ちなみに、今川家は、清和「源氏」だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E5%B7%9D%E6%B0%8F (太田)

 江戸・・・時代、良質な写本の多くは大名や公家、神社仏閣などに秘蔵されて<いた。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E

⇒江戸時代においても、大名家にとって、『源氏物語』が必読書だったようであるのは、一体どうしてなのか、ということだ。
これは、『源氏物語』が、武士のために書かれたものであって、武士達、とりわけ上級武士達、もそう考えていたことを示しているのではなかろうか。
 これらのことを踏まえ、私は、『源氏物語』が、創出されつつあった(創出されつつあった日本文明下の)「ますらお」ぶりの武士達に対し、(プロト日本文明下の)「たおやめ」ぶりのかつての、ないしは、本来の自分達を折に触れて思い出し、本来の自分達に回帰させる縁(よすが)とすべく、紫式部が、自分の一族の長でありかつパトロンで事実上の上司であったところの、藤原道長の命の下、執筆させられたのが『源氏物語』であり、それは、広義の公文書として策定されたものである、と、考えるに至っている。(太田)

(二)日本でどうして長編純文学がその後明治維新後まで現れなかったのか

⇒その性格上、時代の影響を受けることがあり得ないところの、事実上の公文書、を改訂(改正)する意味も必要もないからだ。
 しかも、この事実上の公文書は、今川了俊の事例を見ても、その狙い通りの効果を上げていたのだからなおさらだ。
 ここで、効果が上がり過ぎてしまったと思われる皮肉な一例を挙げておこう。↓

 「鎌倉幕府の和歌奉行として<源>実朝の学芸教育にあたった源光行・親行親子は、二代に渡る作業で、定家の「青表紙本」と並んで源氏物語の二大写本とされる「河内本」を1255年に成した古典研究家だったから・・・実朝に<は>源氏物語に触れる機会があった<はずだ。>・・・
 源氏物語を現在流布しているような形に校訂・写本したのは実朝の歌の師・藤原定家である。名月記によれば、校訂・写本の作業を行ったのは西暦で1225年以降のことであり、1219年に殺害された実朝は当然すでにこの世にはいない。そして、定家のこのいわゆる「青表紙本」が成る以前に、源氏物語がどのような形で読まれていたかは確かにはわかっていない。だから、読んだにしても実朝が源氏をどこまで、どの部分を、どんなかたちで読んだのかは、まだわからない。定家の父・俊成が「源氏見ざる歌詠みは、遺恨のことなり(六百番歌合・冬上十三番「枯野」判詞)」と言したのは1194年のことであり、当然、実朝はそれを知っていたであろうし、また、源氏物語が、当時、様々な写本によって読めるかたちで流布していたことだけは間違いない。実朝が実際に目にしたとすれば、その源氏物語は、教師である源光行・親行親子が所蔵していた写本でということにもなるだろう。・・・
 実朝が十四歳で和歌を詠んだ理由、京都に行かなかった理由、渡宋計画の理由、官位に固執した理由<は、全て>、源氏物語<を愛読してそれに>・・・世界観の大部分を・・・牛耳られていた<からなのではなかろうか>。」(尾崎克之(注13)「実朝と源氏物語」より)
http://www.sanetomo.com/genji/2009/08/1_2009826.html

 (注13)1959年~。慶大文(仏文)卒。「文化史研究、文筆家。ウェブサイト設計・構築、ショートムービー作家。株式会社インターソース代表。・・・2012年、文藝思潮(アジア文化社)主催の45歳以上を対象とする文学賞・第八回銀華文学賞にて歴史小説賞奨励賞(短編作品『小倉百人一首実朝歌余談』)を受賞したのを機に本格的に文化史研究家活動を開始。研究対象は主に、平安期、鎌倉期、戦国・徳川期、源氏物語。」
https://oz-k.com/profile-ozakikatsuyuki

 どうして明治維新以降、再び日本に長編純文学が出現するようになったかについては、そもそも、『源氏物語』は長編純文学ではなく事実上の公文書であったことから設問そのものが間違っているのであり、明治維新以降、欧米から純文学概念が輸入されたことで日本で純文学作品が書かれるようになり、その中には長編のものもあった、というわけだ。
 どうして、それまで日本で純文学が生まれなかったか、は、別の話になる。
 
(三)どうしてそのタイトル/主人公に源氏という姓を用いたのか

⇒それは、道長(紫式部)の頃、既に、清和源氏から歴代の武家棟梁格が事実上指名されることが決っていた(後述)からだと考えれば腑に落ちよう。

 武士達の代表は、光源氏のような「たおやめぶり」の人物が本来の姿、あり方、であることを忘れず、「たおやめぶり」も身につけたまま「ますらおぶり」を発揮できる人物となることによって、全武士の模範となれ、と、道長(紫式部)が、当時の一条天皇の事実上の依命通達をこれまた事実上下達した、と考えればよかろう。(太田)  


[源氏物語と仏教]

 「<源氏>物語が<本居>宣長のいうように、仏教を軽視し、ただ当時の風習であるから、仏教に関する事柄をも写したのだというようには見ない<。>

⇒宣長がそう言っているとして、それは紫式部ならぬ『源氏物語』に関しては正しいのであり、岡崎は間違っている。(太田)

 しかし、この物語は仏教の教化のために書かれたものではないという点では、宣長のいう通りであると考えるし、また、完全な涅槃の境地を示そうとする仏教的精神が本質となっているものとも思わない。

⇒ここは、岡崎の言う通りだ。(太田)

 仏教の救済を最後の目標として、それに向つて在る人生の姿のあわれさを、美的世界のものとして表現するのが、この作の本意であると思う。」(岡崎義恵「源氏物語の宗教的精神」より)
https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwjslvzjmcX_AhXKa94KHWoJBuYQFnoECAMQAQ&url=https%3A%2F%2Fwww.jstage.jst.go.jp%2Farticle%2Ftja1948%2F23%2F3%2F23_3_103%2F_pdf&usg=AOvVaw3xcyQJXGLfS-9OBRgePC5y
 岡崎義恵(1892~1982年)。東大卒、東北大助教授、教授、共立女子大教授。文学博士。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E5%B4%8E%E7%BE%A9%E6%81%B5

⇒ここは、違う。(太田)

 「ときの最高権力者、藤原道長の庇護を受け、財も名声もある<のに、>式部<は、>・・・出家したいとまで仏教に惹かれた」(菊池隆太「なぜ紫式部は仏教に惹かれたのか」より)
https://www.youtube.com/watch?v=bgFxMrGFAgQ
 菊池隆太は浄土真宗関係者らしいが不詳。

⇒完全な間違いだ。(太田)

 「<源氏>物語が描こうとしたのは、この世において他者と関わり、悩みや苦しみを抱えつつも、よりよき関係をめざして一歩踏み出していこうとする、その心持ちを支えるものとしての仏教であった。それは、光源氏と関わった女君たち一人ひとりの、生の軌跡に寄り添い続けた物語が最後に見いだした、一つの希望であったのだと思う。」(藤村安芸子「日本仏教思想上の『源氏物語』)
https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&ved=2ahUKEwjslvzjmcX_AhXKa94KHWoJBuYQFnoECAcQAQ&url=https%3A%2F%2Fteapot.lib.ocha.ac.jp%2Frecord%2F41563%2Ffiles%2F6_25-34.pdf&usg=AOvVaw3wy6_yIHt4caisKNEiNIEp
 藤村安芸子(1971年~)。東大博士(文学)。現在、駿河台大現代文化学部教授。専攻は、倫理学、日本倫理思想史。
https://www.hmv.co.jp/artist_%E8%97%A4%E6%9D%91%E5%AE%89%E8%8A%B8%E5%AD%90_200000000582858/biography/

⇒「仏教」を「人間主義たる自分自身」と読み替えれば正しいのだが、そう言われたら藤村は目が点になることだろう。(太田)

 「<源氏>物語は、光源氏の最終的な姿に、仏教的な文脈とは異なる次元で、救いを予見していると思われる。源氏物語に語られる仏教の救済の論理は、さまざまな人間救済の可能性を提示しながらも、むしろそこに収まりきれない人間存在の実体と本質を証したてるものとして取り込まれているのであった。」(Kim Yoo-Cheon「『源氏物語』と仏教」より)
https://www.kci.go.kr/kciportal/ci/sereArticleSearch/ciSereArtiView.kci?sereArticleSearchBean.artiId=ART000965385
 Kim Yoo-Cheon。韓国外国語大卒、東大修士、博士。上明大学語言文学系日語文学系教授。
https://www.smu.ac.kr/smnihongo/faculty/faculty.do?mode=view&empNo=10027983&pager.offset=0&pagerLimit=20

⇒Kimは、かなりいい線を行っている、と言ってよいのではないか。
 私は、紫式部は、人間主義社会に生きる人間にも悩みや他人との軋轢はあるが、人間主義的な言動に徹するように心がけることでそれを克服することができる、ということを『源氏物語』の中で示唆している、と見る。
 仏教に関しては、『源氏物語』の中で「当時の風習であるから、仏教に関する事柄をも写した」に過ぎないが、だからといって、彼女は、「仏教を軽視し」たわけでは必ずしもなく、仏教は非人間主義者を人間主義者化することを目指す営みであって大いに尊敬されるべきものだが、遺憾にも日本に伝わった仏教はそのための具体的方法論を欠いている上に、日本人の大部分は人間主義者であるので、仏教など不要だったのだが、創出されつつある武士達のためには、人間主義化方法論を備えた仏教が必要だ、と「正しく」認識していた、と見ている。
 なぜなら、私は、それが、桓武天皇構想のトレーガー達の共通のホンネとしての仏教認識だったと考えているところ、紫式部は、超がつく才媛で、しかも、一条天皇や藤原道長クラスの人々と交流があった人物だからだ。
なお、道長は、「1019年・・・3月、・・・出家する。半年後に東大寺で受戒された。・・・法成寺<を>建立することに心血を注ぎこみ、造営には資財と人力が注ぎ込まれ、諸国の受領は官へ納入を後回しにしても、権門の道長のために争ってこの造営事業に奉仕した。更に道長は公卿や僧侶、民衆に対しても役負担を命じた。道長はこの造営を通じて彼らに自らの権威を知らしめると同時に、当時の末法思想の広がりの中で「極楽往生」を願う彼らに仏への結縁の機会を与えるという硬軟両面の意図を有していた。・・・道長はこの法成寺に住んだ・・・。<1027>年12月4日・・・、病没。享年62。・・・死期を悟った道長は、法成寺の東の五大堂から東橋を渡って中島、さらに西橋を渡り、西の九体阿弥陀堂(無量寿院)に入り九体の阿弥陀如来の手と自分の手とを糸で繋ぎ、釈迦の涅槃と同様、北枕西向きに横たわった。僧侶たちの読経の中、自身も念仏を口ずさみ、西方浄土を願いながら往生したといわれている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%81%93%E9%95%B7

ので、熱心な仏教(浄土教)信者だったと思う向きもあるかもしれないが、「晩年はかなり健康を害しており、50歳を過ぎたあたりから急激に痩せ細り、また水をよく飲むようになり、糖尿病が発症したと思われる。さらに視力も年々衰えて、目の前の人物の顔の判別もできなくなった事から、糖尿病の合併症としての視力低下と思われる。それに加えて胸病(心臓神経症)の持病もあった。」(上掲)ことから、往年の道長ではなくなっていた、と見るべきだろう。(太田)


[武士創出期の諸天皇–陽成天皇と光孝・宇多・醍醐天皇]

一 陽成天皇

 「陽成天皇<(869~949年。天皇:876~884年)は、>・・・生後3か月足らずで立太子し、・・・876年・・・11月に9歳で父・清和天皇から譲位され<たもの>。父帝に続く幼年天皇の登場であり、母方の伯父・藤原基経が摂政に就いた。在位の初めは、両親および基経が協力して政務を見たが、・・・880年・・・に清和上皇が崩じてからは基経との関係が悪化したらしく、・・・883年・・・8月より基経は出仕を拒否するようになる。・・・
 基経から迫られ、・・・<884年>2月に退位し、太上天皇となる・・・。
 結局、仁明の皇子(陽成の祖父・文徳天皇の異母弟)である大叔父の時康親王(光孝天皇)が55歳で即位することになった。
 光孝は自身の皇位を混乱回避のための一代限りのものと心得、すべての皇子女を臣籍降下させて子孫に皇位を伝えない意向を表明した。それは皇位が陽成の近親者、特に陽成の弟であり、また藤原基経の甥でもある貞保親王に行く可能性を考えての行動であった。ところが、即位から3年後の・・・887年・・・、光孝は病に陥り皇位の行方が問題となった。が、・・・基経と光孝は相計り、次期天皇として8月25日に光孝の子である源定省を皇籍に復帰させ翌日には立太子させた。同日、光孝天皇は崩御し、定省親王(宇多天皇)が践祚した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%BD%E6%88%90%E5%A4%A9%E7%9A%87

⇒陽成天皇は、武家創出ホップ・ステップ・ジャンプ(コラム#11557)構想を核心とする桓武天皇構想(コラム#11192)中のステップ(後述)、そして出来得れば更にジャンプ(後述)、を担う意欲と能力に欠ける、と、藤原基経は判断して、この天皇を引きずり下ろした、と見る。(太田)

二 光孝天皇

 「光孝天皇<(830~887年。天皇:884~887年)は、>・・・和歌・和琴などに秀でたとされ、<また、>桓武天皇の先例にならって鷹狩を復活させた。また、親王時代に相撲司別当を務めていた関係か、即位後に相撲を奨励している。・・・
 光孝は、基経が陽成の弟であり自身の甥である貞保親王に天皇位を継がせるであろうと推測し、即位と同時に自身のすべての子女を臣籍降下させることで、自身の子孫に皇位を伝えない意向を内外に表明していた<が、結局>病を得<た時>、・・・子息の源定省を皇籍に復し、・・・立太子させた<上で>死去、定省王が践祚した(宇多天皇)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E5%AD%9D%E5%A4%A9%E7%9A%87

⇒光孝天皇は、基経の期待通り、縄文性だけでなく、弥生性も発揮し、やがて、基経からの、貞保親王(注14)もまた、ステップ/ジャンプを担う意欲と能力に欠けるので天皇には不適任であるとの意見に従い、自分の子達のうち、一番出来の良かった定省王(注15)に皇位を譲る決意をした、と見る。(太田)

 (注14)870~924年。「琵琶のほか、和琴・尺八などをよくした。笛は管絃長者・天下無比の名手と称されるほどであり、「衆芸の人」で、肩を並べる者なしと評された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%9E%E4%BF%9D%E8%A6%AA%E7%8E%8B
 (注15)同母兄に是忠(これただ)親王(857~922年)がいた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AF%E5%BF%A0%E8%A6%AA%E7%8E%8B

三 宇多天皇

 「宇多天皇<(867~931年。天皇:887~897年)は、>・・・即位後間もない11月21日に、基経に再び関白としての役割を果たすよう勅書を送った。しかしこの手続きの際に左大弁橘広相の起草した「宜しく阿衡の任をもって卿の任とせよ」の文言に基経が立腹し、政務を拒んで自邸に引き籠もってしまう。翌年6月になって宇多はついに折れ、勅書を取り消した上に広相を解官せざるを得なかった。・・・891年・・・1月に基経が死去するに及んで、宇多はようやく親政を開始することができた。・・・
 宇多天皇は基経の嫡子時平を参議にする一方で、源能有など源氏や菅原道真、藤原保則といった藤原北家嫡流から離れた人物も抜擢した。この期間には遣唐使の停止、諸国への問民苦使<(注16)>の派遣、昇殿制<(注17)>の開始、日本三代実録・類聚国史の編纂、官庁の統廃合などが行われた。

 (注16)もみくし/もんみんくんし。「地方行政を監察し,〈民の苦を問う〉ことを目的として派遣された臨時の使。奈良時代の<孝謙天皇のときの>天平宝字年間(758年任命)に1度,平安時代には<桓武天皇の時の>延暦年間(795年任命),<宇多天皇の時の>寛平年間(《類聚三代格》寛平8年(896)の官符に問山城国民苦使がみえる)に各1度派遣されたことが知られる。」
https://kotobank.jp/word/%E5%95%8F%E6%B0%91%E8%8B%A6%E4%BD%BF-143361
 (注17)「平安時代も中・末期になると,有位者の増大などによって位階の社会的評価も相対的に低下し,昇殿の制が新しい身分制として重んぜられるようにな<り、>・・・五位以上の者および六位の蔵人が、家格や功績によって宮中の清涼殿にある殿上<(てんじょう)>の間<(ま)>に昇ることを許され<ることになっ>た<。>・・・
 <最初>は個人に対して昇殿をゆるしたが、しだいに昇殿をゆるされる家柄が固定し<、>・・・堂上家<(とうしょうけ)と>・・・地下(じげ)<に区別されるようになった。>」
https://kotobank.jp/word/%E6%98%87%E6%AE%BF-79561 
 「藤原道長<が>・・・左大臣<の頃は、>・・・有事の際に廷臣として務めることができるようにするため、・・・五位以上の者は許可なく畿外に住むことはできなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%B6%AD%E8%A1%A1 

⇒宇多天皇の時の問民苦使は、恐らくは、武家創出ホップ(後述)とステップの実現状況を天皇が直接把握するために行われたものであって、例えば、ホップに関しては、父の藤原北家出身の「藤原豊沢から職務を受け継ぎ・・・従五位下・・・下野大掾に任ぜられ」た藤原村雄・・俵藤太(藤原秀郷)の父・・の下野
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%9D%91%E9%9B%84
、ステップに関しては平高望(後出)が上総介に任官していた上総
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E9%AB%98%E6%9C%9B
等にに派遣されたのではないか。
 また、位階制度の改訂は、武家の格付けを行うことで、ホップ、ステップ、ジャンプ、それぞれを担う武家群中の優劣をはっきりさせ、武家相互の主従関係形成を助長するのが狙いだったのではないか。
 しかし、藤原北家中の本流にとって問題だったのは、宇多天皇がこういった桓武天皇構想遂行諸施策を自分達だけとの協力関係の下で実行することを不可能にしかねないことだった、と見る。(太田)

 また文化面でも寛平御時菊合や寛平御時后宮歌合などを行い、これらが多くの歌人を生み出す契機となった。
 <これを>寛平の治<(かんぴょうのち)という。>・・・
 宇多は<897>年7月3日・・・に突然皇太子敦仁親王を元服させ、即日譲位し、太上天皇となる。この宇多の突然の譲位は、かつては仏道に専心するためと考えるのが主流だったが、近年では藤原氏からの政治的自由を確保するためこれを行った、あるいは前の皇統に連なる皇族から皇位継承の要求が出る前に実子に譲位して己の皇統の正統性を示したなどとも考られている・・・。・・・
 新たに即位した醍醐には自らの同母妹為子内親王を正妃に立て、藤原北家嫡流が外戚となることを防ごうとした。

⇒ここまでは、藤原氏北家本流とも調整の上、宇多が行ったものだろう。(太田)

 また譲位直前の除目で菅原道真を権大納言に任じ、大納言で太政官最上席だった時平の次席としたうえで、時平と道真の双方に内覧を命じ、朝政を二人で牽引するよう命じた。・・・

⇒宇多としては、藤原氏北家本流を叱咤激励するつもりだったのだろうが、これでは、時平が突然死したような場合、一時的にせよ、藤原氏北家本流以外の者が、桓武天皇構想を(宇多ないし醍醐天皇から)開示されざるをえなくなる恐れがあり、この機密情報の漏洩につながりかねない、と、時平は不満だったと想像される。(太田)

 宇多は譲位後も道真の後ろ盾となり、時平の独走を防ごうとしていたが、一方で仏道に熱中し始めた。・・・899年・・・10月24日には出家し、東寺で受戒した後、仁和寺に入って法皇となった。さらに高野山、比叡山、熊野三山にしばしば参詣し、道真の援助を十分に行えなくなった。

⇒895年に太政官の首班となり、896年に左大臣に任ぜられた(最初の藤氏長者に擬せられる)藤原良世(よしよ。823~900年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%89%AF%E4%B8%96
が「前の皇統に連なる皇族から皇位継承の要求が出る前に実子に譲位して己の皇統の正統性を示」すべきであると宇多天皇を焚きつけて897年に譲位させたのではないかと思われるところ、藤原基経の異母妹で右大臣藤原氏宗室(後妻)で、夫が没し寡婦となった後も宮廷にあって、「時康親王(後の光孝天皇)の第七王子・定省王(後の宇多天皇)を猶子とする<と共に、>橘広相の娘である義子を養女に迎え、定省を娶せ<、>・・・光孝天皇・宇多天皇の即位には、<そ>の力が大きかったとされ<、最終的には>・・・従一位に至<ったところの、>・・・藤原淑子<(しゅくし/よしこ。838~906年)>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%B7%91%E5%AD%90
「が・・・延喜年間<に>・・・重病となり、宮中に壇を設け加持祈祷を行<い、>無事平癒<させた>益信<(やくしん。827~906年)>に深く帰依し<ていた>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%8A%E4%BF%A1
こともあって、恐らくは、「<父の>光孝天皇<が>仁和2年(886年)に・・・真言宗<の>・・・仁和・・・寺<を>・・・建て・・・始めた<ものの>完成を見ずに翌年崩御し<たの>を引き継い<で>・・・宇多天皇<が>仁和4年(888年)に落成<させ>た」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E5%92%8C%E5%AF%BA
という、自身と真言宗との縁にひっかけて、宇多が、「<899年に>出家<し、その出家の>際には受戒の師<に>な<ってもらって>」(上掲)、法皇となり、仁和寺の一角に住することとなった(上掲)ところ、宇多の意図については後述する。(太田)

 ・・・901年・・・正月、道真は宇多の子で自らの婿でもある斉世親王を皇位に即けようとしていたという嫌疑で、大宰府へ左遷された。この知らせを受けた宇多は急遽内裏に向かったが、宮門は固く閉ざされ、その中で道真の処分は決定してしまった。日本史学者の河内祥輔は、宇多は自己の皇統の安定のために醍醐の皇太子決定を急ぎ、結果的に当時男子のいなかった醍醐の後継をその弟から出すことを考えるようになった。加えて醍醐が許した基経の娘・藤原穏子の入内にも反対したために、これに反発した醍醐が時平と図って法皇の代弁者とみなされた道真を失脚させたという説を提示している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%A4%9A%E5%A4%A9%E7%9A%87

⇒宇多天皇は、ステップに関し、(その子孫を武家化させることを言い含めた上で)「高望<(注18)>に889>・・・年5月13日<に>・・・勅により平姓を賜与<し>臣籍降下
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E8%89%AF%E5%85%BC
させたり、ジャンプに関し、自分とほぼ同世代の、(清和天皇の子の)貞純親王(870・873?~916年)に対しても、その子の源経基
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%9E%E7%B4%94%E8%A6%AA%E7%8E%8B
を、子孫が将来武家の棟梁になることを含みに、武士化させることを承諾させることに成功したところ、藤原基経やその子の時平は、喜びつつも(後述する理由から)さぞ複雑な思いだったことだろう。(太田)

 (注18)平高望の正室は、藤原北家の左大臣藤原冬嗣の子たる藤原良方の娘
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E9%AB%98%E6%9C%9B
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%89%AF%E6%96%B9
 高望の子の国香の二人の妻のうち一人は藤原北家の左大臣藤原魚名の子の藤成の子の豊沢の子の藤原村雄の娘
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%9B%BD%E9%A6%99
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%9D%91%E9%9B%84
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%B1%8A%E6%B2%A2
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%97%A4%E6%88%90
 この国香の子が平貞盛だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E8%B2%9E%E7%9B%9B

四 醍醐天皇

 「醍醐天皇<(885~930。天皇:897~930年)(注19)は、>・・・父帝の訓示「寛平御遺誡」を受けて藤原時平・菅原道真を左右大臣とし、政務を任せる。

 (注19)885~930年。「現在に至るまで臣籍の身分として生まれた唯一の天皇で、はじめ源維城といった。・・・宇多天皇の第一皇子。母は内大臣藤原高藤の女藤原胤子。養母は藤原温子(関白太政大臣基経の女)。・・・
 寒中の雪降りの夜に「諸国の民はいかに寒からむ」とて御衣を寝室より投げ出す。おおかた笑みておりその由は「まめだちな人にはものを言いにくし、打ち解ければ人はものを言いよき。されば大小を聞くため」と答える。民の上を偲ばれた醍醐天皇は疾病や天候の不順な時には、大赦したり税を免じられたり、収穫のよくない年には民の負担を減らすために重陽の節(ちょうようのせち、9月9日)を何度も中止されたとある。また、旱魃の時 には、一般民に冷泉院の池の水を汲むことを許し、そこの水がなくなると、さらに神泉苑の水も汲ませ、ここの水もなくなったとある。鴨川の洪水などがあれば、水害を蒙った者に助けの手を差し出したり、その年貢や労役を免除されたとある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%BD%E6%88%90%E5%A4%A9%E7%9A%87

 その治世は34年の長きにわたり、摂関を置かずに形式上は親政を行って数々の業績を収めたため、後代になってこの治世は「延喜の治<(えんぎのち)>」として謳われるようになった。
 しかし・・・901年)、時平の讒言を容れて菅原道真を大宰員外帥に左遷した昌泰の変は、聖代の瑕と評されることになった。近年ではこの事件は天皇と時平による宇多上皇の政治力排除のための行動だったと考えられている。

⇒現在の通説であり、この限りにおいては異存はない、。(太田)

 また同じ年に時平の妹・藤原穏子が女御として入内しており、後に中宮に立っていることからも、この事件はそれまで宇多上皇が採ってきた藤原氏を抑制する政策の転換という側面があったとも考えられている。

⇒ここも異存はないのだが、その背景として、武家の創出政策が概成したことを挙げておきたい。(太田)

 時平は荘園整理令の施行に尽力したことをはじめ、国史『日本三代実録』<(注20)>の完成や、律令制の基本法である延喜格式<(注21)>の撰修にも着手している。

 (注20)「清和天皇、陽成天皇、光孝天皇の3代である天安2年(858年)8月から仁和3年(887年)8月までの30年間を扱う。・・・本書の編纂は寛平5年(893年)頃、宇多天皇が・・・編纂を命じたことにより始ま<り、>・・・次の醍醐天皇の勅を受けて編纂を再開し、事実上、延喜元年(901年)8月に完成し<た。>・・・
 編集方針は「序」を示し、国家儀礼、慶事、災異(災はウ冠の下に火)は全て載せるとしている。六国史の中で最も精緻な記述を持ち、後世の史書の規範となった。詔勅や表奏文を豊富に収録し、先例のできあがった慣行を記載するなど、読者たる官人の便宜を図った。節会や祭祀など年中行事の執行をも記す。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%B8%89%E4%BB%A3%E5%AE%9F%E9%8C%B2
 (注21)「格式(きゃくしき)とは、律令の補完のために出された法令あるいはそれらをまとめた法令集のことを指す。・・・
 日本では養老律令以降、新規の律令が全くつくられなくなったため、格の占める比率が高くなり、律令による規定そのものを否定する法令(例:墾田永年私財法)さえも格の形式によって出されるようになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%BC%E5%BC%8F
 「三代格式とは、平安時代に編纂された・・・嵯峨天皇<による>・・・弘仁格式、・・・清和天皇<による>・・・貞観格式、・・・醍醐天皇<による>・・・延喜格式の三つの格式(律令の補助法令・いわゆる取説)の総称である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E4%BB%A3%E6%A0%BC%E5%BC%8F
 「類聚三代格<は、>三代格(弘仁格、貞観格、延喜格)を内容別に「神社事」・「国分寺事」・「庸調事」などと類聚(ジャンル分け)してまとめたもので、先行の格に収録されているものは再録していない。成立時期は・・・<一条天皇の時の>長保4年(1002年)と<堀河天皇の時の>寛治3年(1089年)の間とされる。三代格では官司別にまとめており、法典として利用するとき不便である上、平安時代中期に有職故実化の傾向があったため、典例整備事業の一環として成立したとされる。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A1%9E%E8%81%9A%E4%B8%89%E4%BB%A3%E6%A0%BC 
 「墾田永年私財法<は、>・・・聖武天皇の治世に、天平15年・・・(743年・・・)に発布された勅(天皇の名による命令)で、墾田(自分で新しく開墾した耕地)の永年私財化を認める法令であ<り、>・・・荘園発生の基礎となった法令である。・・・
 養老7年(723年)に出された三世一身法によって、墾田は孫までの3代の間に私財化が認められていたが、収公期限が引き続き定められたため、収公の時期が迫ると荒廃することがあった。それを踏まえ、食料の生産を増やす為、この法の施行をもって永年にわたり私財とすることを可能とした。
 また当時の日本は、天平の疫病大流行(天平7年(735年)から同9年(737年))により大打撃を受けたところでもあった。その数年後に出された墾田永年私財法は、農業生産性を高めることを通じた社会復興策としての一面も強かった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A2%BE%E7%94%B0%E6%B0%B8%E5%B9%B4%E7%A7%81%E8%B2%A1%E6%B3%95

⇒陽成天皇から光孝天皇への政変的代替わりの真の理由を隠蔽しつつ、清和天皇から書き起こすことによって、その真の理由を後世の誰かに突き止めさせるのが『日本三代実録』編纂の最大の眼目だった、と、私は見るに至っている。
 また、延喜格式の撰修は、最後の格式になることを意識してなされたものであり、武家に権力が委譲された暁に制定されるであろう法令・・結果的に式目と称されることになった・・へのバトンタッチが念頭にあった、と、私は見ている。(太田)

 天皇はまた和歌の振興に力を入れ、延喜5年(905年)には『古今和歌集』の撰進を紀貫之らに命じている。自身も和歌を良くし、勅撰集に都合43首が入っているほか、家集『延喜御集』も編んでいる。
 33年間にわたって記した宸記『延喜御記』全20巻は早くから散逸して現存しないが、諸書に引用された逸文を次の村上天皇のそれと併せた『延喜天暦御記抄』として伝わっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%8D%E9%86%90%E5%A4%A9%E7%9A%87

⇒『古今和歌集』の撰進については、下の囲み記事参照。(太田)

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[古今和歌集と土佐日記]

一 古今和歌集
 
(一)プロローグ

 日本最初の長編物語である『源氏物語』が上述のような事実上の公文書だったとすれば、日本最初の(文字通りの)公文書たる歌集、勅撰和歌集、である『古今和歌集』のことが気になりだしたので、調べてみた。↓

 「『古今和歌集』は二つの序文を持つ。・・・巻頭<の>・・・仮名で書かれた仮名序と、・・・巻末<の>・・・漢文で書かれた真名序である。・・・
 仮名序は紀貫之、真名序は紀淑望の作とされる。伝本によってはまず巻頭に真名序、次に仮名序があってその次に本文がはじまるものがある。ただし真名序を持たない伝本も多い。・・・
 仮名序によれば、醍醐天皇の勅命により『万葉集』に選ばれなかった古き時代の歌から撰者たちの時代までの和歌を撰んで編纂し、・・・905年・・・4月18日に奏上された。ただし現存する『古今和歌集』には、<905>年以降に詠まれた和歌も入れられており、奏覧ののちも内容に手が加えられたと見られ、実際の完成は・・・914年・・・または<915>年ごろとの説もある。
 撰者は紀友則、紀貫之、凡河内躬恒、壬生忠岑の4人である。序文では友則が筆頭にあげられているが、仮名序の署名が貫之であること、また巻第十六に「紀友則が身まかりにける時によめる」という詞書で貫之と忠岑の歌が載せられていることから、編纂の中心は貫之であり、友則は途上で没したと考えられている。・・・
 古今集所載歌のうち4割ほどが読人知らずの歌であり、また撰者4人の歌が2割以上を占める。
 以下、入集歌数順に代表的歌人を挙げる。対象は墨滅歌を含む1111首。巻第十五・恋歌五所収の803番の歌は兼芸の歌と見做す。
紀貫之 – 入集102首。巻第六巻軸。撰者の一人。
凡河内躬恒 – 入集60首。巻第二第三第五巻軸。撰者の一人。
紀友則 – 入集46首。巻第八第十二巻軸。撰者の一人。
壬生忠岑 – 入集36首。撰者の一人。
素性 – 入集36首。巻第九巻軸。遍昭の子。撰者以外での最多入集。
在原業平 – 入集30首。巻第十三第十五巻頭。六歌仙の一人。
伊勢 – 入集22首。巻第一第十三第十八巻軸。宇多天皇の中宮温子に仕える。
藤原興風 – 入集17首。巻第四巻第十巻頭、並びに古今集1100首の掉尾を飾る巻第二十巻軸。
小野小町 – 入集17首。巻第十二巻頭。六歌仙の一人。
遍昭 – 入集18首。巻第四巻軸。六歌仙の一人。
清原深養父 – 入集17首。
在原元方 – 入集14首。古今集の劈頭を飾る巻第一巻頭。業平孫、棟梁子。・・・

⇒以上を踏まえれば、あらゆる意味で、『古今和歌集』の編纂者は紀貫之だ、と言ってよかろう。
 制作者は、もちろん、時の醍醐天皇だ。(太田)

 『古今和歌集』は「勅命により国家の事業として和歌集を編纂する」という伝統を確立した作品でもあり、八代集・二十一代集の第一に数えられ、平安時代中期以降の国風文化確立にも大きく寄与した。たとえば、『枕草子』では古今集を暗唱することが当時の貴族にとって教養とみなされたことが記されているほか、『源氏物語』においてもその和歌が多く引用されている。

⇒紫式部が『古今和歌集』も重視していたことが、改めて注目される。(太田)

 収められた和歌のほかにも、仮名序は後世に大きな影響を与えた歌論として文学的に重要である。
 中世以降、『古今和歌集』は歌詠みにとって「和歌を詠む際の手本」として尊ばれた。藤原俊成は著書『古来風躰抄』に、「歌の本躰には、ただ古今集を仰ぎ信ずべき事なり」と述べており、これは『古今和歌集』が「歌を詠む際の基準とすべきものである」ということである。『古今和歌集』についての講義や解釈は次第に伝承化され、やがて古今伝授と称されるものが現れた。これは「『古今和歌集』の講義を師匠と定めた人物より受け、その講義内容を筆記し、さらに師匠からその筆記した内容が伝えたことに誤りはないかどうかの認可を最後に受ける」というものであった。この古今伝授は、当時の公家や歌人にとっては重要視され、朝廷を中心とする御所伝授や地下伝授・堺伝授と呼ばれる系統が形成されていった。
 細川幽斎が田辺城の戦いで石田三成の軍勢に囲まれ死を覚悟した時、この古今伝授を三条西実枝から受けていたので勅使が丹後に赴き和議を講じ、その結果幽斎は城を開いて亀山城に移ったという話がある。・・・

⇒武家である細川幽斎が『古今和歌集』の最高権威と見なされた時があったということは、武士達の間で、『古今和歌集』がいかに重視されていたことを示すものだ。(太田)

 このように成立した頃から評価が高かった『古今和歌集』であるが、その歌風は江戸時代になると、賀茂真淵により『万葉集』の「ますらをぶり」(すなわち男性的である)と対比して「たをやめぶり」(すなわち女性的である)と言われるようになる。こうした精神は田安宗武のほか、真淵門下の楫取魚彦などに受け継がれ、次第に万葉風の歌を詠む者が続出したが、同じ真淵門下でも加藤千蔭や村田春海などは、『古今和歌集』を基調とする歌論を展開した。また、同じく真淵門下である本居宣長は、『排蘆小船』において古今伝授を「後代の捏造」と批判する一方で、『古今和歌集』の全歌(真名序と長歌は対象外)に俗語訳と補足的説明を添えた注釈書『古今集遠鏡』を執筆している。・・・

⇒本居宣長もまた、『源氏物語』とともに『古今和歌集』を重視していたことに注目。(太田)

 時代が明治に入ると、正岡子規が『再び歌よみに与ふる書』の中で「貫之は下手な歌よみにて古今集は下らぬ集にて有之候」と述べて以降、歌人にとって正典であった『古今和歌集』の評価は著しく下がった。その背景には当時、『古今和歌集』の歌風の流れを汲む桂園派への批判もあったといわれる。子規の他にも、和辻哲郎は直截には言わないが『古今和歌集』の和歌が総体として「愚劣」であるとしており、萩原朔太郎にいたっては「笑止な低能歌が続出」、「愚劣に非ずば凡庸の歌の続出であり、到底倦怠して読むに耐へない」とまで罵倒している。

⇒やっぱり、和辻哲郎は、『源氏物語』も『古今和歌集』も、どちらもお気に召さなかったというわけだ。(太田)

 こうして『古今和歌集』は、人々から重要視されることがなくなり、その代わりに『万葉集』の和歌が「雄大かつ素朴である」として高く評価されるようになった。
 近代においてはそうした評価を受けていた『古今和歌集』であったが、現在ではその価値が再評価されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BB%8A%E5%92%8C%E6%AD%8C%E9%9B%86

(二)本論

 さて、和辻らが、古今和歌集を評価するにあたって、醍醐天皇が、日本史上初めて国家事業として『古今和歌集』を編纂させた、すなわち、最初の勅撰和歌集を編纂させた、のは一体どうしてなのかに思いを致していないのはいかがなものか。
 私は、創出されつつある武士ないし武士の卵達に向けて、私の言うところの、毀損された、或いは毀損されるであろう、縄文性を回復し、維持する手段として、厩戸皇子が、従って桓武天皇も、仏教に期待をかけたものの、未だ仏教界がその期待に応えることができていない・・仏教(真言宗)に現世利益を求めた藤原淑子(前出)や仏教(真言宗)に入れあげて政務を疎かにした清和天皇(後述)、ひいては桓武天皇が勧進したところの、平安2大仏教宗派たる天台宗と真言宗
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%80%E6%BE%84
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA%E6%B5%B7
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%93%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87
に対し、醍醐は憂慮の念を抱いたことだろう・・ことから、補完的方法として、「たおやめぶり(=人間主義)」の和歌に接したり読んだりすることを推奨することを思いつき、そのような和歌を中心とした歌集の編纂させることとした、と受け止めることができるのではないか、と考えた。
 その上で、そういう目で、醍醐天皇の意を汲んで紀貫之が書いたと見て良い、古今和歌集「仮名序」を読み返してみることにした。↓

 「やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。

⇒「人の心」とは、私の言うところの人間主義のこと、と言ってよいのではないか。(太田)

 世の中にある人、事業(ことわざ)、繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり。
 花に鳴く鶯、水にすむ蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌を詠まざりける。

⇒人以外の生き物も人間主義的存在であることを示唆している、と見る。(太田)

 力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の仲をも和らげ、猛き武士の心をも慰むるは、歌なり。

⇒「力を・・・和らげ」は修飾語であって、このセンテンスの主眼は、和歌が武士の心を慰める、つまりは、武士の毀損された人間主義性(縄文性)を修復、回復することができるし、そういう和歌であって欲しい、旨の宣言にある、と見る。
 ちなみに、「「武士」という言葉自体は平安時代に使われることは希であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%A3%AB
とされており、これがひょっとすると初出であって、そのネーミングは醍醐天皇が行ったのかもしれない。(太田)

 この歌、天地の開け始まりける時より出で来にけり。
 しかあれども 、世に伝はることは、ひさかたの天にしては下照姫<(注22)>に始まり、あらかねの地にしては素盞嗚尊<(注23)>よりぞ起こりける。

 (注22)したてるひめのみこと/したでるひめのみこと=高比売命(たかひめのみこと)。「『古事記』および『日本書紀』正伝によれば、葦原中国平定のために高天原から遣わされた天若日子が、大国主神に取り入ってあわよくば葦原中国を自分のものにしようと目論み、その娘である高比売命と結婚した。天若日子が高天原からの返し矢に当たって死んだとき、高比売命の泣く声が天(『古事記』では高天原)まで届き、その声を聞いた天若日子の父の天津国玉神や天若日子の妻子らは葦原中国に降臨し、天若日子の喪屋を建て殯を行った。そこに阿遅鉏高日子根神が訪れたが、その姿が天若日子にそっくりであったため、天津国玉神や妻子らは天若日子が生き返ったと喜んだ。阿遅鉏高日子根神は穢わしい死人と間違えられたことに怒り、喪屋を大量で斬り倒し、蹴り飛ばして去って行った。高比売命は、阿遅鉏高日子根神の名を明かす歌を詠んだ。この歌は「夷振(ひなぶり)」と呼ばれる(夷振を詠んだという記述は『日本書紀』正伝にはない)。『日本書紀』の第一の一書では、天稚彦の妻の名は記されておらず、夷振を詠んだ者の名としてのみ下照媛の名が登場し、味耜高彦根神の妹であるとしている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%82%BF%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%92%E3%83%A1
 (注23)スサノオは、クシナダヒメの姿形を歯の多い櫛に変えて髪に挿し、ヤマタノオロチを退治する。そしてヤマタノオロチの尾から出てきた草那藝之大刀(くさなぎのたち、紀・草薙剣)を天照御大神に献上し、それが古代天皇の権威たる三種の神器の一つとなる(現在は、愛知県名古屋市の熱田神宮の御神体となっている)。その後、櫛から元に戻したクシナダヒメを妻として、出雲の根之堅洲国にある須賀(すが)の地へ行きそこに留まった。
 そこで、
夜久毛多都 伊豆毛夜幣賀岐 都麻碁微爾 夜幣賀岐都久流 曾能夜幣賀岐袁(古事記)
夜句茂多菟 伊弩毛夜覇餓岐 菟磨語昧爾 夜覇餓枳都倶盧 贈廼夜覇餓岐廻(日本書紀)
やくもたつ いずもやえがき つまごみに やえがきつくる そのやえがきを(読み:ふりがな)
八雲立つ  出雲八重垣   妻籠に   八重垣作る   その八重垣を
と詠んだ。記紀で最初の歌であることから、我が国最初の和歌ともされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%B5%E3%83%8E%E3%82%AA 

 ちはやぶる神世には、歌の文字も定まらず、素直にして、事の心分きがたかりけらし。
 人の世となりて、素盞嗚尊よりぞ、三十文字あまり一文字は詠みける。

⇒和歌的なものは女性が始めたのであって、たまたま和歌は男性が始めけれど、男性は、女性の心・・たおやめぶり≒人間主義・・でもって和歌を詠まなければならない、と言っている、と見る。(太田)

 かくてぞ花をめで、鳥をうらやみ、霞をあはれび、露を悲しぶ心・言葉多く、さまざまになりにける。

⇒(自然は人間主義的存在ではないが、)人は自然と人間主義的に接するように心掛けよ、と言っている。(太田)

 遠き所も、出で立つ足下より始まりて年月を渡り、高き山も、麓の塵泥よりなりて天雲棚引くまで生ひ上れるごとくに、この歌もかくのごとくなるべし。」
https://shikinobi.com/kanajo

⇒人間主義は、時空を超越したものだ、と言っている。
 以上から、醍醐天皇が、時代が弥生モードに切り替わろうとしている時代、縄文的弥生人たる武士が権力の担い手になるのがそう遠くない時代、において、武士の卵達に対し、もののあはれ(人間主義性=縄文性)を忘れない縁(よすが)にさせるため、『古今和歌集』を紀貫之に編纂させた、と、私は考えるに至った。
 そして、以上のような古今和歌集に込められたメッセージを、武士達は理解し、正面から受け止め、実践して行った、とも。↓

〇西行(佐藤義清。1118~1190年):ホップ系武士

 「父系は藤原魚名(藤原北家の藤原房前の子)を祖とする魚名流藤原氏。・・・
 1135年・・・に左兵衛尉(左兵衛府の第三等官)に任ぜられ、さらに鳥羽院に下北面武士としても奉仕していた(同時期の北面武士に平清盛がいる)。この頃、徳大寺公重の菊の会に招かれ、藤原宗輔が献上した菊の歌を詠んでおり、既に歌人としての評価を得ていたとされる。
 ・・・1140年・・・10月、出家して西行法師と号した・・・。・・・
 1186年・・・、東大寺再建の勧進のため2度目の陸奥行きを行い藤原秀衡と面会。この途次に鎌倉で源頼朝に面会し、歌道や武道の話をした<。>・・・
 西行は院政期の実験的な新風歌人として登場し、藤原俊成とともに『千載集』の主調となるべき風を完成させ、そこからさらに新古今へとつながる流れを生み出した歌壇の中心人物であった。
 後世に与えた影響は極めて大きい。後鳥羽院をはじめとして、宗祇、芭蕉にいたるまでその流れは尽きない。特に室町時代以降、単に歌人としてのみではなく、旅の中にある人間として、あるいは歌と仏道という二つの道を歩んだ人間としての西行が尊崇されていた<のであって、>宗祇、芭蕉にとっての西行は、あくまでこうした全人的な存在であって、歌人としての一面をのみ切り取ったものではなかった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E8%A1%8C

⇒藤原秀衡も源頼朝も、古今調歌人を尊重していたことが分かる。(太田)

〇平忠度(1144~1184年):ステップ系武士

 「伊勢平氏の棟梁である平忠盛の六男として生まれる。・・・歌人としても優れており藤原俊成に師事した。平家一門と都落ちした後、6人の従者と都へ戻り俊成の屋敷に赴き自分の歌が百余首収められた巻物を俊成に託した。・・・
 忠度が討たれた際、「文武に優れた人物を」と敵味方に惜しまれたという。・・・
 『千載和歌集』に撰者・俊成は朝敵となった忠度の名を憚り「故郷の花」という題で詠まれた歌を一首のみ詠み人知らずとして掲載している。・・・
 <俊成の子の藤原>定家は『新勅撰和歌集』において・・・女性の立場で詠んで<いる>・・・歌を「薩摩守忠度」の名で選んでいる<ところ、この歌を含め、>・・・『千載和歌集』以降の勅撰和歌集に11首が入集<されている>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E5%BA%A6

⇒忠度が「たおやめ」そのものの「女性の立場で詠んで」いる和歌があることに注目すべきだろう。(太田)
 
〇源実朝(1192~1219年):ジャンプ系武士

 「歌人としても知られ、92首が勅撰和歌集に入集し、小倉百人一首にも選ばれている。家集として『金槐和歌集』がある。・・・
 和歌の師である藤原定家は『新勅撰和歌集』に実朝の和歌を25首入集させて<いる。>(同集の入集数第6位)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E5%AE%9F%E6%9C%9D
 金槐和歌集<については、>・・・国学者賀茂真淵に称賛されて以来、「万葉調」の歌人ということになっている源実朝の家集であるが、実際には万葉調の歌は少ない。所収歌の多くは古今調・新古今調の本歌取りを主としている。

⇒(和歌の)『古今和歌集』、と、その後にできた(物語の)『源氏物語』は、武士達の間ではセットで二大基本書的に重視されていた、とも考えられ、『源氏物語』フェチの実朝(前述)が古今調の和歌を主として詠んだのは当然だと言えそうだ。(太田)

 松尾芭蕉は、中頃の歌人は誰かと聞かれ、即座に「西行と鎌倉右大臣」と答えている。正岡子規、斎藤茂吉、小林秀雄からは最大級の賛辞を送られている。・・・
 定家所伝本と、・・・貞享本の2系統が伝えられている。前者は・・・自撰が有力である。後者は・・・<室町幕府の第9代征夷大将軍>・・・足利義尚・・・が文明15年(1483年)前後に編集した・・・。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E6%A7%90%E5%92%8C%E6%AD%8C%E9%9B%86

⇒鎌倉将軍の歌集に室町将軍・・同じ清和河内源氏!・・が入れ込むのも、これまた当然だろう。(太田)

〇室町幕府将軍:ジャンプ系武家

 「足利義尚<(1465~1489年)は、>・・・一条兼良から政道や和歌などを学ぶなど、文化人としての評価は高い。和歌に熱心で、文明10年(1478年)頃から盛んに歌会を主催した。・・・1483年・・・10月には『新百人一首』を撰定し、さらに姉小路基綱や三条西実隆、飛鳥井雅親、宗祇などの歌人を結集して和歌『撰藻鈔』の編纂を試みたが、義尚の陣没により未完に終わった。・・・1484年・・・には、摂津国の多田院に、『多田院廟前詠五十首和歌』を奉納した。他に『常徳院集』など数種の歌集が伝わる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E5%B0%9A

⇒その足利義尚が、古今調歌人だったのは、不思議でもなんでもなかろう。(太田)

〇戦国大名の細川氏:ジャンプ系武家

 戦国大名の「細川幽斎<(藤孝。1534~1610年)>が田辺城の戦いで石田三成の軍勢に囲まれ死を覚悟した時、この古今伝授を三条西実枝から受けていたので勅使が丹後に赴き和議を講じ、その結果幽斎は城を開いて亀山城に移ったという話がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BB%8A%E5%92%8C%E6%AD%8C%E9%9B%86 前掲
 「<細川幽斉は、>三条西実枝から天正2年(1574)6月に勝龍寺城の天主で古今伝授を受け、その子三条西公国とさらにその子(実枝の孫)三条西実条に返し伝授するまでの間、二条派正統を一時期継承した。当時唯一の古今伝授の伝承者であ<った>・・・。
 門人には後陽成天皇の弟八条宮智仁親王、公家の中院通勝、烏丸光広などがおり、また松永貞徳、木下長嘯子らも幽斎の指導を受けた。島津義久は幽斎から直接古今伝授を受けようとした一人であり、幽斎が足利義昭に仕えていた頃から交流があった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E8%97%A4%E5%AD%9D

⇒細川幽斎・・細川氏は清和河内源氏足利氏の支流だ・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E6%B0%8F
に至っては、何と、時の古今和歌集の最高権威にまで上り詰めたわけだ。
 要するに、醍醐天皇が古今和歌集に託した思いを武士達、とりわけ上級武士達は、きちんと受け止め続けていたと言えそうだ。(太田)

(参考:万葉集について)

 「現在では・・・大伴家持・・・編纂説が最有力である。ただ、『万葉集』は一人の編者によってまとめられたのではなく、巻によって編者が異なるが、家持の手によって二十巻に最終的にまとめられたとするのが妥当とされている。・・・
 天皇、貴族から下級官人、防人(防人の歌)、大道芸人、農民、東国民謡(東歌)など、さまざまな身分の人々が詠んだ歌が収められており、作者不詳の和歌も2100首以上ある。7世紀前半から759年・・・までの約130年間の歌が収録されており、成立は759年から780年・・・ごろにかけてとみられ<る。>・・・
 賀茂真淵はこの集を評してまこと・ますらをぶりと言った。・・・
 仙覚は1203年・・・、常陸国の生まれで、7歳ごろに万葉集の研究を志したという。40歳のころには鎌倉に住み、鎌倉将軍九条頼経の知遇を得ていた。1243年・・・、頼経が歌人で源氏物語学者の源親行に万葉集の校訂を下命した。仙覚は1245年・・・か1246年・・・にこの校訂作業に加わり、親行が書写した写本を底本としてほかの6種類の写本と校合を行って、1247年・・・2月に完成させた。これが「仙覚寛元本萬葉集」ないし「寛元本」と呼ばれているものである。ただし、・・・仙覚の校訂本の原本は散佚している。
 寛元本は「傍訓形式」をとっている。すなわち、歌の漢字本文の傍らにカタカナで訓、つまり読み下し文を書き入れた。同時に仙覚は万葉集の歌のすべてに訓を施し、1253年・・・に新たに訓を施した152首を記した書と、万葉集の用字について論じた「奏覧状」の二書を後嵯峨院に献上している。
 この縁で仙覚は、後嵯峨院とその子息の鎌倉将軍宗尊親王らの支援を受けることになり、さらに5種類の写本の閲覧が可能になった。そこで、1261年・・・に今回は仙覚単独で万葉集の校訂作業を再開した。
 この校訂で1265年・・・9月に完成したのが「仙覚文永二年本萬葉集」で、ただちに宗尊親王に献上された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E8%91%89%E9%9B%86

⇒九条頼経(藤原頼経。1218~1256年)は、「両親ともに源頼朝の同母妹坊門姫の孫であり、前3代の源氏将軍とは遠縁ながら血縁関係にある」とはいえ、武士らしい事績はウィキペディア等には全く出て来ず、というか、実のところ、公家らしい事績すら出て来ないのだが、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%A0%BC%E7%B5%8C
https://kotobank.jp/word/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E9%A0%BC%E7%B5%8C-55285
https://www.chunengenryo.com/kujo_yoritsune/
万葉集の前掲ウィキペディアに、ようやく、公家らしい事績として、万葉集の校訂の話が出て来るところ、武士で万葉集がらみの話題が伝わっている者はほぼ皆無であることから、万葉集は武士とは殆ど無縁の歌集だという評価が確立していた、ということではなかろうか。
 このことは、九条頼経が始めた万葉集の件の校訂を完結させたところの、第六代将軍の宗尊親王(むねたか。1242~1274年)の事績によっても裏付けられる。
 すなわち、同親王は、武士としての事績は皆無で、「和歌の創作に打ち込むようになり、[藤原為家,基家,光俊 (弁入道真観) らに師事し,]歌会を何度も行った・・・結果、鎌倉における武家を中心とする歌壇が隆盛を極め、後藤基政・島津忠景ら御家人出身の有能な歌人が輩出された。鎌倉歌壇は『続古今集』の撰者の人選にも影響を及ぼし、親王自身も同集の最多入選歌人となっている。代表的な歌集に『柳葉和歌集』、『瓊玉和歌集』、『初心愚草』がある。・・・<また、>名筆家である<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E5%B0%8A%E8%A6%AA%E7%8E%8B
https://kotobank.jp/word/%E5%AE%97%E5%B0%8A%E8%A6%AA%E7%8E%8B-17012 ([]内)
と、公家としての事績だけしか、ウィキペディアにも載せられていない。(太田)

二 土佐日記

 『古今和歌集』の編纂者が紀貫之ならば、同じその紀貫之が書いた『土佐日記』
https://www.aozora.gr.jp/cards/000155/files/832_16016.html 全文(青空文庫)
は、一体何だったのかが今度は気になりだした。↓

 「紀貫之<(866/872?~945年?)については、古今和歌集を巡る事績を既述したが、>・・・理知的分析的歌風を特徴とし、家集『貫之集』を自撰し<、>『小倉百人一首』にも和歌が収録されている<ところの、>・・・日本文学史上において、少なくとも歌人として<は>最大の敬意を払われてきた人物である。・・・
 ・・・943年・・・正月に大納言・藤原師輔が、正月用の魚袋を父の太政大臣・藤原忠平に返す際に添える和歌の代作を依頼するために、わざわざ貫之の家を訪れたという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E8%B2%AB%E4%B9%8B
 「<この紀貫之によって>土佐日記・・・が成立したのは朱雀天皇の時代である935年ごろと推定されている。・・・

⇒紀貫之に『古今和歌集』を編纂させた醍醐天皇が在位のまま930年に亡くなり、その、藤原基経の娘の中宮穏子を母とする子であるところの、朱雀天皇(923~952年。天皇:930~946年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B1%E9%9B%80%E5%A4%A9%E7%9A%87
の時に、貫之が、この『土佐物語』を、今度は、自発的に書いたわけだ。(太田)

 紀貫之の晩年のころ、都は盗賊により荒らされ、数々の寺院が消失。現代の関東地方にあたる東国や、現代の四国辺りの西国では、たびたび反乱が起こるという騒然とした時代でした。・・・
 <土佐日記は、>男性官僚が記していた漢字だけの日記とはまったく違っていました。それまでの日記は、公的な立場にある男性官僚が、政務や行事の記録を記したもの。個人の感情はほとんど記されていませんでした。それに対して土佐日記では、貫之が感じた悲しみ、寂しさ、憂鬱などが情緒豊かに記されています。・・・
 土佐日記は、日記文学と紀行文学のふたつの顔をもっています。事実を書き連ねるのではなく、実は大部分が「作り話」。実際に起こった出来事よりも文学的な表現を優先しているのです。・・・
 [主題は単一ではなく、親子の情・国司の望郷と孤独感・歌論・紀氏の士族意識などが指摘される。]
 土佐日記に記されている「もののあはれも知らで」という文章<(注24)>が、「もののあはれ」を使った最初の事例とする説があります。また貫之歌集に含まれているのが「あやしくももののあはれ知り顏なる」という表現。これも、貫之が「もののあはれ」という言葉を生んだ根拠として注目に値します。」
https://study-z.net/100133025
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E4%BD%90%E6%97%A5%E8%A8%98 ([]内)

 (注24)「楫取ものゝ哀も知らでおのれし酒をくらひつれば」
https://www.aozora.gr.jp/cards/000155/files/832_16016.html

⇒ノンフィクション的フィクションであるところの、土佐日記、の主題は、「もののあはれ」(人間主義性)だと言えそうではないか。
 そうだとすれば、貫之は、生まれつつあった武士達の人間主義回復・維持の縁(よすが)になるものとして、仏教からまだ解答が得られていない状況下において、和歌(『古今和歌集』)だけでは不十分なので、醍醐天皇の遺志にも沿うと考え、かかる縁になりそうな物語を実験的に書いてみようと思い立った、ということではなかったか。
 こうして、フィクションに徹しきれない、ノンフィクション的フィクション、の、しかも、短編、の『土佐物語』が生まれたのではないか、と。
 そして、更に、『蜻蛉日記』は、『土佐物語』に刺激を受けて、同じ主題でもって、紀貫之のような受領階層ではなく(道長の父の)藤原兼家という最高権力者がその妻(の1人)に描かせたと見てよいところの、ノンフィクション的フィクションならぬ、ノンフィクション、作品である
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9C%BB%E8%9B%89%E6%97%A5%E8%A8%98
と見ることができるのではないか、そして、『源氏物語』は、同じ主題でもって、兼家の息子でやはり最高権力者たる藤原道長が、紫式部なる受領階層のしかも藤原氏の女性に、天皇家の一員を描かせた、ノンフィクション的フィクションでもノンフィクションでもない、フィクション、作品であって、この3つの作品には共通の狙いがあったのではないか、と。

 そして、ここまで来た時、『竹取物語』も紀貫之が書いたという説が有力であることを思い出し、『竹取物語』にも何らかの狙いがあったのではないか、探ってみようと思い立った。(太田)


[竹取物語]

 「『源氏物語』に「物語の出で来はじめの祖(おや)なる竹取の翁」とあるように、日本最古の物語といわれる。9世紀後半から10世紀前半頃に成立したとされ・・『源氏物語』に「絵は巨勢相覧<(注25)>、手は紀貫之書けり」と言及されていることから、遅くとも10世紀半ばまでに成立したと考えられている・・、かなによって書かれた最初期の物語の一つである。・・・

 (注25)こせおうみ(?~?年)。巨勢金岡(こせかなおか。?~?年)の「養子で実は金岡の甥、子孫は大神<(おおみわ)>社社家<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A8%E5%8B%A2%E9%87%91%E5%B2%A1
 金岡は、「中納言・巨勢野足を曾祖父に持つ少壮貴族の出身であったが、その豊かな画才を朝廷に認められ、宇多天皇や藤原基経といった権力者の恩顧を得て活躍した。貞観10年(868年)から同14年(872年)にかけては宮廷の神泉苑を監修し、その過程で菅原道真や紀長谷雄といった知識人とも親交を結んだ。
 日本画独自の様式を追求・深化させ、唐絵の影響を脱した大和絵の様式を確立させた功労者とされる。またその子孫は、後世において巨勢派と称される画家集団を形成、宮廷画や仏画の分野において多大な影響力を発揮した。しかし、その作品は一切現存してはいない。・・・
 京都では巨勢家は永きに渡り本能寺の檀家であり本能寺の変の際には歴代の巨勢家の墓、家系図ともに戦火の犠牲になった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A8%E5%8B%A2%E9%87%91%E5%B2%A1

⇒ここで言及されているのは、『竹取物語』そのものではなく、『竹取物語絵巻』だというのが通説のよう
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A8%E5%8B%A2%E7%9B%B8%E8%A6%A7
だが、私は、紫式部は、『竹取物語』の著者が紀貫之であることを示唆するためにこういう形で言及した、と受け止めている。(太田)

 原本は現存せず、写本は<北朝の>後光厳天皇の筆とされる室町時代初期(南北朝時代、14世紀)の古筆切数葉が最古といわれ<る。>・・・
 作者像として、当時の推定識字率から庶民は考えづらく、上流階級に属しており、貴族の情報が入手できる平安京近隣に居住し、物語に反体制的要素が認められることから、当時権力を握っていた藤原氏の係累ではないと考えられている。
 さらに、漢学(漢語・漢文訓読体の使用)・仏教・民間伝承に精通し、仮名文字を操ることができ、和歌の才能もある知識人で、貴重であった紙の入手も可能な人物で、性別は男性だったのではないかと推定されている。また、和歌の技法(掛詞・縁語の多用、人名の使用)は六歌仙<(注26)>時代の傾向に近いことが指摘されている。

 (注26)「六歌仙(ろっかせん)とは、『古今和歌集』の<両>序文に記された六人の代表的な歌人のこと。僧正遍昭、在原業平、文屋康秀、喜撰法師、小野小町、大友黒主の六人を指す。ただし「六歌仙」という名称そのものは後代になって付けられたものである。・・・
 推理小説作家の高田崇史は・・・、六歌仙はいずれも文徳天皇の後継者争いにおいて、紀氏の血を引く最有力候補だった惟喬親王を支持していた者たち」<と指摘している。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E6%AD%8C%E4%BB%99

 以上をふまえ、源順、源融、遍昭、紀貫之、紀長谷雄、菅原道真など数多くの説が提唱されている。・・・

⇒どうして? 紀貫之に決まっているではないか。(太田)

 江戸時代の国文学者・加納諸平<(注27)>は、『竹取物語』中のかぐや姫に言い寄る5人の貴公子が『公卿補任』の文武天皇5年(701年)に記されている公卿にそっくりだと指摘した。

 (注27)かのうもろひら(1806~1857年)。「国学者夏目甕麿の子として遠江国で生まれる。18歳で紀伊国和歌山の医師・加納家の養子となる。本居大平に国学を学び、後に紀州藩の命で『紀伊続風土記』『紀伊国名所図会』の編纂にあたった。また、自身や実父の歌をはじめとする当代の優れた和歌を収めた『類題和歌鰒玉集』を・・・1828年・・・に刊行、以降日本全国から優れた和歌を募集して『類題和歌鰒玉集』の続編の編纂にあたり、・・・1854年・・・までに第7編までを刊行、地方における歌人・歌壇の振興に尽くした。1856年・・・に紀州藩が国学所を創設すると、その総裁となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E7%B4%8D%E8%AB%B8%E5%B9%B3

 諸平は、阿倍御主人、大伴御行、石上麻呂は実在の人物であり、車持皇子のモデルは、天智天皇の落胤との説があり母の姓が「庫持」である藤原不比等、石作皇子のモデルは、宣化天皇の四世孫で「石作」氏と同族だった多治比嶋(丹比真人島)だと述べている。しかし、物語中の4人の貴公子まではその実在の公卿4人が連想されるものの、5人のうち最も卑劣な人物として描かれる車持皇子と、最後のひとり藤原不比等がまるで似ていないことにも触れている。
 だが、これは反対であるがゆえに不比等本人ではないかと推測する見方もでき、表向きには言えないがゆえに、車持皇子を「卑怯である」と書くことによって陰に藤原氏への悪口を含ませ、藤原氏を批判しようとする作者の意図がその文章の背後に見えるとする・・・関裕二<(注28)の>・・・意見もある。

 (注28)1959年~。「武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー。・・・
 仏教美術に関心をもち、奈良に通ううち、独学で日本古代史を研究、1991年に『聖徳太子は蘇我入鹿である』でデビュー、以後古代をテーマに執筆活動を続けている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E8%A3%95%E4%BA%8C

 この5人はいずれも壬申の乱の功臣で天武天皇・持統天皇に仕えた人物であることから、奈良時代初期が物語の舞台だったと考えられている。・・・
 <以下、粗筋の紹介より引用。>
 帝が知り、翁の意を受けて、勇ましい軍勢を送ることとなった。その十五日には、各役所に命じ勅使として中将高野大国を指名し、六衛府を合せて二千人を竹取の家に派遣する。家に行って、築地の上に千人、建物の上に千人、家の使用人がとても多かったのと合わせて、空いている隙もなく守らせた。嫗は、塗籠の内でかぐや姫を抱きかかえている。翁も、塗籠の戸に錠を下ろして戸口にいる。
 かぐや姫は「私を閉じ込めて、守り戦う準備をしていても、あの国の人に対して戦うことはできないのです。弓矢で射ることもできないでしょう。このように閉じ込めていても、あの国の人が来たら、みな開いてしまうでしょう。戦い合おうとしても、あの国の人が来たら、勇猛な心を奮う人も、まさかいないでしょう」という。・・・
 そして子の刻(真夜中頃)、家の周りが昼の明るさよりも光った。大空から人が雲に乗って降りて来て、地面から五尺(約1.5メートル)くらい上った所に立ち並んでいる。内外の人々の心は、得体が知れない存在に襲われるようで、戦い合おうという気もなかった。何とか心を奮って弓矢を構えようとしても、手に力も無くなって萎えてしまった。気丈な者が堪えて射ようとしたが矢はあらぬ方へ飛んでいき、ただ茫然とお互い見つめ合っている。王と思われる人が「造麻呂、出て参れ」と言うと、猛々しかった造麻呂も、何か酔ったような心地になって、うつ伏せにひれ伏している。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E5%8F%96%E7%89%A9%E8%AA%9E

⇒上掲中に登場するところの、作者候補群は下掲の通りだ。↓
 ・源順(したごう。911~983年)。「嵯峨源氏、大納言・源定の曾孫。左馬允・源挙(みなもと の こぞる)の次男。官位は従五位上・能登守。梨壺の五人の一人にして三十六歌仙の一人。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%86 
 ・源融(とおる。822~895年)。「嵯峨天皇の第十二皇子」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E8%9E%8D
 ・遍昭(返上。816~890年)。「桓武天皇の孫という高貴な生まれであるにもかかわらず、出家して天台宗の僧侶となり僧正の職にまで昇ったこと、また、歌僧の先駆の一人である<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8D%E6%98%AD
 ・紀貫之についての説明は省く。
 ・紀長谷雄(はせお。845~912年)。「菅原道真・・・と同門の党を結ぶ<。>
 宇多朝前半は、図書頭・文章博士・式部少輔を歴任する。寛平6年(894年)に従五位上・右少弁に叙任されると、・・・宇多朝後半は急速に昇進を果たし、この間の・・・895年・・・に式部少輔・大学頭・文章博士を兼ねて三職兼帯の栄誉に浴し、・・・897年・・・には式部大輔兼侍従に任ぜられた。また、菅原道真に才能を見込まれ、・・・894年・・・に計画されるも道真の建議により中止となった最後の遣唐使では副使に補されている。長谷雄の知識や政務能力、そして人柄は宇多天皇からも早くから嘱目されており、宇多上皇が醍醐天皇に与えた御遺戒の中でも、藤原時平、菅原道真、藤原定国、平季長と並べて、長谷雄を「心をしれり、顧問にも、そなわりぬべし」あるいは「博く、経典に渉り、共に大器なり」と評して推挙されている。・・・
 902年・・・には参議に任じて公卿に加えた。なお、参議任官を挟んで要職の左大弁を約10年の長期に亘って務めたが、長谷雄が優秀な官人であったことの証明とする意見もある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E9%95%B7%E8%B0%B7%E9%9B%84
 ・菅原道真(845~903年)。「宇多天皇に重用されて、寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで上り詰めたが、藤原時平の讒言(昌泰の変)により、大宰府へ大宰員外帥として左遷され現地で没した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%85%E5%8E%9F%E9%81%93%E7%9C%9F
 さて、竹取物語は、天皇をコケにしている上、加納諸平が指摘したように天武天皇の部下5人もコケにしている・・ということは、コケにされている天皇は天武天皇だということになるが、この部下5人のうちに藤原不比等も加え、他方で、物語の中では本物の不比等とは似ても似つかぬ人物として描くことで、本物の不比等は実は天武天皇とは相いれない人物であったことを示唆している、と解するのが自然であり、そうであるとすれば、関裕二の推論、「藤原氏への悪口を含ませ、藤原氏を批判しようとする作者の意図がその文章の背後に見える」、は錯視である、と言わざるをえまい。
 素直な解釈は、宇多、醍醐、天皇父子の目から見て、桓武天皇構想の推進に係る藤原氏本流の協力ぶりが過去において必ずしも十分ではなかった(後述)ことへの皮肉と今後の協力への期待表明、といったところだろう。
 さて、肝心なのはここからだ。
 これは私が初めて指摘するのだが、「地面から五尺(約1.5メートル)くらい上った所に立ち並」ぶ軍隊、要するに「地面から五尺・・・くらい上ったところ」(上掲粗筋の紹介)の(見えないけれど)鐙に足をかけたところの(馬も見えないけれど)騎馬兵からなる軍隊の敵ではなく、矢を射かけようとしても、速いスピードで駆ける馬上の兵を「射ようとしたが矢はあらぬ方へ飛んでい」(上掲)ってしまう、と、天武朝の軍隊を貶め、創生されつつある武士達を称えているのだから、竹取物語は、桓武天皇コンセンサスの核心部分の意義を訴え、その意義を貴族ないし貴族関係者達に浸透させることをを目的として作成された情宣フィクションである、と言ってよいのではなかろうか。
 (この、地球に到着しても、地上に足を付けず、「五尺」・・「約1.5メートル」と現代語訳されていたのかどうかまでは思い出せない・・という一定の高さに浮かび続ける、月からの軍隊、に、私は、子供の時に最初に『竹取物語』を読んだ際、強烈な違和感を覚えたものだ。それが何を意味するのかを解くのに3分の2世紀を要してしまった。)
 つまり、『竹取物語』は、月、すなわち異国、の騎馬の軍隊が日本の宝(絶世の美女たる皇女?)を求め、日本の歩兵の律令制軍隊が阻止しようとするも全く歯が立たず、降参し、その宝を奪われてしまう(その皇女を月の国王に上納させられる?)、こんなことでいいのか、と、騎馬が中心の新しい軍隊を創設する必要性を訴えた情宣物語なのだ。
 (月読命/月夜見尊/ツキヨミ/ツクヨミが、月の神であって穀物の起源とされている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%84%E3%82%AF%E3%83%A8%E3%83%9F
ことから、『竹取物語』における月の国は、日本の稲作の起源である支那を指している、と見たいところだ。)
 であるとすれば、竹取物語は、制作が醍醐天皇で執筆が紀貫之、の可能性が極めて高いし、その制作・執筆時期は『古今和歌集』編纂決定より前でなければならない、ということになる。
 当然、そのためには、醍醐天皇は、桓武天皇構想の少なくとも核心部分は貫之に開示しなければならなかったはずだから、貫之は、同構想(の核心部分)を明かされた、天皇家主流と藤原氏主流以外の唯一の人間、ということになろう。
 念のためだが、制作が時の天皇でなければ、いくらコケにされているのが特定の天皇の天武天皇であることがミエミエだとしても、執筆者は不敬であるとして探し出されて処罰されても不思議ではないのに、そんな形跡が全くないこと、それどころか、紀貫之自身が竹取物語を絵付「写本」の形で普及させるというリスクを冒すことを厭わなかったこと、を思え。
 (紫式部は、そのことを知っていて、いや、仮に知らなかったとしても、彼女ならば、私と同じように考えて執筆者が紀貫之だと目星をつける能力はあり、いずれにせよ、彼女は、そのことを事実上、「手は紀貫之書けり」と記すことで指摘しているのだろう。)

 そして、そして、そうなると、今度は、やはり紀貫之執筆説が有力であるところの、『伊勢物語』、のことが気になって来た。(太田)


[伊勢物語]

 伊勢物語のウィキペディアには次のように書かれている。↓

 「『伊勢物語』と呼ばれることになる書物)の存在を示す記述の文献上初出は、『源氏物語』第17帖「絵合」に見られる和歌「伊勢の海の深き心をたどらずて ふりにし跡と波や消つべき(解釈例:伊勢の海の深く隠れている物語の心を味わおうともしないで、ただ古いからと波が消すように否定して良いはずがない。)」の「伊勢の海の深き心を」云々で、「在五中将」の名も含まれる前後の文章内容からこれが『伊勢物語』を指していることが分かる。・・・
 また、『源氏物語』「総角」の巻には、『在五が物語』(在五は、在原氏の第五子である業平を指す)という書名が見られ、『伊勢物語』の(ややくだけた)別称であったと考えられている。・・・
 惟喬親王と惟仁親王(清和天皇)の位争い・・・作中、紀氏との関わりの多い人物が多く登場することでも知られる。在原業平は紀有常(実名で登場)の娘を妻としているし、その有常の父・紀名虎の娘が惟喬親王を産んでいる。・・・
 個人の作者として近年[いつ?]名前が挙げられることが多いのは紀貫之らである」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E7%89%A9%E8%AA%9E

⇒紫式部が、『竹取物語』について紀貫之作であることを示唆するような取り上げ方をしていて、紀貫之主編纂であることが周知の『古今和歌集』も取り上げ、更に、『伊勢物語』も取り上げたことは、『伊勢物語』も紀貫之作であることを推認させるとともに、時代的には、これらの中で一番古いと考えられる『伊勢物語』を嚆矢として、『源氏物語』に至る、平安文学の歴史が刻まれたこと、更には、(深読みし過ぎだと言われることは覚悟の上だが、)この文学史自体を物語として振り返ることができること、を、示唆している、というのが私の見方なのだ。(太田)

 「平安時代初期に実在した貴族である在原業平<(注29)>を思わせる男を主人公とした和歌にまつわる短編歌物語集で、主人公の恋愛を中心とする一代記的物語でもある。

 (注29)825~880年。「父は平城天皇の第一皇子・阿保親王、母は桓武天皇の皇女・伊都内親王で、業平は父方をたどれば平城天皇の孫・桓武天皇の曾孫であり、母方をたどれば桓武天皇の孫にあたる。血筋からすれば非常に高貴な身分だが、薬子の変により皇統が嵯峨天皇の子孫へ移っていたこともあり、・・・826年・・・に父・阿保親王の上表によって臣籍降下し、<長兄の兼見王を除き、>兄・行平<・守平>らと共に在原朝臣姓を名乗る。・・・
 仁明朝では左近衛将監に蔵人を兼ねて天皇の身近に仕え、仁明朝末の・・・849年・・・无位から従五位下に直叙される。文徳朝になると全く昇進が止まり、官職に就いた記録もなく不遇な時期を過ごした。なお、後・・・の・・・862年・・・の従五位上への叙位は正六位上からの昇叙ともされ、文徳朝で位階を降格された可能性もある。
 清和朝では、・・・862年・・・に従五位上に叙せられたのち、左兵衛権佐・左近衛権少将と武官を務める。・・・865年・・・右馬頭に遷るとこれを10年以上に亘って務め、この間に・・・869年・・・正五位下、貞観15年(873年)従四位下と昇叙されている。
 陽成朝に入ると、・・・877年・・・従四位上・右近衛権中将に叙任されて近衛次将に復すと、・・・879年・・・には蔵人頭に任ぜられるなど要職を務める。・・・
 またこの頃には、文徳天皇の皇子・惟喬親王に仕え、和歌を奉るなどしている。・・・
 歌人として『古今和歌集』の30首を始め、勅撰和歌集に87首が入集している。『古今和歌集仮名序』において紀貫之が業平を「その心余りて言葉足らず」と評したことはよく知られている。子の棟梁・滋春、棟梁の子・元方はみな歌人として知られる。兄・行平ともども鷹狩の名手であったと伝えられる。・・・
 早くから『伊勢物語』の主人公のいわゆる「昔男」と同一視され、伊勢物語の記述内容は、ある程度業平に関する事実であるかのように思われてきた。『伊勢物語』では、文徳天皇の第一皇子でありながら母が藤原氏ではないために帝位につけなかった惟喬親王との交流や、清和天皇女御でのち皇太后となった二条后(藤原高子)、惟喬親王の妹である伊勢斎宮恬子内親王とみなされる高貴な女性たちとの禁忌の恋などが語られ<ている。>・・・
 紀有常女(惟喬親王の従姉にあたる)を妻とし、紀氏と交流があった。しかし一方で、藤原基経の四十の賀で和歌を献じた。また長男・棟梁の娘は祖父譲りの美貌で基経の兄・藤原国経の妻となったのち、基経の嫡男時平の妻になるなど、とくに子孫は藤原氏との交流も浅からずある。
 同じく『伊勢物語』に描かれた「東下り」についてもその史実性については議論がある。通説では貴種流離譚の一種とみなす説が強いが、角田文衛のように母の服喪中の・・・862年・・・の出来事とする説がある。戸川点は史実か創作かは断定できないとした上で、業平や父の阿保親王が中央との兼官ながら東国の国司を務めていたことに注目し、当時問題となっていた院宮王臣家の東国への進出(荘園の形成・経営)に業平周辺も関わっており、創作であったとしてもその背景になる事実はあったとみている。
 また業平自身も晩年には蔵人頭という要職にも就き、薬子の変により廃太子させられた叔父の高岳親王など他の平城系の皇族や、あるいは当時の藤原氏以外の貴族と比較した場合、むしろ兄・行平ともども政治的には中枢に位置しており、『伊勢物語』の「昔男」や『日本三代実録』の記述から窺える人物像と、実状には相違点がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%A8%E5%8E%9F%E6%A5%AD%E5%B9%B3

 (伊勢物語関連系図)

  紀勝長—興道—本道——望行———貫之-棟梁———-女子
| ——————紀静子       ||
| | || 藤原長良-国経(基経兄)/時平(基経男子)
–名虎—有常——女子 ||—-恬子内親王
             || ||—-惟喬親王
桓武天皇—平城天皇-阿保親王—–在原業平|| 藤原高子(藤原長良女子)
| || ||——陽成天皇
    |  || ||——貞保親王
–嵯峨天皇-仁明天皇 || ||
| ||————–文徳天皇 ||
| 藤原順子(藤原冬嗣女子)||–清和天皇–貞純親王-?源経基⇒清和源氏● | || 藤原明子(藤原良房女子) | ||————–光孝天皇-宇多天皇-醍醐天皇
| 藤原沢子(藤原総継女子)
–淳和天皇 藤原良方女子
| ||
–葛原親王-高見王——-平高望⇒桓武平氏◎
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E6%B0%8F
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%9F%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E9%9D%99%E5%AD%90
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%AC%E5%AD%90%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%BE%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E5%AD%9D%E5%A4%A9%E7%9A%87
(北家本流)
藤原房前—真楯-内麻呂-冬嗣—長良—国経
| | |-基経
| | |-淑子(貞省王(後の宇多天皇)は猶子)
| | |-高子(陽成天皇母)
| |
| |-良房—明子(清和天皇母)⇒清和源氏●
| | |-基経(養子)——時平
| | |-忠平-師輔-兼家-道長
| |-良方—女子(平高望正室)⇒桓武平氏◎
| |-順子(文徳天皇母)
| |-良門—利基 ⇒紫式部
| |-高藤———胤子
| (北家魚名流) ||–醍醐天皇 ⇒天皇家本流
|-魚名—末茂-総継—沢子(光孝天皇母)-宇多天皇
       |-藤成-豊沢(仮冒?)—村雄—–秀郷⇒藤原氏秀郷流
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%8C%97%E5%AE%B6
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%89%AF%E6%96%B9
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%89%AF%E9%96%80

 主人公の名は明記されず、多くが「むかし、男(ありけり)」の冒頭句を持つことでも知られる。作者不詳。平安時代のうちの具体的な成立年代も不詳で、初期、西暦900年前後、前期、(現在のような形になったのが)中期などの説がある。・・・
 『竹取物語』と並ぶ創成期の仮名文学の代表作。現存する日本の歌物語中最古の作品。・・・
 当初は『伊勢物語』『在五物語/在五が物語(ざいご が ものがたり)』『在五中将物語(ざいご ちゅうじょう – )』『ざい五中将の恋の日記』『在五中将の日記』『在五が集』など様々に呼ばれていたが、平安時代末期には『伊勢物語』に統一されていった。また、略称としては「在五中将」「在中将」と「勢語(せいご)」が見られる。
 係る書物(※『伊勢物語』と呼ばれることになる書物)の存在を示す記述の文献上初出は、『源氏物語』第17帖「絵合」に見られる和歌「伊勢の海の深き心をたどらずて ふりにし跡と波や消つべき(解釈例:伊勢の海の深く隠れている物語の心を味わおうともしないで、ただ古いからと波が消すように否定して良いはずがない。)」の「伊勢の海の深き心を」云々で、「在五中将」の名も含まれる前後の文章内容からこれが『伊勢物語』を指していることが分かる。・・・
 また、『源氏物語』「総角」の巻には、『在五が物語』(在五は、在原氏の第五子である業平を指す)という書名が見られ、『伊勢物語』の(ややくだけた)別称であったと考えられている。・・・ 各話の内容は男女の恋愛を中心に、親子愛、主従愛、友情、社交生活など多岐にわたるが、主人公だけでなく、彼と関わる登場人物も匿名の「女」や「人」であることが多いため、単に業平の物語であるばかりでなく、普遍的な人間関係の諸相を描き出した物語となりえている。
 複数の段が続き物の話を構成している場合もあれば、1段ごとに独立した話となっている場合もある。後者の場合でも、近接する章段同士が語句を共有したり内容的に同類であったりで、ゆるやかに結合している。現存の伝本では、元服直後を描く冒頭と、死を予感した和歌を詠む末尾との間に、二条后との悲恋や、東国へ流離する「東下り」、伊勢の斎宮との交渉や惟喬親王<(注30)>との主従愛を描く挿話が置かれ、後半には老人となった男が登場するという、ゆるやかな一代記的構成をとっている。

 (注30)これたかしんのう(844~897年)。「父・文徳天皇は皇太子として第四皇子・惟仁親王(後の清和天皇)を立てた後、第一皇子の惟喬親王にも惟仁親王が「長壮(成人)」に達するまで皇位を継承させようとしたが、藤原良房の反対を危惧した源信の諫言により実現できなかったといわれている。これは、惟喬親王の母が紀氏の出身で後ろ盾が弱く、一方惟仁親王の母が良房の娘・明子であったことによるものとされる。また、惟仁の成人後に惟喬が皇位を譲ったとしても、双方の子孫による両統迭立の可能性が生じ、奇しくも文徳天皇が立太子する契機となった承和の変の再来を危惧したとも考えられる。
 ただ、この決定に対する不満が朝廷内部にあったとされ、100年以上経った・・・1011年・・・一条天皇の皇太子を巡る敦康親王派と敦成親王派(後の後一条天皇)の確執があった際、惟喬と敦康の境遇が類似しているとして、この決定の是非が議論の対象になったという。また、立太子を巡り、良房と紀名虎がそれぞれ真言僧の空海の弟・真雅と惟喬親王の護持僧・真済とに修法を行わせた、あるいは二人が相撲をとって決着をつけたという伝説もある。・・・
 872年・・・病のため出家して素覚と号し、小野(伊勢物語八十三段によると比叡山山麓とあり、近江と大原の説がある)に隠棲した。その後、山崎・水無瀬にも閑居したといわれる。それから京都市北区雲ケ畑の岩屋山金峯寺(志明院)に宮を建て移り住む。耕雲入道と名乗り宮を耕雲寺(高雲禅寺)としたともいう。在原業平、紀有常らも親王の元を訪れたという。その後、病に倒れる。死期迫り、御所の川上に当たる金峯寺を避け、さらに北にある小野郷、大森の地へ移り亡くなったという。・・・
 木地師の伝承によると、近江国蛭谷(現:滋賀県東近江市)で隠棲していた小野宮惟喬親王が住民に木工技術を伝えたのが木地師のはじまりであるとする。・・・
 勅撰歌人として、『古今和歌集』(2首)以下の勅撰和歌集に6首が採録されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%83%9F%E5%96%AC%E8%A6%AA%E7%8E%8B

 一代記というフレームに、愛情のまことをちりばめた小話が列をなしてるさまを櫛にたとえて「櫛歯式構成」という学者もいる。さらに、そうした結合を相互補完的なものと見なし、章段同士を積極的につないでゆく読み方もある。
 作中、紀氏との関わりの多い人物が多く登場することでも知られる。在原業平は紀有常(実名で登場)の娘を妻としているし、その有常の父・紀名虎の娘が惟喬親王を産んでいる。作中での彼らは古記録から考えられる以上に零落した境遇が強調されている。何らかの意図で藤原氏との政争に敗れても、優美であったという紀氏のありようを美しく描いているとも考えられる。・・・
 個人の作者として近年[いつ?]名前が挙げられることが多いのは紀貫之らである。しかし作者論は現在も流動的な状況にある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E7%89%A9%E8%AA%9E

⇒文徳期(850~858年)には、文徳天皇は実権を藤原良房に握られており、良房が、文徳天皇の脇に座って、在原業平に対し、桓武天皇構想の核心である武士創出計画におけるホップ(藤原氏)・・藤原豊沢(~887年)が下野に定着した・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%B1%8A%E6%B2%A2
、と、ステップ(桓武平氏)・・平高望が男子達を上総に定着させる決意を固めて上総介として任地に赴いた・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E9%AB%98%E6%9C%9B
(前者についてはインチキ・ホップであることを後述)、の目途が立ったので、業平が、臣籍降下したばかりの人物で、武官歴を歩んできていて、鷹狩大好き人間でもあることに目を付け、業平に、桓武天皇構想を開示した上で、ジャンプ(平城在原氏!)たるべく東国に赴くよう促したものの、自分の子孫を武士にさせたくはないこと、そもそも藤原氏の専横ぶりに怒りを覚えていたこと、更には同構想に係るジャンプがインチキっぽくて藤原家主流がやるべきことをやらずに胡麻化そうとしていると思ったこと、から、拒絶した結果、良房によって徹底的に干されることとなった、と仮定したらどうか。
 業平が、清和期(858~876年)に赦され、爾後は順当以上の出世を遂げはしたものの、それまでの自分の逼塞が何に原因するのかを誰にも打ち明けられないこともあり、鬱々とした後半生を送った(~880年)ところ、この業平と深い縁のあった紀氏の紀貫之(866/872~945年?)は、紀氏の人々やその関係者から業平はもう亡くなっていたけれど、彼の生涯の話をよく聞かされ、業平と自分が共にその達人であった和歌を中心に据えたところの、物語を「作中での<業平と思しき人物や紀氏の人々の>古記録から考えられる以上に零落した境遇が強調され<るとともに、>・・・藤原氏との政争に敗れても、優美であったという紀氏のありようを美しく描いているとも考えられる」業平と思しき人物を主人公とした短編唄物語集
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E7%89%A9%E8%AA%9E
を、紀貫之が、創作衝動にかられて、自分の物語処女作として匿名で執筆した、と。
 その後、醍醐天皇(885~930年。天皇:897~930年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%8D%E9%86%90%E5%A4%A9%E7%9A%87
は父親の宇多天皇から、『伊勢物語』の作者が紀貫之であることを聞いていて、かつ、桓武天皇構想そのものを公開していないことが藤原氏北家本流にすらこの構想の完遂に今一つ身が入らず手抜き気味であるかのように自分には見えた状況をもたらしているのではないか、との問題意識を聞かされてもいたところの、醍醐天皇が、桓武天皇構想の核心を広く貴族界に浸透させるための情宣寓話を執筆するよう、この構想を開示しつつ、紀貫之に命じて生れたのが『竹取物語』である、と考えたらどうか、と。

 とまあ、こういう塩梅で、(『古今和歌集』と)日本の物語(小説)文学発祥のいきさつが、全て説明できたような気がした私は、ほくそ笑んだ、という次第だ。(太田)


[後宇多天皇と後醍醐天皇]

 平安期の宇多天皇と醍醐天皇、と来れば、すぐ、思い出されるのは、鎌倉期から室町期にかけての後宇多天皇と後醍醐天皇であるところ、ここで、少しく脱線して、この2人について振り返っておきたい。
 まず、後宇多天皇についてだ。↓

 「後宇多天皇<(1267~1324年)は、>・・・晩年は・・・[宇多天皇が落成させ真言宗の戒師によって出家した後に真言宗の寺院とした上で住した]仁和寺で落飾(得度)を行い、・・・真言宗の修行への傾倒が過剰で政治を疎かにしたとも言われ<る。>・・・
 日本史研究者の河内祥輔は、仏道に専念したいというのは、本人が真意を隠すために公言したことに過ぎず、実際は、後醍醐に実績と権威を積ませることで、正嫡の邦良派と准直系の後醍醐派の二頭体制で天皇位・皇太子位を独占させて、持明院統の親王の立太子を防ぎ、両統迭立での完全勝利を背後から策謀したのではないか、という。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%AE%87%E5%A4%9A%E5%A4%A9%E7%9A%87
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E5%92%8C%E5%AF%BA ([]内)
 「<1281>年、日蓮は朝廷への諫暁を決意し、自ら朝廷に提出する申状(「園城寺申状」)を作成、日興を代理として朝廷に申状を提出させた。後宇多天皇はその申状を園城寺の碩学に諮問した結果、賛辞を得たので、「朕、他日法華を持たば必ず富士山麓に求めん」との下し文を日興に与えたという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%93%AE

 次に、後醍醐天皇についてだ。↓

 「天皇の諡号や追号は通常死後におくられるものであるが、後醍醐天皇<(1288~1339年)>は、・・・生前自ら後醍醐の号を定めてい<るところ、>・・・これを遺諡といい、白河天皇以後しばしば見られる。・・・
 河内祥輔は、父の後宇多天皇も生前から追号を「後宇多」と定めていたことを指摘し、宇多天皇が子の醍醐天皇のために書き残した遺訓の『寛平御遺誡』にあやかって、『寛平御遺誡』の名声を通じて自身が後宇多の後継者であることを示したかったのではないか、という説を唱えている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E9%86%8D%E9%86%90%E5%A4%A9%E7%9A%87
 「日像<(1269~1342年)>は、・・・1293年・・・日蓮の遺命を果たすべく、京都での布教を決意する。・・・
 1294年・・・上洛して間もなく、禁裏に向かい上奏する。その後、辻説法を行<う>・・・。
 1307年・・・延暦寺、東寺、仁和寺、南禅寺、相国寺、知恩寺などの諸大寺から迫害を受け、朝廷に合訴され、[後宇多上皇から
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%AE%87%E5%A4%9A%E5%A4%A9%E7%9A%87 ]京都から追放する院宣を受けた。・・・[伏見上皇(注31)によって
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%A4%A9%E7%9A%87]1309年・・・赦免され、京都へ戻る。

 (注31)1265~1317年。「日本史上随一の能書帝であり、書道の伏見院流の祖。様々な書風を使いこなし、宸翰様においては後醍醐天皇と共に代表的存在であり、上代様においても「三蹟」の一人藤原行成以上の腕前を持っていたと評される。そのため、「書聖」とも呼ばれる。また、京極派の有力歌人としても知られ、治天中の勅撰和歌集に『玉葉和歌集』(撰者は京極為兼)がある。・・・
 伏見天皇の政治は皮肉にも政敵である亀山上皇の政策を踏襲したものであり、朝廷における訴訟機構の刷新や記録所の充実などにより政治的権威の回復に積極的に取り組んだ。また、皇位継承に介入する鎌倉幕府に対して強い不信感を持ち、在世中は倒幕画策の噂が立てられるほどであった。このため、伏見天皇の和歌の師で一番の側近であった京極為兼が二度も流刑となっているのは、伏見天皇が反幕府的な動きを取ったことに対する見せしめではないかという説も唱えられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%A4%A9%E7%9A%87

⇒反鎌倉幕府という点を含め、政策志向を共有していたところの、後宇多上皇から、伏見上皇が、日像を追放を不本意ながらせざるをえなかったけれど、2年くらいで追放を解除してやって欲しいと依頼され、そうした、ということだろう。(太田)

 1310年・・・諸大寺から合訴され、[後伏見上皇によって]京都から追放する院宣を受けた<が、>[同じ上皇によって]1311年・・・赦免され、京都へ戻る。

⇒親鎌倉幕府であった後伏見上皇は、内心不服ながらも、まだ存命だった、父、伏見法皇の「指示」で、追放して直ぐ赦免した、と見る。(太田)

 1321年・・・<今度は、>諸大寺から合訴され、[後宇多法皇より
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%AE%87%E5%A4%9A%E5%A4%A9%E7%9A%87 前掲]京都から追放する院宣を受けたが、直ぐに許された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%83%8F

⇒後宇多法皇は、形だけの追放に留めた、ということだろう。(太田)

 「<その後、>元弘三年(1333)、この妙顕寺は後醍醐天皇の京都還幸を祈願を託され、還幸が実現した。このことにより、尾張・備中に三ヵ所の寺領が寄進され、次いで建武元年(1334)には「妙顕寺は勅願寺たり、殊に一乗円頓の宗旨を弘め、宜く四海泰平の精祈を凝すべし」の後醍醐天皇の綸旨を賜わった。さらに、妙顕寺は足利将軍家の祈祷所となり揺るぎない地位を獲得した。」
https://www.kosaiji.org/hokke/nichiren/kyoto.htm
https://www.nichiren.or.jp/buddhism/nichiren/06.php (参考1)
https://www.second-academy.com/lecture/MSN13663.html (参考2)

⇒後宇多天皇は、自ら自分の号を後宇多天皇と定めた上で、自分の子達のうち、兄の方(二条天皇)ではなく、弟の方(後醍醐天皇)を高く評価していて、少なくとも後醍醐天皇に、即位までの間に、お前は自分の号を後醍醐天皇と定めよ、と申し渡していたのではなかろうか。
 また、それは、寛平の治の宇多天皇、延喜の治の醍醐天皇、にあやかろうというよりは、桓武天皇構想の完遂に尽力したところの、宇多、醍醐両天皇のように、自分達、後宇多、後醍醐親子が、改桓武天皇構想とでも言うべき、日蓮主義、の実施の着手に向けて尽力する意欲を鼓舞するためだったのではなかろうか。

 そして、その第一歩は、日蓮主義に関心を示さない鎌倉幕府の打倒であった、と。(太田)


[蜻蛉日記と更級日記]

一 始めに
 
 実は、ジャンプの当時者の源経基(後述)と『源氏物語』とは、大いに関係がある。
 源経基(?~961年)は、「父は清和天皇の第6皇子・貞純親王<。>・・・太政大臣・藤原忠平の治世下の・・・938年・・・、武蔵介として現地に赴任する。同じく赴任した武蔵権守・興世王と共に赴任早々に検注を実施すると、在地の豪族である足立郡司で判代官の武蔵武芝が正任国司の赴任以前には検注が行われない慣例になっていたことから検注を拒否したために、経基らは兵を繰り出して武芝の郡家を襲い、略奪を行った。
 この話を聞きつけた下総国の平将門が私兵を引き連れて武芝の許を訪れると、経基らは妻子を伴い、武装して比企郡の狭服山へ立て籠もった。その後、興世王は山を降りて武蔵国府にて将門・武芝らを引見したが、経基は不服であるとしてなお山に留まった。府中では双方の和解が成立して酒宴が行われていたが、その最中に武芝の兵が勝手に経基の営所を包囲する。経基は将門らに殺害されるものと思い込み、あわてて京へ逃げ帰り、将門・興世王・武芝が謀反を共謀していると朝廷に誣告した。しかし将門らが天慶2年(939年)5月2日付で常陸・下総・下野・武蔵・上野5カ国の国府の「謀反は事実無根」との証明書を藤原忠平へ送ると、将門らの申し開きが認められ、逆に経基は讒言の罪によって左衛門府に拘禁された。
 天慶2年(939年)11月、将門が常陸国府を占領、その後も次々と国府を襲撃・占領し、同年12月に上野国府にて「新皇」を僭称して勝手に坂東諸国の除目を行うと、以前の誣告が現実となった事によって経基は晴れて放免されるばかりか、それを功と見なされて従五位下に叙せられた。その後、征東大将軍・藤原忠文の副将の一人に任ぜられ、将門の反乱の平定に向かうが既に将門が追討された事を知り帰京。天慶4年(941年)に追捕凶賊使となり、小野好古とともに藤原純友の乱の平定に向かうが、ここでも既に好古によって乱は鎮圧されており、純友の家来 桑原生行を捕らえるにとどまった。武蔵・信濃・筑前・但馬・伊予の国司を歴任し、最終的には鎮守府将軍にまで上り詰めた。・・・
 勅撰歌人であり、『拾遺和歌集』に2首が採録されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%B5%8C%E5%9F%BA
という人物だ。
 で、どうして『源氏物語』と関係があるかと言うと、経基の娘の1人が藤原惟岳室 となって、藤原倫寧を産んでいるからだ。↓

 藤原長良-高経-惟岳-倫寧—長能(藤原道長の春日詣・賀茂詣等に陪従)
          |
       |-藤原道綱母(藤原兼家室で『蜻蛉日記』作者)
            |
       |-菅原孝標女の母(菅原孝標室でその娘が『更級日記』作者)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%80%AB%E5%AF%A7
https://nakuyo-neuneu.com/keizu/102151001/

 藤原倫寧(ともやす。?~977年)は、「朱雀朝で中務少丞を務めたのち、村上朝初頭に右衛門少尉・右馬助と武官を歴任する。村上朝半ばには陸奥守として地方官を務めたほか、右兵衛佐・左衛門権佐にも任官している。村上朝後半に河内守に任ぜられると、円融朝では丹波守・伊勢守を務めたほか、時期は不明ながら常陸国・上総国と東国の大国の国司も歴任した。・・・
 最終位階は正四位下。・・・
 歌人として『後拾遺和歌集』に和歌作品1首が採録されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%80%AB%E5%AF%A7
という人物であり、その娘の姉の方が藤原道綱(注32)母であり、彼女は藤原氏北家本流の藤原兼家(道長の父)に嫁ぎ、『蜻蛉日記』(注33)を執筆する。

 (注32)藤原道綱(955~1020年)。「970年・・・従五位下に叙爵。のち、右馬助・左衛門佐・左近衛少将といった武官を歴任するが、正妻腹の異母兄弟である道隆・道兼・道長らに比べて昇進は大きく遅れた。
 ・・・986年・・・の花山天皇を出家・退位させた寛和の変では、長兄・道隆と共に清涼殿から三種の神器を運び出すなど父・兼家の摂政就任に貢献・・・。変から1年半ほどの間に正五位下から従三位にまで一挙に昇進し、公卿に列した。
 その後、異母弟の道長とは親しかった(妻同士が姉妹で相婿)こともあって、・・・995年・・・道長が執政となると、その権勢の恩恵を受け、・・・996年・・・中納言、・・・997年・・・大納言と急速に昇進した。・・・
 弓の名手であり、宮中の弓試合で少年時代の道綱の活躍により旗色が悪かった右方を引き分けに持ち込んだという逸話が・・・『蜻蛉日記』に・・・書かれている。
 勅撰歌人として『後拾遺和歌集』巻十五雑一に1首、『詞花和歌集』巻七恋上に1首、『新勅撰和歌集』巻十二恋二に1首(『蜻蛉日記』にも掲載)、『玉葉和歌集』巻十二恋四に1首、計4首が入集している。また、『和泉式部集』に和泉式部と歌の贈答が見えるが、そこで和泉式部は道綱のことを「あ<は>れを知れる人」と詠んでおり、道綱に対して好感をもっていたようだ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%81%93%E7%B6%B1
 (注33)蜻蛉日記。「954年・・・<~>974年)の出来事が書かれて<い>・・・る。・・・<夫の藤原>兼家に対する恨み言を綴ったもの、ないし復讐のための書とする学者もあるが、今西祐一郎は、兼家の和歌を多数収めているので、兼家の協力を得て書いた宣伝の書ではないかという説を唱えている。・・・
 安和元年(968年)・・・3月25、6日のころ、西の宮の大臣高明の流罪を悲しむ。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9C%BB%E8%9B%89%E6%97%A5%E8%A8%98
 今西祐一郎(1946年~)。京大文(国文)卒、京大(?)博士(文学)、静岡県立静岡女子大講師、助教授、京都府立大助教授、九大助教授、教授、文学部長、副学長・理事、名誉教授、総合研究大学院大教授、国文学研究資料館館長、同名誉教授。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E8%A5%BF%E7%A5%90%E4%B8%80%E9%83%8E

 そして、妹の方が菅原孝標に嫁ぎ、『更級日記』(注34)を執筆する娘を産む。

 (注34)更級日記。「1020年・・・から、・・・1059年・・・までの約40年間が綴られている。・・・
 東国・上総の国府(市原郡、現在の千葉県市原市)にあったと考えられている)に任官していた父・菅原孝標の任期が終了したことにより、・・・1020年・・・9月に上総から京の都(現在の京都市)へ帰国(上京)するところから起筆する。『源氏物語』を読みふけり、物語世界に憧憬しながら過ごした少女時代、度重なる身内の死去によって見た厳しい現実、祐子内親王家への出仕、30代での橘俊通との結婚と仲俊らの出産、夫の単身赴任そして康平元年秋の夫の病死などを経て、子供たちが巣立った後の孤独の中で次第に深まった仏教傾倒までが平明な文体で描かれている。執筆形態としてはまとめて書いたのだろうと言われている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B4%E7%B4%9A%E6%97%A5%E8%A8%98
菅原孝標(たかすえ。972~?年)。菅原道真の曾孫の子。「学問の家に生まれながら、大学頭や文章博士などの学者としての官職には任官しなかったことや、『更級日記』における人物像などから、かつては凡庸な人物とみなされていた。しかし、・・・1000年・・・から・・・1001年・・・にかけての六位蔵人時代の活動の様子が、上司である蔵人頭・藤原行成の日記『権記』に頻出することや、・・・1027年・・・右大臣・藤原実資の娘である千古の家司に任ぜられていることから、これら経歴を踏まえた人物像の再評価もなされている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%85%E5%8E%9F%E5%AD%9D%E6%A8%99

二 蜻蛉日記

 『蜻蛉日記』には政治・軍事方面のこととしては源高明の流刑の話だけが出て来るの対し、源氏物語には流刑の話すら出て来ず、わずかに、「須磨の巻」で「帝が寵愛する朧月夜との密会を、彼女の父親・右大臣に発見されてから、不穏な空気が漂<い、>権力は、源氏と敵対する右大臣側が握ってい<るという状況下で、>光源氏の官位はもぎ取られ、無位無官に<され、>このままでは流刑に遭うかもしれ<ない、と、>源氏はその前に、自ら須磨(すま)に退くことを決意し・・・た。」
https://www.10000nen.com/media/17710/
というくだりがある程度だが、これは、『源氏物語』(フィクション)が、『蜻蛉日記』(ノンフィクション)よりも更に徹底して政治・軍事方面のことに立ち入らないとの方針の下で執筆されたからだ、と見る。
 だから、『源氏物語』愛読者の菅原孝標女が執筆した『更級日記』も、当然のことながら、その方針を踏襲した、とも。
 で、「注33」中の今西説を採用し、『蜻蛉日記』が藤原兼家制作、藤原道綱母執筆だとして、その伝で行けば、『源氏物語』は(兼家の息子の)藤原道長制作、紫式部執筆、と見てよいと考えたわけだ。
 「紫式部は、20代後半で藤原宣孝と結婚し一女をもうけたが、結婚後3年ほどで夫と死別し、その現実を忘れるために物語を書き始めた。これが『源氏物語』の始まりともいわれる。当時、紙は貴重で、紙の提供者がいればその都度書き、仲間内で批評し合うなどして楽しんでいたが、その物語の評判から藤原道長が娘の中宮彰子の家庭教師として紫式部を呼んだ。それを機に宮中に上がった紫式部は、宮仕えをしながら藤原道長の支援の下で物語を書き続け、54帖からなる『源氏物語』が完成した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E
という執筆事情を、私のこの仮説の観点から反芻して欲しい。
 (なお、紫式部は、『源氏物語』を『蜻蛉日記』に刺激を受けて書き始め、それに道長が注目した、ということだろう。
 そして、『蜻蛉日記』は武士の棟梁家の始祖たるべく武士となったところの、源経基、の女子が武家ならぬ宮廷武官の藤原倫寧を産んで育て上げ、その倫寧の女子の子の藤原道綱が宮廷武官経由で公卿に上り詰め、しかも、「あ<は>れを知る人」(=縄文人)になることに成功した事実を書くことで、弥生性を帯びてしまった人(縄文的弥生人)の脱弥生性(縄文人への復帰)が可能であることを訴えたものであるのに対し、『源氏物語』は、「物のあはれを知る人」達ばかりの社会、すなわち、弥生性だらけの社会のアンチテーゼとしての縄文性だけの社会、を描くことで、それを読む武士達の縄文性の回復・維持に資するとともに、武家/封建制社会がその目的を達成した後に将来もたらすであろうところの理想社会・・それは決して退屈な社会ではない!・・を体感させるものでもある、と見るわけだ。)
 どうして、この、兼家、道長父子がそんな制作行為を行ったかだが、それは、彼らが行ったところの、武士/封建制生成事業の仕込み完了フェーズの不可欠な一環だった、というのが私の仮説であるわけだ。

三 更級日記

 「平安時代中期頃に書かれた回想録。作者は・・・菅原孝標の次女・菅原孝標女。母の異母姉は『蜻蛉日記』の作者・藤原道綱母である。夫の死を悲しんで書いたといわれている。作者13歳(数え年)の・・・1020年・・・から、52歳頃の・・・1059年・・・までの約40年間が綴られている。・・・
 東国・上総の国府(市原郡、現在の千葉県市原市)にあったと考えられている)に任官していた父・菅原孝標の任期が終了したことにより、・・・1020年・・・9月に上総から京の都(現在の京都市)へ帰国(上京)するところから起筆する。『源氏物語』を読みふけり、物語世界に憧憬しながら過ごした少女時代、度重なる身内の死去によって見た厳しい現実、祐子内親王家への出仕、30代での橘俊通との結婚と仲俊らの出産、夫の単身赴任そして・・・夫の病死などを経て、子供たちが巣立った後の孤独の中で次第に深まった仏教傾倒までが平明な文体で描かれている。・・・

⇒藤原道長/紫式部としては、『源氏物語』は、武士、就中、上級武士、及び、彼らの家族たる女性達に一番読んで欲しかったところ、菅原孝標女のような、その埒外の女性が、この物語を読む意味がないのに読んで「誤読」する、ということも起こったというわけだ。(太田)

 <以下、「西下経一校注『更級日記』(岩波文庫)解説」が典拠。>
 作者・孝標女は平安文化の全盛期に生を受け、成長とともに平安朝の栄華が少しずつ崩れてゆくのを経験しており、時代的にも個人的にも少女時代が一番良かったことになる。その少女時代の思い出に感傷の涙を流し、わびしい自己を支えているという趣きのため、この日記は正に時代の動向を反映しているといえる。この点、平安全盛期の最中に成り、作者の生涯を記していることで『更級日記』と共通する『蜻蛉日記』と比較して大きな違いが見られる。両日記の結末を比較してみると、『蜻蛉日記』は自分の運命を知って不可抗力の無言に入っているのに対し、『更級日記』は人生の寂寥を耐え忍び、少しばかり神秘的境地に落ち着いていると言える。描写という点で、『蜻蛉日記』はかなり写実的であり、写実に徹して象徴に入っている所も見えるが、『更級日記』は全くの印象描写である。もし『更級日記』にロマン精神が認められ、現実の彼方に永遠の思慕をよせているとするならば、思慕の方向は、これから創造されるものへの期待という前向きではなく、過去の彼方への愛惜という、後ろ向きの感傷ということになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B4%E7%B4%9A%E6%97%A5%E8%A8%98

⇒私見では上からの封建社会化が積極的に推進されていたところの、平安時代、に、全盛期も崩壊期もないのであって、菅原孝標女がこのような時代認識を抱いていたとすれば、それも誤解だということになる。
 というわけで、私見では、『更級日記』には、「冒頭五分の一ほどを占める「上洛の記」における旅の描写が、太日川(江戸川)渡河や太平洋とつながる水路「今切」ができる前の浜名湖などの様子をうかがえる歴史地理学や交通史の研究に寄与している」(上掲)という意義しかない、と、言えそうだ。
 Having said all this, the following is just for your fun!↓(太田)

 「菅原孝標女は父の仕事の都合により、京の都から遠く離れた上総国で幼少期を過ごしていました。当時の上総国といえば、娯楽が皆無であるド田舎。話し相手といえば家族とお世話係のみ。知的好奇心が満たされない環境は菅原孝標女にとって退屈でしかなく、広い世界への憧れは募るばかりでした。
 そのフラストレーションは、自分自身を日記の本文でこう自虐していることからも十分伝わることでしょう。
 「東路の道のはてよりも、なほ奥つ方に生ひ出でたる人、いかばかりかはあやしかりけむを」
【意訳】
 東のずっとずっと果てのド田舎で生まれ育った私なんて、都の素敵なことを何にも知らないのよ。
 そんな彼女の楽しみといえば、都で流行っている「物語」を、宮仕えの経験があった義母から伝え聞くこと。

⇒これは、「第68代後一条天皇中宮<で>・・・藤原道長の娘<の>・・・藤原威子<(たけこ。1000~1036年)>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%A8%81%E5%AD%90
の女房だったところの、(上総大輔の)高階成行の娘で、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%85%E5%8E%9F%E5%AD%9D%E6%A8%99
高級現地妻といったところか。
 源氏物語の読者としては、道長→威子→高階成行の娘→菅原孝標女、という流れだったと想像される。(太田)

都で大人気の『源氏物語』の話を聞いた菅原孝標女は、「なんて素敵なのかしら!」と胸をときめかせます。・・・
 つれづれなるひるま、宵居などに、姉、継母やなどやうの人々の、その物語、かの物語、光源氏のあるやうなど、ところどころ語るを聞くに、いとどゆかしさまされど、わが思ふままに、そらにいかでかおぼえ語らむ。
いみじく心もとなきまゝに、等身に藥師佛を作りて、手あらひなどしてひとまにみそかに入りつゝ、「京(みやこ)にとくのぼせ給ひて、物語の多くさぶらふなる、あるかぎり見せ給へ」と身を捨てて額(ぬか)をつき、祈り申すほどに、
【意訳】
 暇な時には、姉や義母たちが、光源氏が出てくる物語を覚えている範囲で語ってくれた。

⇒姉とは、生母不詳の女子(1001?~1024年)のことだろう。(上掲)

 私はそれを聞くと「最初から知りたい」と思うのだけど、さすがに最初から最後まで姉や義母たちがあらすじを覚えてくれているわけではない。それが本当にじれったくて、「もうこれは仏様に祈るしかない!」と思い立った私は等身大の薬師仏を作らせて「1日も早く都に行かせてください。そして物語を読ませてください」と一心不乱に祈った。・・・
 上総国から長い旅路を経て、都へやってきた菅原孝標女。新たに住む屋敷は久しく人の手が入っておらず、荒れ放題でした。到着してまだ屋敷の片付けも済んでいない状況なのに、「ああ、物語が読みたい。どうにかして買ってください!もしくはもらってきてください!」と実母にせがみます。

⇒実母とはもちろん藤原倫寧の娘(菅原孝標女の母)であり、源氏物語の読者としては、藤原道綱母→その妹の藤原倫寧の娘(菅原孝標女の母)、という流れであった可能性が順当だが、源頼信(源経基の孫)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E4%BF%A1
→藤原倫寧の娘(菅原孝標女の母)(源経基の孫=源頼信の従姉妹))、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%80%AB%E5%AF%A7
という流れであった可能性もありえよう。(太田)

 数年ぶりに実母と会った感動よりも、「物語が読めるかもしれない」という期待が勝るのは、彼女が念願叶って地方から都会へとやってきたオタクである以上、仕方がないのでしょう。
 それでも実母は娘のためにつてを探した結果、何冊か『源氏物語』を譲ってもらえることとなります。早くも『源氏物語』を読めることに狂喜乱舞し、あっという間に読破してしまう菅原孝標女。物語を読むことに味をしめ、「もっともっと読んでみたいわ」とより物語への願望を強くしていきます。確かに、ずっと読みたかった作品の一部を読めば、「最初から最後までちゃんと読みたい」と思うのが人間というもの。菅原孝標女の反応は至極真っ当です。
 嬉しくいみじくて、夜昼これを見るよりうち始め、またまたも見まほしきに、ありもつかぬ都のほとりに、たれかは物語求め見する人のあらむ。
【意訳】
 あまりにもテンションが上がったものだから、引きこもって物語をひたすら読んでいた。「源氏物語尊い……お母さんありがとう。でも、もっともっと読みたいなー」と思ったはいいけれど、まだ友達もいない都に、私のために物語を読ませてくれる人なんかいるわけない。・・・
 そんな矢先、菅原孝標女の伯母が地方からやってきます。久々に会った伯母は、菅原孝標女のことを「まあまあ、すっかりきれいになったわね。」と褒めるのでした。

⇒この伯母は、藤原道綱母だ、と言いたいが、いくら「晩年は摂政になった夫に省みられる事も少なく寂しい生活を送ったと言われている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%81%93%E7%B6%B1%E6%AF%8D
とはいえ、彼女が「地方」住まいしていたとも思えないので断定はできない。(太田)

 「何をか奉らむ。まめまめしきものは、まさなかりなむ。ゆかしくし給ふなるものを奉らむ」とて、源氏の五十余巻、ひつに入りながら、ざい中将、とほぎみ、せり河、しらら、あさうづなどいふ物語ども、一袋とり入れて、得て帰る心地の嬉しさぞいみじきや。はしるはしるわづかに見つつ、心も得ず、心もとなく思ふ源氏を、一の巻よりして、人もまじらず几帳の中にうち伏して、引き出でつつ見る心地、后の位も何にかはせむ。昼は日ぐらし、夜は目のさめたるかぎり、火を近くともしてこれを見るよりほかのことなければ、おのづからなどは、そらにおぼえ浮かぶを、いみじきことに思ふに【意訳】
 「何か贈り物をしてあげましょう。でも、実用的なものなんてあなたには似合わないわ……そうだ、あなたが読みたいって言っていたあれなんかぴったりよね」と、伯母さんは源氏物語を全巻くれた!!!!それも、箱に入ったフルセットで!!!!(゚∀゚ )三 三( ゚∀゚)あんな話やこんな話がいっぱい詰まった袋を持って帰る私の嬉しさなんて、もう例えようもない。伯母さんGJ(グッジョブ)。・・・」 
https://shosetsu-maru.com/recommended/sarashina-diary

⇒藤原道綱母ならば、道長の義理の母ということになるので、兼家/道長プロジェクトの第一弾たる『蜻蛉日記』の著者でもあり、道長が、『源氏物語』を数部、彼女にプレゼントしていた、ということも大いに考えられるが・・。(太田)


[紫式部の同世代才女達]

 おまけで、紫式部(970/978年以前~1019年以降)の概ね同時代人たる才女達をざっと紹介しておこう。

 ・清少納言(966頃~1025年頃)

                     橘則光

         ||
  清原深養父-春光-元輔-清少納言
||
藤原棟世(藤原南家・巨勢麻呂流)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E5%B0%91%E7%B4%8D%E8%A8%80 等
 「798年・・・<天武天皇の子の>舎人親王の王子である三原王の後裔・・・が清原真人姓を与えられて臣籍降下し<たところ、>・・・初期の清原氏の氏人として著名なのは清原夏野である。・・・850年・・・には、夏野の近親(一説では甥)の有雄王が清原真人姓の賜姓を受けた。この有雄流からは、有雄の玄孫の清原深養父が歌人として名を為し、さらにその孫で三十六歌仙の一人清原元輔や、元輔の娘で『枕草子』を著した女流作家清少納言が出るなど、文学面で足跡を残している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E5%8E%9F%E6%B0%8F

・和泉式部(978年頃~?年)

         橘道貞

        ||
  大江雅致-和泉式部
 「父の大江雅致は、一説には大江匡衡<(下出)>の兄であるとされる。・・・
 和泉式部は敦道親王の召人として一子・石蔵宮永覚を儲けるが、敦道親王は・・・早世した。寛弘年間の末(1008年 – 1011年頃)、一条天皇の中宮・藤原彰子に女房として出仕。・・・1013年・・・頃、主人・彰子の父・藤原道長の家司で武勇をもって知られた藤原保昌と再婚し夫の任国・丹後に下った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E6%B3%89%E5%BC%8F%E9%83%A8
 「大江氏<は、>・・・古代の氏族である土師氏が源流とされる。桓武天皇が・・・791年・・・に、縁戚関係にある土師諸上らに大枝の姓を与えた。・・・866年・・・、大枝音人が姓を改め、大枝から大江へと改姓した。・・・
 大江氏には優れた歌人や学者が多く、朝廷に重く用いられた。中古三十六歌仙と呼ばれる和歌の名人三十六撰に、大江氏から大江千里、大江匡衡、大江嘉言、女性では和泉式部、赤染衛門(匡衡の妻)らが選出されている。大江匡衡の曾孫に、平安時代屈指の学者であると共に河内源氏の源義家(八幡太郎)に兵法を教えたとされる大江匡房がいる。・・・
 1184年(元暦元年)に河内源氏の棟梁の源頼朝に仕えた大江広元は大江匡房の曾孫であ<る。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B1%9F%E6%B0%8F
 「古代豪族だった土師氏は技術に長じ、出雲、吉備、河内、大和の4世紀末から6世紀前期までの約150年間におよぶ古墳時代において、古墳造営や葬送儀礼に関った氏族である。・・・
 桓武天皇の母方の祖母・土師真妹は山城国乙訓郡大枝郷(大江郷)の土師氏出身である。その娘の高野新笠は、桓武天皇、早良親王の母となった。やがて土師氏の一族は、桓武天皇にカバネを与えられ、大江氏・菅原氏・秋篠氏に分かれていった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%B8%AB%E6%B0%8F
  
 ・赤染衛門(956年頃?~1041年以後)

  赤染時用-赤染衛門
        ||
大江匡衡

 「赤染衛門は源雅信邸に出仕し、藤原道長の正妻である<雅信の娘の>源倫子とその娘の藤原彰子に仕えて<いる。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E6%9F%93%E8%A1%9B%E9%96%80
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E5%80%AB%E5%AD%90
 「公孫氏の燕が<魏によって>滅んだ・・・一族残党・・・の中の一群が・・・わが国亡命してきたことも十分想像できるのであって、・・・<彼等は>「赤染」を名のる<こととなった。>・・・
 <この>部族は、・・・古代の紅藍染色の仕事を専門とする職能集団<たる>・・・「赤染部」の部民を統轄した頭梁・・・<一族>こそ、燕系帰化豪族の「赤染造<(みやつこ)>」であった<。>」
https://core.ac.uk/download/pdf/229237478.pdf

 ・伊勢大輔(たいふ。989年?~1060年?)

  大中臣輔親-伊勢大輔
         ||
高階成順
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E5%A4%A7%E8%BC%94
 「妻の蔵命婦は藤原道長の五男・藤原教通の乳母であり、輔親も同様に乳母父として仕えた。その縁で、娘の伊勢大輔が藤原彰子に仕えることになったと思われる。ただし、蔵命婦が伊勢大輔の母親であるかどうかは不明。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B8%AD%E8%87%A3%E8%BC%94%E8%A6%AA
 「中臣鎌足が藤原姓を賜った後、その子藤原不比等が幼かったため、鎌足の甥で婿養子とも言われる中臣意美麻呂が暫定的に藤原氏を継いだ。後に、成長した不比等に正式に文武天皇の勅が下り、改めて藤原姓は鎌足の嫡男・不比等とその子孫のみとし、他の者は中臣氏に復するように命じた。意美麻呂も中臣姓に戻ったが、・・・意美麻呂の息子の清麻呂は・・・764年・・・に起きた藤原仲麻呂の乱では孝謙上皇に就いて昇進を重ね、・・・769年・・・に「大中臣朝臣」を賜姓された。・・・
 大中臣氏の中で最も力を振るったのは嫡流とされた清麻呂の系統で、神祇伯や伊勢祭主を世襲した。平安時代の大中臣能宣とその子大中臣輔親その孫伊勢大輔は歌人としても事績を残している。」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B8%AD%E8%87%A3%E6%B0%8F


3 武士創出の歴史を振り返る

(1)始めに

 ここまで来ると、以上の文学群を生み出した背景たる武士創出の歴史を、改めて振り返ってみる必要がありそうだ。
 文学群についての新たな諸発見を踏まえて振り返ってみた結果、前回(コラム#11557で)書いた内容を改めている箇所が随所にあることをお断りしておく。

(2)武士創出の歴史

 ア ホップ

 「藤原豊沢<(?~887年)>・・・は政権中央での権力獲得を目指さなかった<ところ、>父の藤成が任期後に去った後も下野に残り、史生<(コラム#11557)>を務めていた母方の鳥取氏との関係を緊密にするなどして、地方豪族としての権力を築いたと見る説がある。
 しかし、父とされる藤成の系譜上の位置づけは魚名の子とする説のほか、藤原房前の子とする説、藤原良相の子とする説があって系譜が安定していない。また、魚名から藤原秀郷までわずか五代で二百年が経過しており、虚妄なることは明白とする指摘もある。この説では下野国の鳥取氏が藤原氏に仕え、その系譜を冒したものであるとされる。・・・
 時期不詳:下野少掾<、>・・・840年・・・7月:従五位下、下野権守<、>・・・858年・・・ 正月11日:従四位上<、>時期不詳:陸奥守<。>・・・
 男子:藤原村雄 – 藤原秀郷の父<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%B1%8A%E6%B2%A2
 その子の「藤原村雄<(?~932年)は、>・・・887年・・・8月:従五位下、河内守<、>・・・911年・・・ 正月:従四位下、下野守<、>・・・時期不詳:長門守<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%9D%91%E9%9B%84
 更にその子の「藤原秀郷<(891?~991年)の>・・・姉妹<は>平国香室<になっており、>・・・<また、秀郷の>子孫は、中央において源高明に仕え、官職を得るなどした。そしてその結果、鎮守府将軍として陸奥国に勢力を伸ばす一族や、関東中央部を支配する武家諸氏が現れた。<↓>

・下野国
佐野氏 足利氏 (藤原氏) 小山氏 下河辺氏 益田氏 長沼氏 皆川氏 薬師寺氏 田沼氏 下野小野寺氏 榎本氏
・上野国
丸橋氏 大胡氏
・武蔵国
比企氏 吉見氏(小山氏支流)
・常陸国
那珂氏 安島氏 小野崎氏 小貫氏 内桶氏 茅根氏 根本氏 助川氏 川野辺氏 佐藤氏 水谷氏 江戸氏 綿引氏
・下総国
結城氏 下河辺氏 伊藤氏
・上野国
赤堀氏 岩櫃斎藤氏 桐生氏 佐貫氏 大胡氏 山上氏 園田氏 相模国 山内首藤氏(首藤氏→山内氏) 波多野氏(秦野氏) 沼田氏

また京都でも武門の名家として重んじられた結果、子孫は以下のような広範囲に分布した。<↓>

・紀伊
佐藤氏 尾藤氏 伊賀氏 湯浅氏
・近江
近藤氏 蒲生氏 今井氏
・伊勢
伊藤氏 大口氏
・信濃
大石氏
・陸奥
奥州藤原氏
・その他
内藤氏 佐藤氏 大友氏 少弐氏 龍造寺氏 立花氏 武藤氏 平井氏 筑紫氏 田村氏 大屋氏 長沼氏 長谷川氏 末次氏 大平氏等々」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%A7%80%E9%83%B7

⇒私としては、鳥取氏による藤原氏仮冒説を採りたい。
 桓武天皇(737~842年。天皇:781~806年)は、25年の治世中に私の言う桓武天皇構想を策定し、その男子達のうちで最も優秀であると見込んだところの、後の嵯峨天皇、に同構想実施に着手するよう言い渡して亡くなったと見る。
 この、その後の嵯峨天皇(786~842年。天皇:809~823年)、は、兄の平城天皇が天皇に即位すると同時に(桓武天皇の遺志により)皇太弟となっていたところ、早くも3年後の809年に平城天皇に譲位させて天皇に即位し、823年に自分の男子を皇太子に立てさせる形で弟の淳和天皇に攘夷し、833年にはその淳和天皇を譲位させてその皇太子たる自分の男子の仁明天皇を立て、自身の死の842年まで事実上の最高権力者の座に座り続ける。
 そして、嵯峨上皇は、「自らの舅で<あり、かつ仁明>天皇の実父である<、>嵯峨上皇<、>の支援を受けて<いた>・・・藤原良房<(804~872年)を、>・・・834年)に参議に任<じて>公卿に列<せしめ、>翌・・・835年・・・に上席参議7名を超えて従三位・権中納言に昇進<させたが>、その直後から<、良房は、>太政官政務を主催する機会が散見されるようになり、早くも公卿たちが良房の権勢を憚っていた様子が窺われる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%89%AF%E6%88%BF
ようになるよう取り計らっている。
 これは、私の大胆な想像だが、嵯峨天皇は、自分の兄の平城天皇が重用したところの、藤原北家の藤原内麻呂、と、その従兄弟の園人、を、引き続き重用したけれども、同家が桓武天皇構想中の藤原氏からの武士創出に乗り出す気配がないことに苛立ち、代わって式家の藤原緒嗣を一時重用することで北家を慌てさせ、その上で、内麻呂の子の冬嗣に必ず武士を創出せよと申し渡した上で重用したところ、それでもなお冬嗣がもたついているので、冬嗣の子の良房<(804~872年)>に、お前に北家としての最後のチャンスを与えるので何がなんでも藤原氏から武士を創出をせよ、と厳命したのではなかろうか。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E6%B0%8F%E9%95%B7%E8%80%85 ←藤氏長者
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%86%85%E9%BA%BB%E5%91%82 ←藤原内麻呂
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%9C%92%E4%BA%BA ←藤原園人
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%B7%92%E5%97%A3 ←藤原緒嗣
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%86%AC%E5%97%A3 ←藤原冬嗣
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%89%AF%E6%88%BF ←藤原良房
 慌てた良房は、まず隗より始めよ、と、懸命に北家から武士化希望者を募ったが結局挫折し、仕方なく、まず、840年に、藤原北家魚名流を仮冒していた藤原村雄に従五位に叙爵して貴族に列せしめ、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%93%E4%BA%94%E4%BD%8D
その正式な藤原氏化の第一歩とした、と想定したいところであり、嵯峨上皇崩御の842年の翌年の843年に藤氏長者となった良房は、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E6%B0%8F%E9%95%B7%E8%80%85
仁明天皇(810~850年。天皇:833~850年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87
の時の848年には右大臣、854年に一上、857年に太政大臣となる
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%89%AF%E6%88%BF 前掲
も、「初心」を貫徹し、仁明天皇の子で自分の甥でもある文徳天皇(827~858年。天皇:850~858年)から文徳天皇の男子で自分の孫でもある清和天皇(850~881年。天皇:858~876年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E5%92%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87
への代替わりの年である858年に、豊沢を従四位下まで引き上げ、更に陸奥守に就けることによって、フェイクのホップの担い手の正式の藤原氏化を完成させた、と、私は見るに至っている。
 しかし、以上のような成行を見て、豊沢らのマネをして藤原氏を仮冒する者達が出現しても不思議はなく、それが、平将門の乱の発端に関わることになる、藤原玄明
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%8E%84%E6%98%8E
と藤原玄茂
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%8E%84%E8%8C%82
らの一族ではなかろうか。
 藤原氏北家本流(藤氏長者)は豊沢家等を通じてこれを把握はしただろうが、藪蛇になりかねないので、咎めることなく、放置したことと思われる。
 それはともかく、次の課題はステップだったが、良房の養嗣子の藤原基経(836~891年)は、872年に右大臣になり、更に同年の良房の死に伴い藤氏長者にもなったけれど、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%9F%BA%E7%B5%8C
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E6%B0%8F%E9%95%B7%E8%80%85 前掲
清和天皇時代にはステップに係る具体的アクションを何もしないまま時が過ぎ、同天皇からから譲位された陽成天皇(869~949年。天皇:876~884年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%BD%E6%88%90%E5%A4%A9%E7%9A%87
はできが悪く、止むなく藤原基経が後の光孝天皇と謀った上で陽成天皇を光孝天皇(830~887年。天皇:884~887年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E5%AD%9D%E5%A4%A9%E7%9A%87
へと差し替えたところ、同天皇はすぐ亡くなってしまって、その後を継いだその男子の宇多天皇(867~931年。天皇:887~897年)は、「光孝は皇太子を立てることのないまま、・・・重態に陥った。関白藤原基経は、天皇の内意が貞保親王ではなく源定省にあるとした。貞保は皇統の嫡流に近く、また基経にとっても甥ではあったが、その母藤原高子は基経とは同母兄妹ながら不仲という事情もあったため忌避された。一方、基経自身は特に定省を気に入っていたわけではないものの、定省は基経の仲の良い異母妹藤原淑子の猶子であり、天皇に近侍する尚侍(ないしのかみ)として後宮に強い影響力を持つ淑子が熱心に推したこともあり、朝議は決した。同母兄の源是忠を差し置いて弟の定省が皇位を継ぐことには差し障りもあったため、基経以下の群臣の上表による推薦を天皇が受け入れて皇太子に立てる形が取られた。定省は・・・皇族に復帰して親王宣下を受け、翌・・・6日に立太子したが、その日のうちに光孝が崩じたため践祚し、・・・即位した<もの>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%A4%9A%E5%A4%A9%E7%9A%87
という経緯があったのだが、その4年後の「寛平3(891)年に<この>基経が没すると,<宇多天皇は、>関白を置かず,<阿衡>事件<(下出)>の際基経に諫言した菅原道真を,藤原時平(基経の子)と共に起用し,自らも意欲的に政策を展開<した>(寛平の治)<。>」
https://kotobank.jp/word/%E5%AE%87%E5%A4%9A%E5%A4%A9%E7%9A%87-34727
ところ、その背景には、実母が「皇太后班子女王(桓武天皇の皇子仲野親王の娘)で・・・源姓<時代に>・・・陽成<天皇>に王侍従として仕えていた」という異例の経歴(上掲)に加えて、「<即位>4カ月後,基経の関白就任を要請する勅書に用いた「阿衡の任」の解釈をめぐってトラブルが起こり(阿衡事件,基経に煮え湯をのまされた」(下出)ことに加えて、宇多天皇の目で見ての、藤原良房と基経によるところの、ホップのインチキさ、と、ジャンプに係る懈怠、とに関して、藤原北家本流に、奮起を促すためにお灸をすえたのではなかろうか。※※
 (ここで、本文は、2つの囲み記事の後の、次の※※、へと繋がるので注意!)


 [阿衡事件]

 「基経を関白に任じる詔勅の中に「阿衡」という語があったが、それについて基経は、<支那>の古典では「阿衡」は名ばかりで実権のない職を指すと抗議し、一切の公務の遂行を放棄した。最終的に天皇は詔勅を撤回して、その起草者の橘広相を罷免した。広相は言いがかりであるとして抗弁したが、「阿衡」の解釈について学者らは基経に迎合した。ただし菅原道真は広相を弁護した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E8%A1%A1%E4%BA%8B%E4%BB%B6

⇒宇多天皇の父の光孝天皇の母親は藤原北家の支流の出身ではあり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E5%AD%9D%E5%A4%A9%E7%9A%87
彼女の姉妹は基経の母、という関係こそあったが、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%B2%A2%E5%AD%90
この姉妹は桓武天皇の孫であって、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%A4%9A%E5%A4%A9%E7%9A%87
宇多天皇は、比較的藤原氏との関係が希薄な人物だった。
 後の宇多天皇は、「887年・・・8月25日に皇族に復帰して親王宣下を受け、翌26日に立太子したが、その日のうちに光孝が崩じたため践祚<(注35)>し、11月17日に即位した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%A4%9A%E5%A4%A9%E7%9A%87

 (注35)「桓武天皇以前は践祚は即位と同義であったが、桓武天皇は受禅ののち日を隔てて即位の儀を行い、これを先例として「即位」とは皇位継承を諸神や皇祖に告げ、天下万民に宣する「儀式」(即位式)を指すものとなっていったとされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B7%B5%E7%A5%9A

 践祚と即位の間の3カ月弱の期間に、宇多天皇が、基経に対して、良房/基経流ホップのインチキさを責め立てたことに閉口し、基経は、宇多天皇の即位後に、自分の元家司であったところの、文章博士藤原佐世(注36)、らを脅迫して口封じをした上で、詔勅中の「阿衡」という言葉にイチャモンをつけ、宇多天皇を辱めて力関係の回復を図った、と見る。

 (注36)847~898年。「藤原式家<。>・・・儒学者<となり、>・・・藤原基経の侍読を務めその家司<であったことがある>。・・・
 妻<のうちの一人は、>菅原道真の娘<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BD%90%E4%B8%96

 話を戻すが、藤原基経が891年に亡くなると、基経との全面対決を回避するため、基経の存命中は密かに温めるに留めていたところの、まともなホップ、と、ステップ、とを同時に一挙に行う計画を、宇多天皇は実行に移した。
 すなわち、「阿衡事件の後も厚い信任を受けていた橘広相<(ひろみ)>が病没<すると>、宇多天皇は代わる側近として道真を抜擢した。寛平3年(891年)2月29日、道真は蔵人頭に補任された。蔵人頭は天皇近臣中の近臣ともいえる職であり、紀伝道の家系で蔵人頭となったのは、道真以前は橘広相のみであった。道真は蔵人頭を辞任したいと願い出ているが、許されなかった。さらに3月9日には式部少輔、4月11日に左中弁を兼務。翌寛平4年(892年)従四位下に叙せられ、12月5日には左京大夫となっている。寛平5年(893年)2月16日には参議兼式部大輔に任ぜられて公卿に列し、2月22日には左大弁を兼務した。4月2日には敦仁親王が皇太子となったが、宇多天皇が相談した相手は道真一人であったという。立太子に伴い、道真は春宮亮を兼ねている。
 寛平6年(894年)遣唐大使に任ぜられる<(注37)>が、道真は唐の混乱を踏まえて遣使の再検討を求める建議を提出している。

 (注37)円仁(794~864年)は、838年の第19回遣唐使で唐に渡り、不法在唐までして、かつ、842年からの会昌の廃仏にも遭遇しつつ、847年に最澄(や空海)の収集し損ねた仏典群を日本に持ち帰り、日本の台密の発展に寄与した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A3%E5%94%90%E4%BD%BF
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%86%E4%BB%81
 「最澄が・・・822年・・・に入滅すると、共に入唐した義真が跡を継いで初世天台座主となり、最澄の宿願であった延暦寺戒壇で最初の受戒を行った。・・・833年・・・に義真は遺言で次の座主に弟子の円修を指名するが、これに最澄の直弟子らが反発し、結果として円澄が第2世天台座主に就任した。円修ら義真の弟子50人余りは比叡山から降り、室生寺に移る。以降、第4世までの天台座主は最澄の直弟子であった。この争いに、天台宗分裂の発端を伺うことができる。
 円仁は入唐に先立つ・・・831年・・・に未開であった横川に入籠するが、その理由は最澄没後に起こった天台宗内の対立抗争から退くためであったと考えられる。厳しい行を修めた円仁は根本如法塔を建立して横川を開創する。横川は東塔・西塔の世俗化から逃れて修法を行う場所として整備され、円仁を慕う門徒によって円仁派が形成されていく。・・・854年・・・4月に円仁は第3世天台座主に補任された。円仁は遺言で横川の運営は円仁派が行い、貴族社会との私的な関係を持たないよう言い遺した。
 円珍は義真の弟子であったが、円修らが追い出される騒動の時には十二年籠山行を行っている最中で比叡山に残っていた。・・・853年・・・に<「私費」で>入唐した円珍も、円仁と同様に台密を発展・隆盛させた。・・・862年・・・に円珍は大友氏の氏寺園城寺の別当に補される。『天台座主記』によれば、円珍は荒廃していた園城寺を修復し、その功により・・・866年・・・に園城寺が延暦寺の支配下にはいった。・・・868年・・・に円珍は第5世天台座主に補任される。円珍は密教の加持祈祷を求める貴族に応え、貴族社会との結びつきを強めていく。これにより延暦寺の勢力が拡大していくが、一方で顕密両学の方針が崩れていき密教化が進んだ。それと共に延暦寺内では円珍門徒が主流となり、円珍が在職した23年間に主要な職は円珍門徒が独占するようになる。円珍の没後も台密を中心に延暦寺は隆盛し、天台座主も第9世天台座主長意をのぞく第14世まで約50年間にわたって円珍派が独占した。一方で円仁の遺言を守り貴族との結びつきが弱かった円仁派は元慶寺や妙楽寺の座主に甘んじていた。
 この頃から円仁派と円珍派は争っていたようで、『天台座主記』には・・・866年・・・には比叡山の派閥争いを戒める太政官牒が出されたと記されている。また円珍が・・・888年・・・に記した制誡で「円仁門徒と和合すべし」と円珍門徒を諫めている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E9%96%80%E5%AF%BA%E9%96%80%E3%81%AE%E4%BA%89%E3%81%84
 ちなみに、円珍(814~891年)は、「空海(弘法大師)の甥(もしくは姪の息子)にあたる。・・・15歳(数え年、以下同)で比叡山に登り義真に師事、12年間の籠山行に入る。
 ・・・845年・・・、役行者の後を慕い、大峯山・葛城山・熊野三山を巡礼し、修験道の発展に寄与する。・・・846年・・・、延暦寺の学頭となる。・・・853年・・・、新羅商人の船で入唐、途中で暴風に遭って台湾に漂着してから、同年8月に福州の連江県に上陸した。以後、天台山国清寺に滞在しながら求法に専念。・・・855年・・・には長安を訪れ、真言密教を伝授された。
 ・・・858年・・・、唐商人の船で帰国。帰国後しばらく金倉寺に住み、寺の整備を行っていた模様。その後、比叡山の山王院に住し、・・・868年・・・に延暦寺第5代座主となる。これに先立つ・・・859年・・・に園城寺長吏(別当)に補任され、同寺を伝法灌頂の道場とした。後に、比叡山を山門派が占拠したため、園城寺は寺門派の拠点となる。・・・
 927年・・・12月27日、醍醐天皇より「法印大和尚位」と「智証大師」の諡号を賜る。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%86%E7%8F%8D
と言う人物だ。

 ただし、この建議は結局検討されず、道真は遣唐大使の職にありつづけた。しかし内外の情勢により、遣使が行われることはなかった。延喜7年(907年)に唐が滅亡したため、遣唐使の歴史はここで幕を下ろすこととなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%85%E5%8E%9F%E9%81%93%E7%9C%9F
 宇多天皇が、久しぶりに遣唐使を送ろうと思ったのは、日本の天台宗において、円仁派と円珍派との権力争いが既に始まっていて、毀損縄文性回復手段の確立どころの騒ぎではない状態を憂慮し、この権力争いに教義的に決着をつける方策、できうれば、毀損縄文性回復手段そのもの、の発見、を期待したもの、と、見る。

 しかし、これは、唐そのものの滅亡、そして、その後の支那の混乱時代への突入、により、果たせなかったというわけだ。(太田)


[宇多天皇の出家]

一 前史

 実恵(786?~847年)「俗姓は佐伯氏、讃岐国の出身で空海の一族。・・・初代東寺長者とされている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9F%E6%81%B5
 真雅(801~879年)。「空海の弟。・・・850年・・・3月、右大臣藤原良房の娘明子が惟仁親王(11月、立太子。後の清和天皇)を生む。真雅は親王生誕から・・・874年・・・まで24年間、常に侍して聖体を護持したという。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E9%9B%85
 「真雅<は、>・・・860年 <実恵の次の真済の次>の東寺長者となる<。>・・・
< http://shinden.boo.jp/wiki/%E6%9D%B1%E5%AF%BA >

⇒初期の真言宗は、空海一族のファミリー事業的なところがあったわけだが、後の清和天皇は、生誕時から、この真言宗と大いにご縁があったことが分かる。(太田)

 「承和の変」<(後出)は、>・・・良房が・・・天皇家を自らの血縁者で固めようとしたもので、これに反対する皇位継承者や重臣橘逸勢らを謀反人と決めつけて流罪・追放<する>。ところが実権を収めた良房に舞い降りてくるのが<、一、>・・・866年<の>・・・応天門の放火炎上<(応天門の変)(後出)、二、>流感のまんえん<、三、>地震の続発<、>で<あり、>当時は、これらは怨霊のたたりとされてい・・・た。たたり神から身を守ってくれるのが・・・密教で<あり、>具体的には真言高僧による祈祷だった<ところ、>ここ<でも>真雅<が活躍する>。・・・
 真雅は師空海の残した法灯と貴族社会との結びつきを強めていったと言えそう<だ。>」
http://tono202.livedoor.blog/archives/8539138.html
 「法務<については、>・・・推古天皇32年(624年)に観勒が補任されたのが初見で、この頃は僧綱最高位の僧正が兼任する役職であり、・・・834年・・・の護命入滅まで続<き、>一旦絶えた後、・・・872年・・・に僧綱とは別系統の地位として再興され、・・・清和天皇<、つまりは良房、>は<、>・・・東寺長者真雅を法務に任じて密教の寺院・僧尼を統括させ、興福寺大威儀師延寿を権法務に任じて顕教の寺院・僧尼を統轄させ<た。
 爾後、>・・・法務(正法務)は原則的に真言宗(真言密教)の長である東寺一長者が兼任し、法務の次位である権法務は興福寺大威儀師など顕教系の僧が補任され<ることとなっ>た。・・・
 <(>後白河院政下の・・・1167年・・・、実弟の覚性入道親王(仁和寺門跡)が総法務に補任され、正法務である東寺一長者の上に置かれた。これが先例となって、鎌倉時代には仁和寺から総法務が出されて全国の寺院・僧尼を統括する事例が生じた。<)>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E5%8B%99_(%E4%BB%8F%E6%95%99)
 「真雅が・・・879・・・正月3日に遷化すると、代わって<清和天皇の>護持僧となったのが<東寺長者を継いだ>宗叡<(注38)
http://shinden.boo.jp/wiki/%E6%9D%B1%E5%AF%BA >(809~84)である。」
http://www.kagemarukun.fromc.jp/page002i.html

 (注38)しゅううえい/しゅえい。「俗姓は小谷氏。京都の出身。・・・14歳で比叡山に入り載鎮に師事して出家し、のちに興福寺の義演から法相教学を、延暦寺の義真から天台教学を、円珍から金剛界・胎蔵界両部を、実慧から真言密教を学び、禅林寺の真紹から灌頂を受けた。862年・・・真如法親王とともに唐へ渡った。五台山・天台山を巡礼し、また汴州の玄慶、長安の法全などに密教を学んで、865年・・・に帰国。869年・・・に権律師、879年・・・僧正に任じられ、東大寺別当・東寺二長者も歴任している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E5%8F%A1

⇒清和天皇は、どっぷり真言宗に浸(つ)かり続けた。
 しかし、清和天皇の仏教への関心は小乗的なものに終始した(後述)のに対し、天皇家の中で仏教への関心を大乗的観点から抱き続けたのが高岳親王だ。↓(太田)

 真如法親王=高岳親王(たかおかしんのう。799~865?年)は、「809年・・・に父・平城天皇が譲位して嵯峨天皇が即位すると皇太子に立てられた。
 高岳親王の立太子に関しては、兄弟間の皇位継承を志向した桓武天皇の意思に対する平城天皇の反発という見方がある。一方、嵯峨天皇への譲位を平城天皇の意思と見る立場からは、位を譲られた嵯峨天皇の配慮とする見解がある。桓武天皇の嫡子が平城天皇である以上、その子が立太子されること自体には問題がなかったと考えられるが、その母親の出自が皇族でも藤原氏のような有力貴族でもなかったことが波紋を呼んだらしく、「蹲居<(そんきょ/つくばい)>太子」と評されたという・・・。
 ・・・810年・・・の薬子の変<(後出)>に伴う政変により皇太子を廃された。しかし、薬子の変に高岳親王が関与した証拠は無く、平城上皇の事件に対する責任も問われなかった結果、廃太子を正当化する理由が見出せなくなってしまったためと推測されるが、新しく皇太弟になった大伴親王(後の淳和天皇)の立太子の詔は出されたものの、高岳親王の廃太子に関して詔勅などの公式文書が出される事は無いまま、皇太子の地位ではなくなった。
 ・・・822年・・・、四品に叙せられ名誉回復がなされたが、その後出家し<、>真如を名乗り、奈良の宗叡や修円、そして空海の弟子として修行し<、>やがて空海の十大弟子の一人となり、高野山に親王院を開いた。阿闍梨の位を受け、『胎蔵次第』を著した。・・・老年になり、入唐求法を志して朝廷に願い出た。
 ・・・861年・・・に親王や宗叡らの一行23人は奈良を発ち九州に入り、翌・・・862年・・・に大宰府を出帆して明州(現在の寧波)に到着した。・・・864年・・・、長安に到着した。在唐30余年になる留学僧円載の手配により、西明寺に迎えられた。しかし、当時の唐は武宗の仏教弾圧政策(会昌の廃仏)の影響により仏教は衰退の状態にあったこともあり、親王は長安で優れた師を得られなかった。このため親王はさらに天竺行きを決意した。・・・865年・・・、唐皇帝の勅許を得て、従者3人と共に広州より海路天竺を目指し出発したが、その後の消息を絶った。16年後の・・・881年・・・、在唐の留学僧中瓘らの報告において、親王は羅越国(マレー半島の南端と推定されている)で薨去したと伝えられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B2%B3%E8%A6%AA%E7%8E%8B
 ちなみに、この中↑に登場する修円(771~835年)<は、>「大和国興福寺の賢憬に法相を学び、794年・・・比叡山根本中堂の落慶供養の際その堂達をつとめ、805年・・・には最澄から灌頂を受けた。810年・・・に律師、812年・・・に興福寺別当となり、興福寺に伝法院を設けて深密会を始めた。827年・・・少僧都となる。 空海とも親しく、天台宗・真言宗という当時としては新しい仏教に理解を示していたようである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%AE%E5%86%86

⇒真如は、皇太子時代に私の言う聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想を開示されていた可能性があり、仮にそうだったとすれば、伝来仏教中に悟る方法(縄文性毀損修復方法)が見出されていないことを知り、そんな自分が「フリー」になったことに天命を感じ、自らその発見のために出家し、改めて当時の伝来仏教全てを勉強した上で、入唐し、更には、天竺を目指したとしても決して不思議ではない。(太田)

 ここで改めてだが、清和天皇<(850~881年。天皇:858~876年)>は、「母は太政大臣の藤原良房の娘の明子<で、>・・・異母兄に惟喬・惟条・惟彦親王がいたが、母方の祖父の藤原良房の後見の元、3人の兄を退けて生後8カ月で皇太子となる。・・・858年・・・、文徳天皇の崩御に伴い、わずか9歳で即位した。病床の文徳天皇は皇太子が幼少であることを危惧し、6歳年長の<母親が紀氏の>惟喬親王に中継ぎとして皇位を継承させようとしたが、実現しなかった。幼少の為、良房が外戚として政治の実権を握った。・・・
 866年<の>・・・応天門炎上事件(応天門の変)<(後出)>・・・が解決しない最中の同年8月に良房を正式に摂政に任命し<、>・・・876年)第一皇子である9歳の貞明親王(陽成天皇)に譲位し、<というか、良房によって譲位させられ(太田)、>太上天皇となる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E5%92%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87
 「<そして、>譲位すると、清和院を生活の中心の場としたが、そこでは仏道に帰依しており、朝夕の膳は菜蔬のみとし、女色を絶ったという・・・。
 879・・・5月4日に清和太上天皇は清和院を離れて粟田院に移っている・・・。5月8日には宗叡<(前出)>を戒師として落飾入道し、法名を素真とした。この時30歳であ<る>・・・。これを受けて翌9日に陽成天皇が清和太上天皇に朝覲行幸するため粟田院に輿を進めようとしたが、太上天皇は右大弁藤原山陰(824~88)を遣わして、面会を謝絶した・・・。
 出家後、清和太上天皇の頭陀<(ずだ)>が計画される。頭陀とは衣食住に対する欲望を払いのけて仏道を求めることであり、修行のために托鉢して歩くことをさした。まずその準備として・・・879<年>10月20日には大和国に米100斛を清和院に奉らせているが、これは清和太上天皇の山中での頭陀の費用としてであった・・・。10月22日には右大臣藤原基経が六衛府に対して、この月24日に太上天皇が大和国に御幸するため、諸陣を厳戒にするよう宣している・・・。23日には綿2,000屯、銭1,000貫文を粟田院に奉っているが、路中の施行料としてであった・・・。
 ・・・879・・・10月23日夜、清和太上天皇は粟田院を出発して粟田寺に泊まった。翌朝に大和国に御幸するためであった・・・。翌24日寅時、清和太上天皇は牛車に乗り、大和国へと向けて出発した。陽成天皇の勅によって参議源能有(清和太上天皇の実兄、845~97)が六衛府の将曹・志・府生を府ごとにそれぞれ1人、近衛兵・衛門ごとにそれぞれ10人を太上天皇の護衛のために遣わしたが、太上天皇は源能有および六衛の衛官人をすべて帰した。ただし参議在原行平・・・と参議藤原山蔭は太上天皇に付き従った・・・。
 清和太上天皇の頭陀行は、まず山城国の貞観寺に始まって、大和国(奈良県)の東大寺・香山寺・神野寺・比蘇寺・龍門寺・大瀧(吉野か)、摂津国勝尾山(後の勝尾寺)などの有名寺院を遍歴して礼仏し、旬(10日)を経過すると去った。勝尾山から山城国の海印寺に戻ったが、その後丹波国の水尾山に移り、ここを自らの終焉の地と定めた・・・。
 ・・・880・・・3月19日に清和太上天皇は大和・摂津諸寺院の巡幸を終えて水尾山寺に戻った。そのため伊勢・尾張両国が清和院への租米100斛を、丹波国の官米と相博(当事者間のにおける租税の等価交換)して水尾山寺に奉った・・・。以後の生活は酒・酢・塩などを絶ち、2・3日に一度に限って斎飯(昼食)をとり、常に苦行を行ない、身を削るかのように罪業をたち、この身を厭い、膳をとらずに捨てようとさえした・・・。
 その後同年8月23日には水尾山寺の仏堂造営のため、左大臣源融(822~95)の山荘である嵯峨の棲霞観(現清涼寺)に移っているが・・・、重病となり11月25日には棲霞観を離れて円覚寺に移った・・・。清和太上天皇回復祈祷のため、21寺に祈祷を行わせ・・・、また僧100人を得度させているが・・・、12月4日申二刻、円覚寺にて崩じた。31歳。その最期は、近侍の僧らに命じて金剛輪陀羅尼を読ませ、西方を向いて結跏趺坐し、手に定印をつくって崩じたが、そのなきがらは動くことなく、厳然として生きているかのようであり、念珠<が>お手に掛かっていたという・・・。12月7日に円覚寺に近い粟田山で火葬され、なきがらは水尾山の上に葬られた・・・。」
http://www.kagemarukun.fromc.jp/page002i.html

⇒以上、長々と清和天皇の仏道トチ狂いの「晩年」を紹介したが、同天皇は、16歳の時に、ということは、実質的に一度も政治に携わることがないまま、自分の子である9歳の陽成天皇に譲位し、それまで事実上権力を握って来たところの、母方の祖父である藤原良房、を名実ともに全権を握る摂政に就け、自分は修行僧になってしまったわけであり、これには、良房(~872年)も、その養嫡男の基経(836~891年。摂政:876年~。太政大臣:880年~)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%9F%BA%E7%B5%8C
ともども、(ステップとジャンプにおいては天皇家の積極的参画が不可欠なだけに、)桓武天皇構想の推進どころではない、と、頭を抱えたことだろう。(太田)

 「<そんな清和天皇の子の陽成天皇は父に輪をかけたできそこないであり、挙句の果てに、>883年・・・11月、宮中で天皇の乳母(紀全子)の子・源益が殺される事件が起きた。それが本当に殺人なのか、あるいは過失なのかは不明であり、また犯人も不明とされた。しかし、宮中では陽成天皇が殴り殺<し>た<のだ>と噂された。・・・
 884年・・・、基経は天皇の廃立を考え、仁明天皇の時に廃太子された恒貞親王に打診したが、既に出家していた親王から拒否された。そこで仁明天皇の第三皇子の時康親王が謙虚寛大な性格であったので、これを新帝と決めた。時康親王の母は藤原総継の娘・沢子で、基経の母・乙春とは姉妹であり、基経は時康親王の従兄弟にあたる。公卿を集めて天皇の廃位と時康親王の推戴を議したところ、左大臣源融(嵯峨天皇の第12皇子)は自分もその資格があるはずだと言いだした。基経は姓を賜った者が帝位についた例はないと退け、次いで参議・藤原諸葛が基経に従わぬ者は斬ると恫喝に及び、廷議は決した。
 <その上で、基経は、この>公卿会議の決定を持って、陽成天皇に退位を迫った。孤立した年少の天皇に、抗する術はなかった。基経は時康親王を即位させ、親王は光孝天皇として即位した。光孝天皇は擁立に報いるために、太政大臣である基経に大政を委任する詔を発した。これをいわゆる「実質上の関白就任」と呼ぶ事もある<(後出)>。天皇は既に55歳だったが、皇嗣の決定も基経に委ねるつもりで、あえて定めなかった。天皇としては、基経の妹である藤原高子の子で、陽成天皇の弟であった貞保親王に天皇位を継がせたいと基経は希望するであろうはずである、と考えていたらしく、即位してすぐの6月に自身の皇子皇女26人を全員臣籍降下させて源氏とすることで、自らの系統には皇位は継がせない事を基経にアピールした。・・・
 [<同天皇は、>宮中行事の再興に務めると共に、諸芸に優れた文化人でもあったとされる。和歌・和琴などに秀でたとされ、桓武天皇の先例にならって鷹狩を復活させた。また、親王時代に相撲司別当を務めていた関係か、即位後に相撲を奨励している。

⇒藤原氏北家本流に低姿勢で臨んで煙幕を張りつつも、(恐らく、変則的に、陽成天皇からではなく藤原基経から開示されたところの)桓武天皇構想推進への光孝天皇の決意が窺える。(太田)

 晩年は、政治改革を志向するとともに、親王時代の住居であったとされる宇多院の近くに〈天台宗の〉勅願寺創建を計画するも、いずれも実現を見ぬままに終わ<る。>
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E5%AD%9D%E5%A4%A9%E7%9A%87 ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E5%92%8C%E5%AF%BA (<>内)

⇒清和天皇の真言宗狂いが天台宗の萎縮を招いていたので、光孝天皇は、天台宗の新寺の建設を計画したのだろう。(太田)

 ・・・887年・・・、光孝天皇は重篤に陥った。基経は相変わらず妹・高子とは仲が悪く、その子である貞保親王を、甥であるにもかかわらず基経は避けていた。そのような事もあり、基経は貞保親王ではなく天皇の第7皇子の源定省を皇嗣に推挙した。定省は天皇の意中の子であり、天皇は基経の手を取って喜んだ。もっとも、定省は光孝天皇即位以前より尚侍を務めた基経の妹淑子に養育されており、藤原氏とも無関係ではなかった。臣籍降下した者が即位した先例が無かっため、臨終の床にあった天皇は定省を先ず親王に復し、さらに東宮と成した同日に崩御した。定省は直ちに宇多天皇として即位した。
 宇多天皇は先帝の例に倣い大政を基経に委ねる事とし、左大弁・橘広相に起草させ「万機はすべて太政大臣に関白し、しかるのにち奏下すべし」との詔をする。関白の号がここで初めて登場する<(後述)>。基経は儀礼的にいったん辞意を乞うが、天皇は重ねて広相に起草させ「宜しく阿衡の任を以て、卿の任となすべし」との詔をした。阿衡とは中国の故事によるものだが、これを文章博士・藤原佐世が「阿衡には位貴しも、職掌なし」と基経に告げたため、基経はならばと政務を放棄してしまった。
 問題が長期化して半年にも及び政務が渋滞してしまい宇多天皇は困り果て、真意を伝えて慰撫するが、基経は納得しない。阿衡の職掌について学者に検討させ、広相は言いがかりである事を抗弁するが、学者らは基経の意を迎えるばかりだった。結局、広相を罷免し、天皇が自らの誤りを認める詔を発布する事で決着がついた(阿衡事件<(前述)>)。これにより藤原氏の権力が天皇よりも強い事をあらためて世に知らしめる事になった。

⇒「藤氏長者の職掌を大きく分けると、政治的な藤原氏の存立基盤整備、氏領としての荘園や動産の管理、氏寺興福寺や氏社春日大社・大原野神社などの管理があげられる」ところ、
https://www.japanesewiki.com/jp/title/%E8%97%A4%E6%B0%8F%E9%95%B7%E8%80%85.html
「竹内理三は8世紀頃まで藤原氏が氏族意識が希薄であり、9世紀から10世紀頃に他の氏族のように氏長者が必要とされてきたのではないかとし、氏長者の号が用いられたのは藤原基経の頃ではないかとしている」が、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E6%B0%8F%E9%95%B7%E8%80%85
https://api.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/2335109/p001.pdf
「元来勅命によって定められるものであった<ところ>、平安中期には摂政・関白の地位に随うものとして私的に授受され<るようになった>」
https://kotobank.jp/word/%E8%97%A4%E6%B0%8F%E3%81%AE%E9%95%B7%E8%80%85-2066301
といったことから、まだ、宇多天皇/藤原基経の頃には、基経に藤氏長者勅命を与えない選択肢があったと思われる上に、まだ、そもそも、北家の南家や式家に対する優越が確定していたわけではない(典拠省略)ことを想起すれば、宇多天皇が阿衡事件で基経に「屈した」のは、桓武天皇構想策定に関わり、この構想の実現に曲がりなりにも協力してきた藤原氏主流の協力なくしてこの構想の完遂など不可能だと判断したからだろう。(太田)

 これを所謂「正式の関白就任」と呼ぶ事もある<(後述)>。基経はなおも広相を流罪とする事を求めるが、菅原道真が書を送って諫言して収めた。この事件は天皇にとって屈辱だったようで、基経の死後に菅原道真を重用するようになる。」(上掲)

二 宇多天皇の出家

 「<宇多天皇は、>菅原道真<を>・・・894年<に>遣唐大使に任<ず>るが、道真は唐の混乱を踏まえて遣使の再検討を求める建議を提出している<ところ>、この建議は結局検討されず、道真は遣唐大使の職にありつづけた<が、>内外の情勢により、遣使が行われることはなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%85%E5%8E%9F%E9%81%93%E7%9C%9F

⇒宇多天皇は、桓武天皇構想中の武士創出計画については、完遂への目途をつけることに成功したが、それだけに、創出される武士達の毀損された縄文性(人間主義性)の回復方法の確立が依然五里霧中状態であることが気にかかったのだろう。
 遣唐使派遣は、その方法を、改めて仏教内に求めることが狙いであって、その狙いをよくよく道真に言い含めたのではなかろうか。
 しかし、それが不可能になった時、真如法親王を見倣い、自分自身で何とか方法確立の手掛かりを発見したいと思い、出家した、と、私は見たいのだ。(太田)
 
 「<そして、宇多天皇は、897年に譲位し、>899年・・・10月24日には出家し、東寺で受戒した後、仁和寺<(注39)>に入って法皇となった。さらに高野山、比叡山、熊野三山にしばしば参詣し、道真の援助を十分に行えなくなった。・・・

 (注39)「仁和寺は平安時代後期、光孝天皇の勅願で仁和2年(886年)に建てられ始めた。しかし、光孝天皇は寺の完成を見ずに翌年崩御し、その遺志を引き継いだ子の宇多天皇によって仁和4年(888年)に落成した。当初「西山御願寺」と称され、やがて元号をとって仁和寺と号した。
 仁和寺の初代別当は天台宗の幽仙であったが、宇多天皇が真言宗の益信を戒師として出家したのを機に、別当を同じ真言宗の観賢に交替させた。これによって当寺は真言宗の寺院として定着した。
 出家した宇多天皇は宇多法皇として仁和寺伽藍の南西に「御室」(おむろ)と呼ばれる僧坊を建てて住した。そのため、仁和寺は「御室御所」とも称された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E5%92%8C%E5%AF%BA

 <すなわち、同年>12月13日、宇多は受戒の師を[真言僧の]>益信<([やくしん])>として<真言宗本山の>東寺で伝法灌頂を受けて、真言宗の阿闍梨となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%A4%9A%E5%A4%A9%E7%9A%87
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%8A%E4%BF%A1 ([]内)

⇒こうして、宇多上皇は、出家したところ、その際、真如法親王に倣って、真言宗の僧になったわけだが、恐らくそうすることが、光孝天皇の配慮が天台宗の自信を回復させただけにとどまり同宗の内部抗争が収まる気配がなかったことから、天台宗に危機意識を持たせる効果があるとも考えたのではないか。
 その上で、宇多法皇は、「高野山、比叡山、熊野三山にしばしば参詣」することで、真言宗と天台宗と国産の新仏教宗派とも言うべき、神仏習合の修験道、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%AE%E9%A8%93%E9%81%93 ←修験道
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E9%87%8E%E4%B8%89%E5%B1%B1 ←熊野三山
のそれぞれを自ら勉強しつつ、これらの宗派に対し縄文性維持・回復手法を発見するよう叱咤した、とも。(太田)

 「これによって宇多は弟子の僧侶を取って灌頂を授ける資格を得た。宇多の弟子になった僧侶は彼の推挙によって朝廷の法会に参加し、天台宗に比べて希薄であった真言宗と朝廷との関係強化や地位の向上に資した。そして真言宗の発言力の高まりは宇多の朝廷への影響力を回復させる足がかりになったとされる。」(同上)

⇒よって、このような解釈は誤りだと思う。(太田)

 「延喜21年(921年)10月27日に醍醐<天皇>から真言宗を開いた空海に「弘法大師」の諡号が贈られているが、この件に関する宇多<天皇>の直接関与の証拠はないものの、醍醐の勅には太上法皇(宇多)が空海を追憶している事を理由にあげている。」(同上)
 <他方>、「天台宗門宗(寺門派)の宗祖<である>・・・円珍<へ、>・・・延長5年(927年)12月27日、醍醐天皇より「法印大和尚位」と「智証大師」の諡号<が下賜されている。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%86%E7%8F%8D

⇒空海、円珍へのいずれの諡号下賜の時も、宇多法皇(~931年)はまだ存命であり、その指示を受けて醍醐天皇が行ったものだろうが、天台宗、真言宗、への諡号下賜者の数を、1:0から1:1にすることで、天台宗にお灸をすえ、それを更に、2:1にすることで、天台宗を一転奮起させられる、と踏んだのだろう。
 この一連の動きは、宇多天皇/醍醐天皇によるところの、「縄文的」弥生性促進宣言と受け止められるべきだ、というのが私の言いたいことなのだ。
 この宇多天皇/上皇/法皇が、武士創出計画完遂の目途をつけた、という認識の下、彼が真言僧となり、真言宗の寺を御所としたことが、高野山への、下掲↓

1023年 藤原道長参詣
1048年 藤原頼通参詣
1088年 白河上皇参詣 他に1091年、1103年、1127年の計4度の参詣
1124年 鳥羽上皇参詣 他に1132年、1127年の計3度の参詣
1156年 平清盛を奉行として大塔落慶
1169年 後白河法皇参詣
1207年 後鳥羽上皇参詣
1223年 北条政子が金剛三昧院建立
1258年 後嵯峨上皇参詣
1313年 後宇多法皇参詣
1334年 後醍醐天皇御願による愛染堂建立
1338年 後醍醐天皇参詣 吉野行宮より潜幸
1344年 足利尊氏参詣
1378年 <南朝第3代>長慶天皇参詣
1389年 足利義満参詣
1581年 織田信長の高野攻め開始 翌年:信長没、後に豊臣秀吉が高野山と和議し、庇護することに繋がる
1585年 豊臣秀吉と和議
1594年 豊臣秀吉参詣
1594年 徳川家康参詣
1599年 石田三成が経蔵建立

のような参詣群等をもたらし、「佐竹義重霊屋、松平秀康及び同母霊屋、上杉謙信・景勝霊屋(たまや)の建造物として重要文化財に指定されているものを始め、平敦盛、熊谷蓮生房、織田信長、明智光秀、曾我兄弟、赤穂四十七士」らの墓碑群設置をもたらした
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%89%9B%E5%B3%AF%E5%AF%BA

のだし、12~13世紀にかけて天台宗から、(厩戸皇子/桓武天皇/宇多天皇の宿題を果たした)日本の臨済宗や(創出された武士の新たな使命を措定した)日本独自の日蓮宗のような、鎌倉仏教群(典拠省略)の族生をももたらした、とも。(太田)

※※
 寛平7年(895年)参議在任2年半にして、先任者3名(藤原国経・藤原有実・源直)を越えて従三位・権中納言、権春宮大夫に叙任。また寛平8年(896年)長女衍子を宇多天皇の女御とし、寛平10年(898年)には三女寧子を宇多天皇の皇子・斉世親王の妃とし、宇多との結びつきがより強化されることとなった。
 宇多朝末にかけて、左大臣の源融や藤原良世、宇多天皇の元で太政官を統率する右大臣の源能有ら大官が相次いで没し、寛平9年(897年)6月に藤原時平が大納言兼左近衛大将、道真は権大納言兼右近衛大将に任ぜられ、この両名が太政官の長となる体制となる。7月に入ると宇多天皇は敦仁親王(醍醐天皇)に譲位したが、道真を引き続き重用するよう強く醍醐天皇に求め、藤原時平と道真にのみ官奏執奏の特権を許した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%85%E5%8E%9F%E9%81%93%E7%9C%9F
と、菅原道真(845~903年)(上掲)を強引なまでに重用したのは、この計画を実行させるためだった、と見る。
 宇多天皇の意を受けた道真は、藤原菅根(856~908年)に着目する。
 菅根は、「寛平5年(893年)敦仁親王の立太子に際して菅原道真の推挙で春宮侍読となり、親王に『曲礼』『論語』『後漢書』などを講じる。寛平9年(897年)敦仁親王の即位(醍醐天皇)に伴い、従五位下に叙爵。さらに昇殿を許されて勘解由次官兼式部少輔に任ぜられ、同年11月には道真の推挙で再度昇叙されて従五位上となる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%8F%85%E6%A0%B9
と、道真が可愛がり、引き立てて来た人物であり、藤原南家の出身で、母親は藤原式家の出身だ。(上掲)
ここで、これから行う話の関係系図を掲げておこう。↓

 藤原不比等-武智麻呂—乙麻呂(三男)—是公—雄友-弟河-高扶-清夏-維幾-為憲
|
–巨勢麻呂(四男)-黒麻呂-春継-良尚-菅根

https://rekishi.directory/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%B9%99%E9%BA%BB%E5%91%82
https://rekishi.directory/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%BC%9F%E6%B2%B3
https://rekishi.directory/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%B6%AD%E5%B9%BE
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%B7%A8%E5%8B%A2%E9%BA%BB%E5%91%82
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%BB%92%E9%BA%BB%E5%91%82
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%98%A5%E7%B6%99
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%89%AF%E5%B0%9A

 菅根の家は、上総に荘園を持っていて、同地への土着志向もあり、菅根自身に武士化を働きかけてもよかったけれど、その行政官としての能力を惜しんだ道真は、菅根に、藤原南家で武士化を受け入れそうな者を探させ、説得させた結果、890年に上総の荘園を興福寺に寄進し(、恐らくは荘官
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%98%E5%AE%98
として実際の所有者としての実態はそのままで)、引き続き同荘園に半土着状態を維持していたところの、藤原南家の、上総介、左少弁を務めた、つまりは、地方に完全には土着化しなかったところの、藤原清夏(?~?年)、の子の維幾(?~?年)(注40)
https://reichsarchiv.jp/%E5%AE%B6%E7%B3%BB%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%B0%8F%EF%BC%88%E5%8D%97%E5%AE%B6%EF%BC%89
の完全土着化の説得に成功したので、その「褒賞」として、宇多天皇/道真は、菅根を公卿に押し上げる道筋をつけ、道真失脚後、宇多法皇/醍醐天皇は、908年に菅根を参議(公卿)にする。

 (注40)「藤原維幾<(これちよ)は、>・・・<平将門の乱(後述)の時の>常陸<介(事実上の国司。正室は高望王の娘(下出)。>」
https://kotobank.jp/word/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%B6%AD%E5%B9%BE-1405446
 「常陸国鹿島の豪族藤原玄明(はるあき)が官米を横領するなどの悪行を働き、国府側と紛争を起こしていた。新任の常陸介藤原維幾は、玄明のたび重なる罪禍に業を煮やし太政官符の指示によって逮捕しようとしたので、玄明は妻子従類を引きつれ下総国豊田郡の将門のもとに逃げ込んだ。将門は先に武蔵権守興世王の寄寓を許したが、今度は「国の乱人」の侵入をも庇護したわけで、このことは、紛争が単なる同族間の私闘の域をこえたことになる。
 常陸国府から玄明の引き渡しの通牒が将門のもとに頻りに届けられたが将門はそのつどこれを拒み続けた。そればかりか、玄明を下総の国土に住まわせ、身柄を追及しない要請状を国庁に申し入れていた。国側はこれを斥け合戦によって事を決する返答書を送ってきた。
 天慶二年(九三九)一一月二一日、将門軍の一〇〇〇余騎は常陸国府(石岡)に殺到し、官兵と貞盛、為憲(維幾の子)らの三〇〇〇余騎と合戦に及んだ。将門軍には常陸掾藤原玄茂の内応があり、たちまち三〇〇余戸の民家が焼かれた。長官藤原維幾は屈服し、滞在中の詔使(21)も共に捕えられた。奪った綾羅(絹織物)一万五〇〇〇反、その他夥しい美麗を誇った財宝の数々が下総、常陸兵に分配された。将門軍の掠奪は数日間続き、二九日、国府の印と鎰(やく)(国倉の鍵)を没収し、長官維幾と詔使弾正藤原定遠を捕虜とし、「鎌輪之宿」の本拠地に凱旋した。
 この事件は、坂東諸国の国司を震駭させただけではなく中央政府の役人をも恐怖におとしいれた。『日本紀略』は将門の国府襲撃を一〇日後に京に報告している。国庁に乱入占拠し、印鎰を奪った行為はそれまでに前例がなく、私戦を棄て、公然たる国家権力への挑戦を示すものである。」
https://adeac.jp/joso-city/texthtml/d600010/mp000010-600010/ht200690
 維幾の祖父の「774年・・・上総介に任ぜられ現地に赴任した藤原黒麻呂は、入手した牧を開墾し藻原荘が成立した。黒麻呂の子春継は常陸大目坂上盛の女をめとって<、父黒麻呂とは違って>藻原荘に住み生涯を終えたが、子の良尚に自分の死後は当荘中に葬り墓所として保全するため興福寺に施入するよう遺言した。しかし、良尚は<中央志向であったこともあり、この>遺言を果たさぬうちに・・・877年・・・に急死したため、・・・890年・・・良尚の子菅根らが田代荘とともに興福寺に施入した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%BB%E5%8E%9F%E8%8D%98
 維幾の父の「藤原良尚<(818~877年)>は、<中央志向でこそあったけれど、>・・・武芸を好み腕力が人並み外れて強く、非常に胆力もあった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%89%AF%E5%B0%9A
 また、維幾の子の「藤原為憲<(ためのり。?~?年)>は、・・・藤原南家乙麻呂流、常陸介・藤原維幾の子。官位は従五位下・遠江権守。工藤大夫を号し、工藤氏の祖となる。平将門・平貞盛の従兄弟にもあたる。
 天慶2年(939年)、常陸国における平将門との紛争に敗れた為憲は、母方の従兄・平貞盛と共に度々の将門の探索をかわしながら潜伏する。天慶3年(940年)2月、「新皇」を僭称した将門の追討に官軍大将の一人として貞盛・藤原秀郷と協力して将門と戦い征伐に成功し、先に将門に襲撃され抑留されていた父・維幾を救援した(承平天慶の乱<(もう一度記すが、後述)>)。将門追討の恩賞として従五位下に叙爵、木工助(宮内省の宮殿造営職である木工寮の次官)に就任。藤原の藤と木工の工を合わせ工藤姓を興す。
 <藤原為憲は、>家紋「庵木瓜」の創始者<でもあり、>伊豆国・駿河国・甲斐国・遠江国の権守を歴任<することになるも、その赴任先からして、完全土着化志向は堅持したと見てよかろう>。
 <この為憲を祖とする>工藤氏からは、伊東氏、伊藤氏、吉川氏、鮫島氏、二階堂氏、相良氏などが派生し、また子孫<からは、>工藤茂光、工藤祐経などを輩出した。・・・
 <なお、為憲の>母<は、>高望王の娘<である(前述)ことに注意。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%82%BA%E6%86%B2
 <参考までだが、>庵木瓜(いおりにもっこう)とは、「スサノオノミコトを祀る神社の神紋<であって、>・・・工藤祐経<や>・・・幕末維新<期の>伊東甲子太郎<が使用したことで知られる。>」
https://irohakamon.com/kamon/mokkou/iorimokkou.html

 <ちなみに、>菅根<の方だが>、同年中に雷に打たれて急死してしまう<けれど>、「菅根の子孫は息子・元方が文章生から大納言にまで昇り、元方の子の懐忠も大納言、懐忠の子の重尹が権中納言に昇るなど三代にわたり公卿を出し<、>それ以後は振るわなかったものの、彼を先駆者として藤原南家から文章博士が輩出されるようになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%8F%85%E6%A0%B9

 イ ステップ

 「皇族の高望<(注41)>王は平姓を賜って臣籍に下り、都では将来への展望もないため、上総介となり関東に下った。つまり、京の貴族社会から脱落しかけていた状況を、当時多発していた田堵<(注42)>負名<(注43)>、つまり地方富豪層の反受領武装闘争の鎮圧の任に当たり、武功を朝廷に認定させることによって失地回復を図ったとも考えられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%BF%E5%B9%B3%E5%A4%A9%E6%85%B6%E3%81%AE%E4%B9%B1
とされているが、私は次のように考えている。

 (注41)平高望の正室は、藤原北家の左大臣藤原冬嗣の子たる藤原良方の娘
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E9%AB%98%E6%9C%9B
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%89%AF%E6%96%B9
 (注42)「田堵(たと)は、日本の平安時代に荘園・国衙領の田地経営をおこなった有力百姓層を指す。・・・田堵の堵は、垣を意味する。・・・
 初期における「田刀」は後世の田堵とやや性格を異にし、荘園の職掌の1つとしての性格が強く、荘園の土地を預作をすると同時に自らの私宅(穀物の貯蔵庫にもなり得る)と治田(開墾地)を有していた。田刀は院宮王臣家や寺社に私宅と治田を寄進して田刀の身分を手に入れて国衙からの租税を逃れようとした。・・・
 10世紀後半・・・国衙による賦課主体としての田刀の把握が進み、この時期から代わりに「田堵」の字が用いられるようになる。・・・
 田堵には、古来の郡司一族に出自する在地豪族や、土着国司などの退官した律令官人を出自とする者もいて、蓄積した富をもって、墾田開発・田地経営などの営田活動を進めたり、他の百姓への私出挙を行った。また在地豪族は律令制下でも一定の武力を保有していた。
 そして、まず国衙領において、公田から名田への再編成が行われると、田堵が名田経営を請け負う主体に位置づけられるようになる。さらに、荘園にも名田化が波及すると、荘園内の名田経営も田堵が請け負うようになった。こうして田堵は、荘園・公領経営に深く携わるようになっていき、荘官や名主の地位を得るのである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E5%A0%B5
 「荘園が一円化して公領(国衙領)と対等な権利地位を獲得した11世紀以降の在地秩序を荘園公領制と呼ぶが、この体制下では農業、漁業、手工業などの諸産業を田堵が名田単位で経営を行った。田堵と名田は荘園単位、また公領では郡・郷・保単位で把握され、荘園領主に任命された荘官、国衙に任命された郡司、郷司、保司らの支配を受けた。荘官、郡司、郷司、保司らは在地社会での軍事的緊張、特に荘園と公領の対立が高まるにつれて武士が任命されることが多くなり、鎌倉時代に至って鎌倉殿に任命された地頭として安定した地位を獲得した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E7%94%B0
 (注43)「王朝国家体制<の下>、課税単位へ編成された土地を名田(みょうでん)といい、名田経営を請け負った者が「負名<(ふみょう)>」と呼ばれるようになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%A0%E5%90%8D

 宇多天皇は、「高望<に889>・・・年5月13日<に>・・・勅により平姓を賜与<し>臣籍降下」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E8%89%AF%E5%85%BC
させた。
 この平高望が、長男国香、次男良兼、三男良将を伴って、自分達を土着化/武士化させるべく、上総介として任地に赴いたのは898年で、宇多天皇が醍醐天皇に譲位した翌年
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E9%AB%98%E6%9C%9B
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%A4%9A%E5%A4%A9%E7%9A%87
だが、宇多天皇は、高望親子に、ステップとしてのこの赴任を飲ませた上で、高望に対し、その女子のうちの一人を、藤原南家の、上総介、左少弁を務めた、つまりは、地方に土着化しなかったところの、藤原清夏(?~?年)、の子である藤原維幾(?~?年)・・
https://reichsarchiv.jp/%E5%AE%B6%E7%B3%BB%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%B0%8F%EF%BC%88%E5%8D%97%E5%AE%B6%EF%BC%89
宇多天皇は、この維幾に対して、菅原道真、藤原氏南家の藤原菅根、経由で、お前を常陸介に任じるが、実際に現地に赴任するのはもちろんのこと、親爺とは違って現地に土着化して武士化を図れと命じてあった(前述)・・に嫁がせることを承諾させる、ことにやっとのことで成功したのである、と。
 こうして、ステップとホップのやり直しを成し遂げて安堵したからこそ、宇多天皇は譲位することにした、と。
 と、まあこういうわけで、「高望親子は任期が過ぎても帰京せず、国香は前常陸大掾の源護の娘を、良将は下総国相馬郡の犬養春枝の娘を妻とするなど、在地勢力との関係を深め常陸国・下総国・上総国の未墾地を開発、自らが開発者となり生産者となることによって勢力を拡大、その権利を守るべく武士団を形成してその後の高望王流桓武平氏の基盤を固めた<が、高望自身は、>その後、延喜2年(902年)に西海道の国司となり大宰府に居住、延喜11年(911年)に同地で没する」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E9%AB%98%E6%9C%9B 前掲
ところ、この高望の上総赴任について、何食わぬ形で天皇の命のままに事務的に進めていたであろうところの、藤氏長者にして左大臣であった、藤原北家の藤原時平(~909年)、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%99%82%E5%B9%B3
は、宇多天皇から、藤原維幾の常陸赴任、と、平高望の女子を藤原維幾に嫁がせる件、とについて、事後承諾と公式化を求められ、宇多天皇が藤原氏北家本流が行ったホップに疑義を呈した上で、自ら、真正なホップ、と、ステップ、とをやってのけてしまったことに愕然とした、と、私は想像を膨らませている。
 慌てた時平は、藤原豊沢に、平高望に対し、直ちに、自分の一族を、(武士化する予定の)平高望家の郎党にするので、平高望・・既に藤原維幾に女子を嫁がせていた・・の嫡男の国香に自分の姉妹を正室として迎えるよう計らってくれないか、と、話を持ち掛けよと指示し、高望も渡の船とそれを受け入れた、と見たらどうか。(注44)

 (注44)高望の子の国香の二人の妻のうち一人は藤原北家の左大臣藤原魚名の子の藤成の子の豊沢の子の藤原村雄の娘
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%9B%BD%E9%A6%99
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%9D%91%E9%9B%84
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%B1%8A%E6%B2%A2
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%97%A4%E6%88%90
 この国香の子が平貞盛だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E8%B2%9E%E7%9B%9B

 こうして、「高望の子らは武芸の家の者(武士)として坂東の治安維持を期待され、関東北部各地に所領を持ち土着した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%BF%E5%B9%B3%E5%A4%A9%E6%85%B6%E3%81%AE%E4%B9%B1 前掲
 「ただし、この時代の発生期の武士の所領は、後世、身分地位の確立した武士の安定した権利を有する所領と異なり、毎年国衙との間で公田の一部を、経営請負の契約を結ぶ形で保持するという不安定な性格のものであった。つまり、彼らがにらみを効かせている一般の田堵負名富豪層と同じ経済基盤の上に自らの軍事力を維持しなければならず、また一般の富豪層と同様に受領の搾取に脅かされる側面も持っていた。」(上掲)ところ、何もなくても不安定な関東に、宇多天皇と藤原時平が張り合う形で手を出した結果として、真正藤原氏の藤原為憲一族と仮冒藤原氏の藤原豊沢一族との間で、疑心暗鬼、不和、が生じ、それが次第に、これまた仮冒藤原氏である藤原玄明、藤原玄茂の一族(前出)も巻き込んでいき、ついには平将門の乱をもたらすことになった、と見たらどうだろうか。↓ 

 「高望の子のひとり平良将(良持とも)は下総国佐倉に所領を持ち、その子の将門は京に上って朝廷に中級官人として出仕し、同時に官人としての地位を有利にするために摂関家藤原忠平の従者ともなっていた。良将が早世したため将門が帰郷すると、父の所領の多くが伯父の国香、良兼に横領されてしまっていたといわれ、将門は下総国豊田を本拠にして勢力を培った。」(上掲)

 ウ ジャンプ

 宇多天皇がやったことはそれだけではなかった、とさえ、私は見るに至っている。
 宇多天皇は、天皇時代ないし上皇時代に、自分とほぼ同世代の、(清和天皇の子の)貞純親王(870・873?~916年)に対しても、その子の一人
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%9E%E7%B4%94%E8%A6%AA%E7%8E%8B
を、その子孫を、将来武家の棟梁になることを含みに、武士化させることについて、一応前向きの回答を引き出すことに成功していたのではないか、と。
 しかし、宇多天皇/上皇のこの尽力にもかかわらず、同上皇が931年に亡くなった後の938年に、醍醐天皇が武蔵介に任じて関東に送り出す運びとなったところの、源経基は、貞純親王の本当の子孫ではなかったのではなかろうか。
 すなわち、私は、「星野恒<が最初に唱えたところの、>・・・経基王<が>貞純親王の子ではなく貞純親王の兄陽成天皇の子<の>元平親王の子であるとする陽成源氏説」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E5%92%8C%E6%BA%90%E6%B0%8F
を採りたいのだ。
 「竹内理三<が>・・・陽成天皇の暴君像<は>武士の家としてふさわしいものと捉え<られたのではないか>」(上掲)と、指摘していることに説得力があるからだ。
 在原業平がそうであったように、旧皇族は武士になることを忌避する感情が強かったところ、陽成天皇の男子達は、その子孫達を含め、父親廃位の経緯から朝廷内での将来展望が明るくなかったことに加えて、宇多天皇/上皇の意向を受けた醍醐天皇と貞純親王による強い要請もこれあり、ついに、陽成天皇の男子達の中から、その子孫の武士化を飲んだ男子・・元平親王・・が出現した、としても不思議ではなく、その際、貞純親王の子ということにしたのは、陽成源氏と名乗ることがイメージ的に憚れたこと、と、清和天皇が仏僧化したこと、とが、清和源氏ということであれば、武士をして、自らの縄文性回復・維持に常に配意させることに繋がり易い、とも考えられたのではないか、と。
 この元平親王の子の源経基を、醍醐天皇が、当時太政大臣の藤原忠平に命じて、938年に武蔵介として現地に赴任させるや否や、経基は、「同じく赴任した武蔵権守・興世王と共に赴任早々に検注を実施すると、在地の豪族である足立郡司で判代官の武蔵武芝が正任国司の赴任以前には検注が行われない慣例になっていたことから検注を拒否したために、経基らは兵を繰り出して武芝の郡家を襲い、略奪を行<う>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%B5%8C%E5%9F%BA
という、期待通りの、彼の素であるところの粗暴な行動をとり、これが引き金となって、その後紆余曲折はありつつも935年に平将門の乱が起こり、それが藤原純友の乱を呼び起こし、承平天慶の乱(~941年)
https://kotobank.jp/word/%E6%89%BF%E5%B9%B3%E3%83%BB%E5%A4%A9%E6%85%B6%E3%81%AE%E4%B9%B1-79809
https://kotobank.jp/word/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%B4%94%E5%8F%8B%E3%81%AE%E4%B9%B1-865678
となった、と見るわけだ。
 そんな人物やその子孫が武家の棟梁が務まるかという懸念は誰も持たなかったのではないか。
 武家の棟梁ないしその候補と目される人物に対しては、貴族や地方名望家が競って自分達のえりすぐりの女子を娶らせようとするであろうから、粗暴ではあってもそれが代を重ねるにつれて、次第に「洗練された」粗暴さへと陶冶されていくだろう、と。
 とまれ、宇多天皇の苦労を傍で見続け、自らも、宇多上皇の指示を受け、宇多の他界後、武士創出計画を概成した醍醐天皇は、貴族及び創出途上の武士達等、広義の武士創出関係者達向けの情宣公文書的なものの必要性を痛感し、桓武天皇構想中の武士創出計画を紀貫之に開示し、『竹取物語』を執筆させ、その後、しばらく経って、今度は、桓武天皇構想中の、創出された武士の縄文性の回復・維持手法を仏教界が見出すまでの間、そして見出してからもそれを補完するため、に和歌を用いられないかと考え、これもまた、(そもそも歌人であることが最大のウリであったところの、)紀貫之に命じて『古今和歌集』を編纂させた、と。


[源経基の嫡男・源満仲]

 912?~997年。「経基の嫡男。多田源氏の祖<。>・・・
960年・・・平将門の子が入京したとの噂があり、検非違使や大蔵春実らと共にこの捜索を命じられた武士の一人として現れたのが史料上の初見。武蔵権守の任期を終えていた・・・961年・・・に満仲の邸宅が強盗に襲撃される事件が起こり、自ら強盗の一味であった倉橋弘重を捕らえた。弘重の供述によれば醍醐天皇の皇孫親繁王<(注45)>と清和天皇の皇孫源蕃基<(注46)>がそれぞれ主犯と共犯であったという。

 (注45)式明親王の次男。
 式明親王(907~967年)。「大宰帥・中務卿<、>・・・中務卿。・・・961年・・・次男の親繁王が前武蔵権守・源満仲の邸宅に強盗に押し入る。満仲の訴えを受けた検非違使から事の次第を伝えられ親繁の引き渡しを求められるが、式明親王は「親繁は邸内にいるが重い痢病を患って起居に堪えない。回復すれば引き渡す」旨を上申する。しかし、宣旨により官人が派遣されて式明親王は家宅捜査を受けたが、親繁を始め一味は逃亡済であった。捜索の手は他の皇族にまで及び、成子内親王の邸宅にて一味の一人である紀近輔がようやく捕らえられたが、親繁王の行方は知れなかった。結局、式明親王は親繁王を引き渡さず、悪事をいい加減に取り扱ったとして罰せられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%8F%E6%98%8E%E8%A6%AA%E7%8E%8B
 (注46)貞真親王の長男。
https://www.weblio.jp/wkpja/content/%E6%B8%85%E5%92%8C%E6%BA%90%E6%B0%8F_%E7%B3%BB%E8%AD%9C
 貞真親王(876~932年)。兵部卿、常陸太守。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%9E%E7%9C%9F%E8%A6%AA%E7%8E%8B

⇒清和天皇の孫なら粗暴でも不思議ではないし、醍醐天皇の孫は武士創出の時代にかぶれたといったところか。(太田)

 左馬助在任時の・・・965年・・・に、多公高・播磨貞理らと共に村上天皇の鷹飼に任ぜられる。
 ・・・967年・・・に村上天皇が崩御すると、藤原千晴と共に伊勢国に派遣される固関使に命ぜられるが、離京することを嫌った双方が辞退を申し出たが、満仲のみ病による辞退を許された。

⇒満仲は、事実上、朝廷の赴任命令を拒否し、それが通ってしまったのだから、満仲が、将来武家棟梁となると知る人ぞ知る清和源氏の嫡流としての権威に加えて、既に彼に臣従する武士達を多数配下に組織していてその武力が恐れられる存在になっていたことが推察される。(太田)

 安和2年(969年)の安和の変では、源連らによる皇太子・守平親王(のち円融天皇)廃太子の謀反があると密告して事件の端緒をつくった。
 この事件で左大臣・源高明が失脚したが、満仲は高明の一派であり、これを裏切り密告したとの噂がある。

⇒満仲は、父の経基ほどではないけれど、やはりワルだったわけだ。(太田)

 また、この事件で満仲の三弟・満季が対立する有力武士・藤原千晴の一族を追捕している。満仲は密告の恩賞により正五位下に昇進した。
 藤原摂関家に仕えて、摂津国・越後国・越前国・伊予国・陸奥国などの受領を歴任し、左馬権頭・治部大輔を経て鎮守府将軍に至る。こうした官職に就くことによって莫大な富を得た満仲は他の武士からの嫉妬を受けたらしく、・・・973年・・・には武装した集団に左京一条にあった自邸を襲撃、放火されるという事件が起きている。この事件による火災は周辺の建物300軒から500軒にまで延焼したという。また、この事件でも同日中に三弟満季が嫌疑人を捕らえているが、実行犯については明らかでない。
 二度国司を務めた摂津に土着。摂津住吉郡の住吉大社に参籠した時の神託により、多田盆地に入部、所領として開拓すると共に、多くの郎党を養い武士団を形成した。・・・
 また・・・986年・・・に起きた花山天皇退位事件に際し、花山天皇を宮中から連れ出した藤原道兼を警護した「なにがしといふいみじき源氏の武者たち」とは、満仲の一族であったと考えられている。この政変後、満仲と主従関係にあったとみられる藤原兼家は一条天皇の摂政に就任した。

⇒魚心あれば水心、藤原氏北家主流とこの武家棟梁格とが早くも手を結んでいたらしい。(太田)

 翌・・・987年・・・多田の邸宅において郎党16人及び女房30余人と共に出家して満慶と称し、多田新発意(しんぼち)とよばれた。この出家について、藤原実資は日記『小右記』に「殺生放逸の者が菩薩心を起こして出家した」と記している。また『今昔物語集』には満仲の末子で延暦寺の僧となっていた源賢が父の殺生を悲しみ、天台座主院源と仏法を満仲に説き出家させたという説話がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%BA%80%E4%BB%B2

⇒ジャンプの主を「仏僧」清和天皇の「清和」源氏にしたことの効能が早くも顕れた、と言えるのかも。(太田)

  妻:源俊<(注47)>の娘
    藤原致忠<(注48)>の娘
    藤原元方<(注49)>の娘

 (注47)?~?年。「嵯峨源氏、大納言・源定の孫で、右大弁・源唱の次男。官位は従四位上・近江守。・・・939年・・・武蔵介・源経基が平将門・興世王・武蔵武芝の謀叛を訴えたことに関連して、俊は事件の究明に当たるために武蔵国密告使長官となる。しかし、翌天慶3年(940年)正月に罪を得て官位を剥奪された。
 天慶4年(941年)12月に恩赦により罪を赦され、天慶5年(942年)3月に右衛門権佐、同年閏3月に従五位上に叙任されて、以前の官位に復した。その後、権右少弁を兼ね、天慶9年(946年)村上天皇が即位すると五位蔵人にも補せられ、三事兼帯となった。
 のち、山城守を経て、・・・951年・・・右中弁に任ぜられると、・・・954年・・・左中弁と村上朝中期は弁官を務める一方、春宮・憲平親王の春宮亮も兼ねている。その後、近江守として地方官に転じ、位階は従四位上に至る。・・・
 は源満仲(多田満仲)の室となり、源頼光、頼平、源賢の生母となり多くの子孫を残した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E4%BF%8A
 (注48)?~?年。「藤原南家・・・藤原元方の子。・・・一条朝初頭の・・・987年・・・には任務に就かなかったとして、右京大夫の官職を止められている。・・・988年・・・盗賊の首領であるとして、息子の保輔に対する追捕宣旨が出された際、父親である致忠も拘禁された。・・・999年・・・橘惟頼及びその郎等を殺害した罪で惟頼の父の橘輔政に訴えられ佐渡国に流された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%87%B4%E5%BF%A0
 (注49)888~953年。「藤原南家・・・藤原菅根の次男。・・・娘の祐姫が村上天皇の更衣となり、・・・950年・・・に第一皇子・広平親王を生んだことから重用され、・・・951年・・・には正三位・大納言に進み、左右大臣に並んでいた藤原実頼・師輔兄弟、その従兄弟の大納言・藤原顕忠に次ぐ地位に昇る。しかし、広平親王と同い年で、藤原師輔の娘である中宮・安子所生の第二皇子・憲平親王(冷泉天皇)が、師輔の権勢により生後2ヶ月で皇太子に立てられ、広平親王の将来は閉ざされた。このことに対し元方は深く失望し、その余り病を得て悶死したとされる。・・・最終官位は大納言正三位兼民部卿。
 後代、元方は怨霊となって師輔や冷泉天皇、さらにはその子孫にまで祟ったと噂された。とりわけ、冷泉天皇の精神病や三条天皇の眼病の際には、その影響が人々に意識されたという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%85%83%E6%96%B9

  娘:藤原頼親<(注50)>室
    源敦室
    藤原道綱<(注51)>室
    藤原惟成室?
    藤原仲光の嫡男藤原仲義室?
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%BA%80%E4%BB%B2

 (注50)972~1010年。兼家(摂政・関白・太政大臣)-道隆(摂政・関白)-頼親
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%A0%BC%E8%A6%AA 等
 (注51)955~1020年。「正妻腹の異母兄弟である道隆・道兼・道長らに比べて昇進は大きく遅れた。・・・異母弟の道長とは親しかった(妻同士が姉妹で相婿)こともあって、・・・995年・・・道長が執政となると、その権勢の恩恵を受け、・・・996年・・・中納言、・・・997年・・・大納言と急速に昇進した。一方で、異母兄・道隆の娘を室とし、嫡男・兼経が道隆の四男・隆家の娘婿であったことから、道長との不仲を噂されることもあったという。
 <源満仲の子の頼光の娘も室とている。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%81%93%E7%B6%B1

⇒満仲の妻3人の父親は、いずれ劣らぬ曲者揃いだったが、満仲の女子達の嫁入り先はなかなかのものだ。

 全般的に、藤原氏北家本流の暗黙の指示の下、藤原氏全体が、清和源氏を盛り立てようとしたことが見て取れよう。(太田)


4 平安時代初中期の内憂外患

(1)始めに

 今度は、以上の話の中に出てきたところの、表記そのものを、武士創出計画との関わりにおいて振り返ってみたい気持ちになった。

 凡例:

  内憂
https://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E5%B9%B3%E5%AE%89%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E4%BA%8B%E4%BB%B6 ☆
  外患A
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AB%E5%AF%BE%E3%81%99%E3%82%8B%E4%BE%B5%E6%94%BB%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7 ★
  外患B
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%80%E4%BC%8A%E3%81%AE%E5%85%A5%E5%AF%87 ※

(2)内憂

ア 伊予親王の変(807年)

 表記については次の通り。↓

 「桓武天皇の第三皇子である伊予親王は父桓武の生前深い寵愛を受けていた一方、外伯父(母吉子の兄)の藤原雄友は大納言として右大臣・藤原内麻呂に次ぐ台閣の次席の位置にあり、政治的にも有力な地位にあった。実際に、平城朝においても、806年・・・から中務卿兼大宰帥を務めて、皇族の重鎮となっていた。兄の平城天皇とも良好な関係を保って<いた>・・・。
 ところが、同年10月に藤原宗成が伊予親王に謀反を勧めているという情報を藤原雄友が察知し、これを右大臣・藤原内麻呂に報告する。一方、伊予親王も宗成に唆された経緯を平城天皇に報告する。そこで朝廷が宗成を尋問した所、宗成は伊予親王こそ謀反の首謀者だと自白した。この自白を聞いた平城天皇は激怒し、左近衛中将・安倍兄雄と左兵衛督・巨勢野足に命じて、藤原吉子・伊予親王母子を捕縛し川原寺に幽閉した。二人は身の潔白を主張したが聞き入れられず、11月12日にそろって毒を飲んで心中したという。
 この事件で藤原宗成は流刑となり、伊予親王の外戚にあたる藤原雄友も連座して伊予国へ流罪に処された。また、この事件のあおりを受けて中納言・藤原乙叡が解任された。この事件により大官が2人も罰せられた藤原南家の勢力が大幅に後退した。・・・
 事件の3年後に発生した薬子の変で、藤原仲成は藤原吉子・伊予親王母子を陥れた容疑で有罪とされて処刑されている。
 ・・・823年・・・に藤原吉子・伊予親王母子の無罪が認められて復号・復位が行われ、墓は山陵とされた。
 貞観5年(863年)、平安京の神泉苑において無実の罪で殺された人々の魂を慰める御霊会が開催され、藤原吉子・伊予親王母子と母子を追い落としたとされる藤原仲成が共に慰霊の対象とされている。仲成は藤原吉子・伊予親王母子を陥れた罪では有罪とされたものの、妹の薬子のように国政を乱したとまでは認定されなかったために、処刑は不当に重い刑罰であると判断されたと推測されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E4%BA%88%E8%A6%AA%E7%8E%8B%E3%81%AE%E5%A4%89

 (伊予親王の変関連系図)

                            |-永手-家依(いえより)-三起-宗成   --真夏

藤原房前(ふささき)————–真楯(またて)—-内麻呂※——–|-冬嗣
 (藤原北家祖)2
                |-豊成————–継縄(つぐただ)-乙叡(たかとし)
|
|          ※
| |-雄友(おとも)
藤原武智麻呂-乙麻呂(おとまろ)—是公(これきみ)–良子
 (藤原南家祖)1         ※        ||-伊予親王2
桓武天皇
||-平城天皇1=====||
                          ||-嵯峨天皇3 ||
藤原宇合(うまかい)————|-良継————–乙牟漏(おとむろ)||
(藤原式家祖)3 | ||
|-清成——-種継-|-仲成 ||
     -薬子==============||

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%B0%B8%E6%89%8B
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%B6%E4%BE%9D
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%B0%B8%E6%89%8B
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%86%85%E9%BA%BB%E5%91%82
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%9C%9F%E6%A5%AF
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%90%89%E5%AD%90
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%98%AF%E5%85%AC
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%B9%99%E9%BA%BB%E5%91%82
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%AD%A6%E6%99%BA%E9%BA%BB%E5%91%82
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%B9%99%E5%8F%A1
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%B6%99%E7%B8%84
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%B1%8A%E6%88%90
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%9B%84%E5%8F%8B
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%B9%99%E7%89%9F%E6%BC%8F
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%89%AF%E7%B6%99
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BB%B2%E6%88%90
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%A8%AE%E7%B6%99
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%B8%85%E6%88%90

 桓武天皇構想を立案したのは、当時、藤原氏主流だった南家の藤原是公だろう。↓

「藤原是公<(727~789年)は、>・・・皇太子・山部親王の春宮大夫も務めた。
 ・・・781年・・・春宮大夫として仕えた山部親王が即位(桓武天皇)すると天皇に重用され、さらに光仁朝以来の大官であった藤原魚名(左大臣)・大中臣清麻呂(右大臣)・石上宅嗣(大納言)・藤原田麻呂(右大臣)らが相次いで没したこともあり、急速に昇進を果たすことになる。同年正三位・中納言に叙任されて、同い年ながら10年近く早く参議となっていた同じ南家の藤原継縄に肩を並べ、翌・・・782年・・・継縄を越えて大納言に昇進する。・・・783年・・・には右大臣に任じられ、桓武朝に入ってわずか3年ほどで一介の参議から太政官の筆頭にまで昇り詰めた。・・・784年・・・従二位に至る。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%98%AF%E5%85%AC
 「<その子の>藤原雄友<(753~811年)は、>・・・806年・・・平城天皇の即位後、4月になって桓武朝で競うように昇進していた藤原北家の藤原内麻呂<(756~812年)>とともに大納言に昇進すると、まもなく右大臣・神王が没したことから雄友と内麻呂が平城朝初期の重臣として並び立つ。<雄友は正三位、>内麻呂は従三位であったことから、4月中は桓武天皇崩御の後誄を奉る際に後誄人を率いたり、太政官符の上卿となるなど、一時的に雄友は太政官の首班に立つ。早くも5月中旬には藤原内麻呂は正三位・右大臣に叙任されたために、雄友はその後塵を拝すことになる。雄友ではなく内麻呂が抜擢されたことについては、平城天皇との関係が微妙となっていた伊予親王(雄友の妹・吉子の子)の外伯父であった雄友を意図的に抑えたことが背景にあったと考えられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%9B%84%E5%8F%8B

 今度は、藤原氏の二番手だった北家の藤原内麻呂についてだ。↓

 「藤原内麻呂<(756~812年)は、>・・・桓武天皇が即位した・・・781年・・・従五位下に叙爵し、翌・・・782年・・・甲斐守に任ぜられる。内麻呂の最初の室で、当時桓武天皇の後宮で女孺<(注52)>を務めていた百済永継<(注53)>が、・・・785年・・・に皇子・良岑安世を儲けると、内麻呂は同年従五位上、・・・786年・・・正五位上と急速に昇進し、・・・787年・・・には従四位下に叙せられる。

 (注52)真夏、冬嗣、の母。「785年・・・皇子を儲けた。しかし、この皇子は母親の永継の身分が低かったためか親王宣下を受けられないまま長じ、良岑朝臣姓を賜与されて臣籍降下し良岑安世と名乗った。彼女自身も皇子を儲けたにもかかわらず、従七位下という低い位階で終わった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E6%B8%88%E6%B0%B8%E7%B6%99
 (注53)にょじゅ。「後宮において内侍司(ないしのつかさ)に属し、掃除や照明をともすなどの雑事に従事した下級女官。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E5%AD%BA

 内麻呂が、桓武天皇への自分の妻の差出しを行ったのは、それを行った凡庸な継縄(注54)が重用されるのを目の当たりにして、その真似をしたものとも思われるが、自分の妻の出自は継縄の妻の出自より遥かに低かったことに加えて、桓武天皇からの寵愛の程度も継縄の妻に比して遥かに低く、内麻呂の出世がそのおかげもあったとは言い難いのではないか。

 (注54)「藤原継縄<(つぐただ。727~796年)は、>・・・780年・・・2月に中納言に昇進する。3月になると陸奥国で蝦夷の族長であった伊治呰麻呂が反乱を起こし、按察使・紀広純を殺害したため(宝亀の乱)、これを鎮圧すべく継縄は征東大使に任ぜられた。しかし継縄は準備不足などを理由にして平城京から出発しようとせず、遂に大使を罷免されてしまった(後任大使は藤原小黒麻呂)。ただし特に叱責を受けたり左遷されるなどの処分は受けていない。・・・
 政治の実績の評判は聞こえなず才識もなかったが、・・・781年・・・桓武天皇が即位すると、同じ藤原南家の従兄弟・藤原是公が重用されるようになる。同年9月に2人は正三位・中納言となって肩を並べ、翌・・・782年・・・是公が先に大納言に昇進して官位面で後塵を拝することになった。・・・783年・・・には是公は右大臣に就任するが、後任の大納言には継縄が任ぜられ、藤原南家の公卿で太政官の首班・次席を占めた。妻の百済王明信が桓武天皇の後宮に入っていたことや、・・・785年・・・の藤原種継暗殺事件や桓武天皇の皇后藤原乙牟漏・夫人旅子の相次ぐ死により藤原式家の勢力が衰えたためか昇進も順調で、大宰帥・皇太子傅・中衛大将を経て、・・・789年・・・藤原是公の薨去により太政官の筆頭の地位に就き、・・・790年・・・右大臣に至った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%B6%99%E7%B8%84
 「百済王明信(?~815年)<は、>・・・乙叡<の母で、最終的には>・・・従二位。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E6%B8%88%E7%8E%8B%E6%98%8E%E4%BF%A1

 しかし、かかる経験を通じて縁戚関係の女性を利用して天皇家に影響力を及ぼす手法に目覚めたことが、内麻呂をして、天皇外戚化計画に乗り出させた要因の一つだった可能性が高い。
 そして、後述の要因も加わり、それが、やがて、(藤原北家主流が摂関を独占する形の)摂関制の成立へと繋がっていくことになる、とも。(太田)

 なお、この急速な昇進の背景として、百済永継を担保として内麻呂が桓武天皇の関係を深めた可能性を指摘する意見もある。

⇒だから、そうは考えない。(太田)

 この間、右衛士佐・中衛少将といった武官を務める。
 のち、右衛士督・内蔵頭・刑部卿を歴任し、・・・794年・・・平安京への遷都の直後に、参議として公卿に列する。参議任官時、台閣では藤原南家の参議・乙叡(34歳)に次ぐ若さ(39歳)であったが、まもなく右大臣・藤原継縄や大納言・紀古佐美といった大官や、上席の参議であった大中臣諸魚・石川真守の薨去・致仕もあり、・・・798年・・・従三位・中納言に昇進する。この間、陰陽頭・但馬守・造東大寺長官・近衛大将を兼帯。・・・799年・・・には造宮大夫に任ぜられ平安京遷都の責任者も務めた。
 桓武朝において内麻呂は後の蔵人所の前身ともいうべき勅使所の指導的官人であったと見られる事や、・・・805年・・・12月に藤原緒嗣と菅野真道の間で議論されたいわゆる「徳政相論」において、前殿で桓武天皇の側に侍していた事から見て、桓武天皇の重要な側近であったらしい。しかし桓武朝ではあくまでも、藤原雄友や藤原乙叡ら数多い側近の一人に過ぎず、初期の藤原種継や末期の藤原緒嗣程の寵臣ではなく、政治的影響力には限界があったと想定される。
 ・・・806年・・・平城天皇が即位すると、同年4月に桓武朝で競うように昇進しつつも常に官位で後塵を拝していた藤原雄友と同時に大納言に昇進する。さらに右大臣・神王の薨御を受けて、同年5月には正三位・右大臣に叙任され、遂に藤原雄友を越えて台閣の首座を占めた。

⇒私は、内麻呂は、藤原氏の二番手の北家の人間で、かつ、藤原氏の同時代人達の中で突出して有能だったので、出世ができた、と見ている次第だ。
 で、この時点で、内麻呂は、北家の人間としては初めて、平城天皇/藤原雄友、から、桓武天皇構想を開示され、同構想の漏洩を防ぐため、自分の子孫が、一系統維持に極力努めつつ、常に台閣の首座を占め続けなければならないし、同じ理由から、天皇家についても一系統維持状態になることが望ましい、と、考えた、と、私は想像するに至っている。
 ところが、第一に、中央集権国家を解体して封建社会化する過程で、朝廷直轄軍が形骸化する一方で武士がまだ弱体な時期が続くところに外患があっては、白村江の後の悲劇が繰り返されかねないことから、桓武天皇構想は絶対に、とりわけ、外国に洩れてはならないというのに、復活天智朝の天皇家にも藤原氏の一番手の南家にも二番手の北家にも外国系勢力が入り込んでいる。
 (桓武天皇の母親の高野新傘は百済の武寧王の子孫と称している
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%87%8E%E6%96%B0%E7%AC%A0
し、前述したように、南家主流の継縄も北家主流の自分(内麻呂)も、その元正妻で嫡男を産んだ女子は百済系で、その二人の元正妻は桓武天皇の后になっている!)
 そして、第二に、天皇家は、一系統維持へのこだわりがないし、自分達の藤原氏も、三つの家が競っている上、それぞれの家でも一系統維持へのこだわりはさほど強くない、ことから、桓武天皇構想が開示される人物の数、ひいては、同構想漏洩の可能性、が幾何級数的に増えていくことになろう。
 以上を踏まえ、まず、藤原氏について、南家も自分の北家も、また、式家も、長男系よりも次男系の方が隆盛状態となったことから、藤原氏の次男系である北家が主流家になっても不思議はない、と、自らに言い聞かせ、籠絡済みの平城天皇を利用しつつ、式家の伊予親王の変(807年)で式家と結託した形で、南家を失墜させ、その巻き添えにさせて、北家の長男系も失墜させることに成功した、と見る。
 (漏洩防止を徹底するのであれば、天皇家だけが桓武天皇構想を代々口伝して行けば一番よいわけだが、武士達の間で主従関係のネットワークを構築するためには、最初から従者側の者達と主人側の者達を創出しなければならず、だからこそ、桓武天皇構想では、藤原氏が自分達の中から従者側の武士の卵を地方に送り出すところの、ホップ、を担当することになったわけだし、そもそも、本件に限らず、失態が生じた時に、責めを臣下が負い、天皇に累が及ばないようにすることが望ましい、とも、内麻呂は考えたはずだ。)(太田)

 この人事については、平城天皇との関係が微妙な伊予親王の外戚であった雄友ではなく、長男・真夏を春宮坊の官人として皇太子時代から平城天皇に接近させていた内麻呂を首班として据えたい平城天皇の意志によるものと想定されている。また、同年8月に侍従を兼任しているが、それまで内麻呂のような太政官の首班が兼任した前例はない。これは、平城天皇との関係の一層の緊密化を図る内麻呂からの申し出で実現したと見られ、天皇と姻戚関係がないまま首班となった内麻呂は、侍従を兼任して近侍することで天皇の後見的な立場を得て、立場の安定化を図ったものと考えられる。
 ・・・807年・・・に発生した伊予親王事件では、藤原雄友からいち早く事情(藤原宗成が伊予親王に謀反を勧めている事)を知るものの、平城天皇を諫める等の対応を取らず状況を静観する。結局、雄友は流罪となって失脚し、結果的に内麻呂の政治的影響力はさらに伸長する事となった。こうして内麻呂は平城天皇の信任を背景に権力を握っていたが、一方で皇太子の神野親王(後の嵯峨天皇)に対しても、次男の冬嗣を春宮坊の官人として送り込み、さらに娘の緒夏を入内させる等、密接な関係を築いていた。
 内麻呂が右大臣に昇進して以降、平城朝で発行された太政官符は66件あるが、不明の6件を除く60件全てで内麻呂が符宣上卿となっており、平城朝においては平城天皇と内麻呂が主導する体制で政治が進められていたと見られる。また、・・・806年・・・に食封1000戸の加封がなされていること、さらに当時三位以上の公卿全員に浅紫の朝服の着用が義務づけられていたところ、・・・809年・・・には内麻呂のみ中紫の朝服の着用が許されていることから、内麻呂に対する平城天皇の信頼の厚さが窺われる。・・・809年・・・正月に従二位に叙せられた。
 ・・・809年・・・5月に嵯峨天皇が即位するが、皇太子時代から関係を深めていた天皇の信任を元に引き続き政権を主導する。同年12月に平城上皇が平城宮へ移動すると、翌・・・810年・・・3月に蔵人頭が設置される。蔵人頭の職掌は奏請(臣下の言葉を天皇に奏上)と伝宣(天皇の言葉を臣下に伝達)だが、これはこれまで内侍の職掌であったことから、その設置は平城上皇と尚侍・藤原薬子の行動を掣肘する意味合いが強かった。ここで蔵人頭に任ぜられたのが藤原冬嗣(と巨勢野足)であったことから、設置は内麻呂の発案によるものと想定される。蔵人頭の設置により、嵯峨天皇と平城上皇の関係が急速に悪化する中、内麻呂は引き続き嵯峨天皇の重臣として行動するが、長男の真夏が平城上皇の側近として活動した事は黙認したらしい。これについては、同年末から翌年夏頃にかけて嵯峨天皇が体調不良に陥っており、万一、嵯峨天皇が崩御して皇太子の高岳親王(平城天皇皇子)が即位し平城上皇の政治的影響力が飛躍的増大するという事態に備えたものとする意見がある。
 同年9月に発生した薬子の変では、坂上田村麻呂(内麻呂の義兄弟)らの迅速な軍事行動により嵯峨天皇方が圧勝するが、嵯峨天皇の病状回復が十分でない中、嵯峨天皇側の軍事活動は内麻呂と田村麻呂の緊密な連携により実現された可能性が高く、変において内麻呂が果たした役割は極めて大きかったと考えられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%86%85%E9%BA%BB%E5%91%82

 イ 薬子の変(くすこのへん。810年)

 表記については次の通り。↓

 「810年・・・に故桓武天皇皇子である平城上皇と嵯峨天皇が対立するが、嵯峨天皇側が迅速に兵を動かしたことによって、平城上皇が出家して決着する。平城上皇の愛妾の尚侍・藤原薬子や、その兄である参議・藤原仲成<・・どちらも藤原式家の人間・・>らが処罰された。
 なお名称について、かつては藤原薬子らが中心となって乱を起こしたものと考えられており、「薬子の変」という名称が一般的であった。しかし、律令制下の太上天皇制度が王権を分掌していることに起因して事件が発生した、という評価がなされるようになり、2003年頃から一部の高等学校用教科書では「平城太上天皇の変」という表現がなされている。また、「薬子の変」と呼ばれるのは、嵯峨天皇が平城上皇に配慮したためだという指摘もある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%AC%E5%AD%90%E3%81%AE%E5%A4%89

 「薬子の変では、坂上田村麻呂(内麻呂の義兄弟)らの迅速な軍事行動により嵯峨天皇方が圧勝するが、嵯峨天皇の病状回復が十分でない中、嵯峨天皇側の軍事活動は内麻呂と田村麻呂の緊密な連携により実現された可能性が高く、変において内麻呂が果たした役割は極めて大きかったと考えられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%86%85%E9%BA%BB%E5%91%82 前掲
というわけで、藤原内麻呂は、藤原式家の失墜にも成功し、その翌々年の812年に、右大臣従二位、台閣の首座、のまま薨御(こうぎょ)する。(上掲)
 なお、「内麻呂の長男<の>・・・藤原真夏<(774~830年)は、>・・・薬子の変では当初平城宮にいたが、事件が明るみに出ると文室綿麻呂とともに平安京に召喚される。これは、嵯峨天皇側による平城上皇側の状況の確認および嵯峨側への寝返りを促すことが目的であったとみられ、綿麻呂は坂上田村麻呂からの申し出もあって平城追討軍として出陣した。しかし、真夏は翻意せず平城への忠誠心を保持し続けたらしく、東国に向かう平城らと行動を共にしなかったものの、事件に連座して参議を解官の上、伊豆権守のち備中権守に左遷され<、>・・・812年・・・罪を赦されて本官(備中権守)に復帰<するが、>・・・弟・冬嗣の急速な昇進を横目に真夏の昇進は遅滞し、・・・821年・・・冬嗣が右大臣に昇ると、翌・・・822年・・・真夏は12年振りに昇叙されて従三位となりようやく公卿の座に復した<だけで、>・・・藤原北家の嫡流は弟である冬嗣の子孫に譲った」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%9C%9F%E5%A4%8F
ところだ。

 ウ 承和の変(じょうわのへん。842年)

 表記は次の通り。↓

 「823年・・・、嵯峨天皇は譲位し、弟の淳和天皇が即位した。ついで皇位は、833年・・・嵯峨上皇の皇子の仁明天皇に伝えられた。仁明天皇の皇太子には淳和上皇の皇子恒貞親王(母は嵯峨天皇の皇女正子内親王)が立てられた。嵯峨上皇による大家父長的支配のもと30年近く政治は安定し、皇位継承に関する紛争は起こらなかった。
 この間に藤原北家の藤原良房が嵯峨上皇と皇太后橘嘉智子(檀林皇太后)の信任を得て急速に台頭し始めていた。良房の妹順子が仁明天皇の中宮となり、その間に道康親王(後の文徳天皇)が生まれた。良房は道康親王の皇位継承を望んだ。道康親王を皇太子に擁立する動きがあることに不安を感じた恒貞親王と父親の淳和上皇は、しばしば皇太子辞退を奏請するが、その都度、嵯峨上皇に慰留されていた。
 840年・・・、淳和上皇が崩御する。2年後の842年・・・7月には、嵯峨上皇も重い病に伏した。これに危機感を持ったのが皇太子に仕える春宮坊帯刀舎人伴健岑とその盟友但馬権守橘逸勢である。彼らは皇太子の身に危険が迫っていると察し、皇太子を東国へ移すことを画策し、その計画を阿保親王(平城天皇の皇子)に相談した。阿保親王はこれに与せずに、逸勢の従姉妹でもある檀林皇太后に健岑らの策謀を密書にて上告した。皇太后は事の重大さに驚き中納言良房に相談した。当然ながら良房は仁明天皇へと上告した。
 7月15日、嵯峨上皇が崩御。その2日後の17日、仁明天皇は伴健岑と橘逸勢、その一味とみなされるものを逮捕し、六衛府に命じて京の警備を厳戒させた。皇太子は直ちに辞表を天皇に奉ったが、皇太子には罪はないものとして一旦は慰留される。しかし、23日になり政局は大きく変わり、左近衛少将藤原良相(良房の弟)が近衛府の兵を率いて皇太子の座所を包囲。出仕していた大納言藤原愛発、中納言藤原吉野、参議文室秋津を捕らえた。仁明天皇は詔を発して伴健岑、橘逸勢らを謀反人と断じ、恒貞親王は事件とは無関係としながらも責任を取らせるために皇太子を廃した。藤原愛発は京外追放、藤原吉野は大宰員外帥、文室秋津は出雲員外守にそれぞれ左遷、伴健岑は隠岐(その後出雲国へ左遷)、橘逸勢は伊豆に流罪(護送途中、遠江国板築にて没)となった。また、春澄善縄ら恒貞親王に仕える東宮職・春宮坊の役人が多数処分を受けた。
 事件後、藤原良房は大納言に昇進し、道康親王が皇太子に立てられた。
 通説において、承和の変は藤原氏による他氏排斥事件の初めで、良房の望みどおり道康親王が皇太子に立てられたばかりでなく、名族伴氏(大伴氏)と橘氏に打撃を与え、また同じ藤原氏の競争相手であった藤原愛発、藤原吉野をも失脚させたとされている。承和の変の意味は、桓武天皇の遺志に遠因をもつ、嵯峨、淳和による兄弟王朝の迭立を解消し、嵯峨-仁明-文徳の直系王統を成立させたという点も挙げられる。また良房は、この事件を機にその権力を確立し昇進を重ね、遂に人臣最初の摂政・太政大臣までのぼり、藤原氏繁栄の基礎を築いた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%BF%E5%92%8C%E3%81%AE%E5%A4%89

 北家の愛発は良房の弟だったが、式家の吉野の位置付けは下掲の通り。↓

 (承和の変関連系図)

             |-良継※------女子---|         
             |-清成               |

藤原宇合(式家)-|-蔵下麻呂-綱継-吉野 |-旅子(母は良継の女子)
         |-百川—————| ||
||-淳和天皇3-恒貞親王(嵯峨/橘の孫)
||  沢子(注55)
|| 橘嘉智子 ||
桓武天皇 || ||–光孝天皇8-宇多天皇9
|| || ||
|| ||—仁明天皇4↓
||-嵯峨天皇2 ||
||-平城天皇1 ||–文徳天皇5-清和天皇6
良継※—————乙牟漏 || ||    ↓
|| ||  陽成天皇7
|-順子 ||
藤原冬嗣(北家)–|-良房-明子
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%90%89%E9%87%8E
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%B6%B1%E7%B6%99
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%94%B5%E4%B8%8B%E9%BA%BB%E5%91%82
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%87%E5%90%88
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%99%BE%E5%B7%9D
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%97%85%E5%AD%90
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%B9%99%E7%89%9F%E6%BC%8F
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E5%AD%9D%E5%A4%A9%E7%9A%87
 (注55)「姉妹の乙春は藤原長良室となり、基経および高子を産む。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%B2%A2%E5%AD%90
 魚名(房前の子。永手、真楯、の弟)-末茂-総継-沢子
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%B7%8F%E7%B6%99
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%9C%AB%E8%8C%82
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%AD%9A%E5%90%8D

 恒貞親王(825~884年)の妃は、藤原愛発の娘、と、藤原是雄の娘、であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%92%E8%B2%9E%E8%A6%AA%E7%8E%8B
愛発は、北家の内麻呂の七男または八男、つまりは、冬嗣の弟である、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%84%9B%E7%99%BA
是雄は、北家の真夏の子、つまりは、冬嗣の甥
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%98%AF%E9%9B%84
だから、藤原北家主流からすれば、その限りにおいては、恒貞親王でもよかったわけだが、それでも、北家本流としては、冬嗣自身の娘を送り込んである後の仁明天皇や、同天皇の子で、冬嗣の嫡男の芳次の娘を送り込んである後の文徳天皇に天皇家を継がせた方が望ましいし、そうすれば、天皇家の継承も一系統維持が慣例化することに繋がる、と考えたのではなかろうか。
 そのために、北家本流は、没落気味であった藤原式家に最後のとどめを刺した、と。
 なお、伴(大伴)氏や(既に没落していたと言っても良い)橘氏は、今回の謀略の対象ではなく、結果として若干の巻き添えを食った、ということではないか。

 エ 善愷訴訟事件(ぜんがいそしょうじけん。845~846年)

 表記については、当時の官僚達の法素養の高さが窺われて興味深い事件だが、中身には立ち入らない。
 とまれ、「この事件は・・・842年・・・に起きた承和の変の延長と捉えられ、同事件で行われた藤原良房を中心とする藤原北家による伴氏・橘氏の排斥に対する伴善男の反撃とする見解があり、これは正躬王と和気真綱が承和の変の際の取調を行ったことと絡めて重要視され、これが後の応天門の変に続く布石とする見方が有力ではある。だが、承和の変を他氏排斥よりも皇位継承を巡る政変としての側面を重視する見解に立つと、両氏の伴氏・橘氏の嫡流である伴善男・橘氏公らは承和の変後も順調に出世していることや、承和の変の結果、善男が側近として仕える仁明天皇・藤原順子所生の道康親王(文徳天皇)が立太子されたことで彼もまた出世の機会を得ていることなど、承和の変を巡って善男が藤原良房や正躬王と対立する必要性は低いとされている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%84%E6%84%B7%E8%A8%B4%E8%A8%9F%E4%BA%8B%E4%BB%B6
ということが、私の承和の変についての最後の一文の根拠だ。
 本筋から離れるが、上掲を読むと、これだけ、法的に厳密、厳格な行政が行われていた以上、班田制
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%AD%E7%94%B0%E5%8F%8E%E6%8E%88%E6%B3%95
がなし崩し的に荘園制に変貌して行ったなんてありえないことが分かる。
 だから、日本じゃあ、最初から現在まで、ずっと私有地が基本でそれが若干の公有地と若干の(山村地域社会における)総有制と併存して推移してたんであって、班田制なんて絵に描いた餅・・私有地を班田と認定して班田収授は行わなかった(上掲の深読み)・・だと「制定」された時からみんなが知ってたってことになると言ってよいのではないか。 

 オ 応天門の変(866年)

 表記については次の通り。↓

 「清和天皇<の時、>・・・大伴氏(伴氏)が造営した・・・応天門が放火され、大納言・伴善男は左大臣・源信・・・が伴氏を呪って火をつけたもの・・・であると告発したが、太政大臣・藤原良房の進言により無罪となった。その後、密告があり伴善男父子に嫌疑がかけられ、有罪となり流刑に処された。これにより、古代からの名族伴氏(大伴氏)は没落した。藤原氏による他氏排斥事件のひとつとされている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E5%A4%A9%E9%96%80%E3%81%AE%E5%A4%89
と、藤原北家主流は、伴氏の没落に成功したわけだ。
 これは、藤原氏、というか、藤原氏北家本流に対抗する存在に理論的になりうる氏を没落させたということであって、伴氏が、現実に対抗する存在になりえたとは考えにくい。
 よって、伴氏のオウンゴールと見たい。

 カ 元慶の乱(がんぎょうのらん。878年)

 表記については次の通り。↓

 「出羽国の夷俘<(注56)>が朝廷の苛政に対して蜂起して秋田城を襲ったもので、官軍は苦戦し鎮圧は難航したが、朝廷摂政・藤原基経は、能吏で知られた藤原保則、武人の小野春風らを起用し、藤原保則による寛政によって鎮撫して終息した。・・・

 (注56)いふ。「 奈良時代から平安初期にかけて、律令国家に対する順化の程度によって、蝦夷を区別した呼称の一つ。俘囚(ふしゅう)よりも未順化のものをさす。ただし、平安後期には両者の区別は不分明となった。」
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%B7%E4%BF%98-435584

 これは、朝廷の力が低下して坂上田村麻呂の時代のように武力によって夷俘を制圧できなくなっていたことも意味していた。夷俘は降伏したが朝廷による苛政をくつがえし、力を示したことで一定の成功を収めたと考えられる。・・・
 田牧久穂<(注57)>は・・・まず、広範囲の蝦夷をまとめて、自分たちの要求を朝廷側に文書にして提出するなど、反乱を指導した人物がいるはずであるが、この人物が朝廷側の多数の犠牲者[注釈 1]にもかかわらず彼らの名前が明確に記録されていないこと、また915年北東北に2000年来最大の自然災害である十和田湖火山の大噴火が起きるが、この噴火あるいはそれに続く広範囲の自然災害が全く文書で記述されていないことなどから、この元慶の乱は事実上蝦夷側の要求が通り、雄物川以北は蝦夷側の支配する地区となり、朝廷が手を出せなくなってしまったというのである。

 (注57)1934年~。秋田大学芸学部二部卒。「秋田県歴史教育者協議会会長、「北方風土社」会員」
http://www.mumyosha.co.jp/topics/bottom/writer.html

 同時期に仙北郡で極めて大規模な城柵として使われたのにもかかわらず、記録が全く残っていない払田柵跡にあった施設で中央から監視しに来た人を接待したのではないかとする説もある。いずれにせよ、全く記録に残っていない払田柵の存在は当時のこの地区の人が中央の管理とは別に比較的自由に行動できたことを示す。
 また『秋田県の不思議辞典』(野添憲治編、新人物往来社)によると、931年から938年頃に作られた『和名類聚抄』では、南から北へ日本の地名が並べられているが、日本海沿岸地方では、出羽国の秋田郡、率浦郷が最も北の地として地名が記録されており、それは現在の五城目町から八郎潟町の森山、高岡山、三倉鼻のラインで、これより北には地名の記述が無いとしている。このことは、上記のこととほぼ一致する。
 元慶の乱の記録は日本三代実録によるが、ところどころ記録が欠けていると記して略した箇所がある。これを誠実な態度の表れとみる者もいるが、その部分に編者が故意に隠した事実があるのではないかと疑う者もいる。
 元慶の乱が始まる直前に、秋田城の対北海道蝦夷の饗給の増大は、出羽国の財政を圧迫するまでに問題化していたという。また乱の収束後、元慶の乱時に国家側と対立した地域には、9世紀末から10世紀にかけて秋田十二林窯、青森五所川原窯などが相次いで出現した。これらは秋田城が独占していた対北海道蝦夷貿易がこの地区の新興階層の手に移行したことを示唆しているとする人もいる。また、製鉄所も能代地区を中心として出現した。そのため、蝦夷は鉄を朝廷側から得る必要も無かった。これは、貞観地震で被災した製鉄技術者が製鉄に有利な風を求めて移住したものとも考えられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E6%85%B6%E3%81%AE%E4%B9%B1

⇒武士創出計画が現在進行形だったことから、意図的に弱体化させていた律令制軍隊が、夷俘の蜂起ごときにすら、まともな対処ができなくなっていたことが分かる。(太田)

 キ 阿衡事件(887~888年)

 この事件については前述したので、ここでは省略する。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E8%A1%A1%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 ク 寛平・延喜東国の乱(889年)

 表記については次の通り。↓

 「東国で発生した群盗による乱。889年(寛平元年)、強盗首物部氏永(もののべのうじなが)等が蜂起し発生した。
 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%9B%E5%B9%B3%E3%83%BB%E5%BB%B6%E5%96%9C%E6%9D%B1%E5%9B%BD%E3%81%AE%E4%B9%B1

 ケ 昌泰の変(しょうたいのへん。901年)

 「901年(昌泰4年)1月、左大臣藤原時平の讒言により醍醐天皇が右大臣菅原道真を大宰員外帥として大宰府へ左遷し、道真の子供や右近衛中将源善らを左遷または流罪にした事件。・・・
 この政変を巡っては、道真の死後に起きた天変地異が道真の怨霊の仕業と考えられて(・・・清涼殿落雷事件)、道真の名誉回復とともに政変に関する資料が廃棄されたと考えられていること・・・などにより、真相については十分に明らかになっていない面が多い。
 ・・・道真と並んでこの時代の知の双璧と呼ばれ、ただし栄達はしていなかった学者の大蔵善行・・・の”門下生たち”こそが藤原時平派閥であり、大蔵一門と出世を争い、変で追放された人々は菅原道真門下生である。すなわち、大蔵一門と菅原一門の対立という図式も成立する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8C%E6%B3%B0%E3%81%AE%E5%A4%89
とか、「これについては道真の冤罪説が強いが、この事件当時の醍醐天皇には穏子所生を含めて男子はいなかったことが注目される。宇多法皇が<陽成天皇の第一皇子の>元良親王らを牽制するために、早い時期に次期皇位継承者を定めようとすれば当時男子のいなかった醍醐の弟の中で最年長者(第二皇子斉中親王は既に薨去)である第三皇子斉世親王<・・道真はその岳父・・>の立太子が有力視され、しかも『寛平御遺誡』には宇多上皇自らが醍醐天皇の立太子の際に道真にのみ意見を求めたことを記している。宇多法皇が斉世親王を立太子して皇位継承の安定化を図った場合、当然自己の子孫への直系継承を望む醍醐天皇とは対立が生じることになる。たとえ道真自身に斉世親王擁立の考えが無かったとしても、醍醐天皇からその疑惑を持たれる可能性は十分にあったのである。」(上掲)とか、「近年ではこの事件は天皇と時平による宇多上皇の政治力排除のための行動だったと考えられている。また同じ年に時平の妹・藤原穏子が女御として入内しており、後に中宮に立っていることからも、この事件はそれまで宇多上皇が採ってきた藤原氏を抑制する政策の転換という側面があったとも考えられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%8D%E9%86%90%E5%A4%A9%E7%9A%87 前掲
と、喧しいこと夥しいが、武士創出計画に係る天皇家と藤原氏北家本流の円滑な連携態勢が確立するとともに、同計画実施の目途もついたので、菅原道真の賞味期限が切れ、「多くの貴族層<が>・・・道真に反感を持ってい<た>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%85%E5%8E%9F%E9%81%93%E7%9C%9F
こともあり、宇多上皇の暗黙の了解の下で、醍醐天皇が藤原時平と謀議の上、道真をいささか荒っぽ過ぎるやり方で罷免することによって、斉世親王の後継レースからの排除に成功し、醍醐政権を安定させた、というのが私の見方だ。
 というのも、宇多が、「<道真>左遷・・・の知らせを受け<て>・・・急遽内裏に向かったが、宮門は固く閉ざされ、その中で道真の処分は決定してしまった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%A4%9A%E5%A4%A9%E7%9A%87 前掲
ということになってはいるけれど、その道真が太宰府で薨去するまでの2年間に、彼が道真のために動いた形跡が皆無である上、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%85%E5%8E%9F%E9%81%93%E7%9C%9F
宇多が、「晩年には病気がちの醍醐天皇に代わって、実際の政務をみていた可能性もあると考えられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%A4%9A%E5%A4%A9%E7%9A%87 前掲
くらい、宇多と醍醐の関係は一貫して良好だったようだからだ。

 コ 承平天慶の乱(935~941年)

 ・平将門の乱

 平将門に係る前半の私闘部分については省略する。
 「常陸国の住人の藤原玄明が将門に頼ってきた。この玄明は・・・受領と対立して租税を納めず、乱暴をはたらき、更に官物を強奪して国衙から追捕令が出されていた。常陸介藤原維幾は玄明の引渡しを将門に要求するが、将門は玄明を匿い応じなかった。

⇒きっかけは、ホップの真正藤原氏の藤原維幾と「ホップ」の仮冒藤原氏の一つの藤原玄明との間の私闘だったわけであり、それに平将門が巻き込まれた形だ。(太田)

 対立が高じて合戦になり、同年11月、将門は兵1000人を率いて出陣した。維幾は3000の兵を動員して迎え撃ったが、将門に撃破され、国府に逃げ帰った。将門は国府を包囲し、維幾は降伏して国府の印璽を差し出した。将門軍は国府とその周辺で略奪と乱暴のかぎりをつくした。将門のこれまでの戦いは、あくまで一族との「私闘」であったが、この事件により不本意ながらも朝廷に対して反旗を翻すかたちになってしまう。
 ・・・将門は軍を進め、同年12月、下野国、上野国の国府を占領、独自に除目を行い関東諸国の国司を任命した。さらに・・・将門は新皇を称するまでに至った。将門の勢いに恐れをなした諸国の受領を筆頭とする国司らは皆逃げ出し、武蔵国、相模国などの国々も従え、関東全域を手中に収めた。・・・
 将門謀反の報はただちに京にもたらされ、また同時期に西国で藤原純友の乱の報告もあり、朝廷は驚愕した。・・・翌天慶3年(940年)1月9日には先に将門謀反の<虚言>密告をした源経基が賞されて従五位下に叙された。1月19日には参議藤原忠文が征東大将軍に任じられ、追討軍が京を出立した。
 同年1月中旬、関東では、将門が兵5000を率いて常陸国へ出陣して、平貞盛と<真正藤原氏の>維幾の子為憲の行方を捜索している。・・・。将門は下総の本拠へ帰り、兵を本国へ帰還させた。
 間もなく、貞盛が下野国押領使の<仮冒藤原氏の>藤原秀郷と力をあわせて兵4000を集めているとの報告が入った。将門の手許には1000人足らずしか残っていなかったが、時を移しては不利になると考えて、2月1日に出陣する。貞盛と秀郷は<仮冒藤原氏の>藤原玄茂率いる将門軍の先鋒を撃破して下総国川口へ追撃して来た。合戦になるが、将門軍の勢いはふるわず、退却した。
 貞盛と秀郷はさらに兵を集めて、2月13日、将門の本拠石井に攻め寄せ火を放った。将門は兵を召集するが形勢が悪く集まらず、僅か兵400を率いて陣をしいた。貞盛と秀郷の軍に<真正藤原氏の>藤原為憲も加わり、翌2月14日、追討軍と将門の合戦がはじまった。南風が吹き荒れ(春一番)、将門軍は風を負って矢戦を優位に展開し、貞盛、秀郷、為憲の軍を撃破した。しかし将門が勝ち誇って自陣に引き上げる最中、急に風向きが変わり北風になると(寒の戻り)、風を負って勢いを得た追討軍は反撃に転じた。将門は自ら先頭に立ち奮戦するが、流れ矢が将門の額に当たり討死した。
 将門の死により、その関東独立国は僅か2ヶ月で瓦解した。残党が掃討され、将門の弟たちや・・・藤原玄明、藤原玄茂などは誅殺される。将門の首は京にもたらされ梟首とされた。将門を討った秀郷には従四位下、貞盛・為憲には従五位下にそれぞれ叙爵された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%BF%E5%B9%B3%E5%A4%A9%E6%85%B6%E3%81%AE%E4%B9%B1

⇒要するに、承平天慶の乱の平将門の部は、関東の、ホップの真正藤原氏、と、「ホップ」の仮冒藤原氏中の系図がない連中、との間の私闘、のそれぞれの側に、片やステップの桓武平氏の国香流の平貞盛及びホップの真正藤原氏並びに「ホップ」の仮冒藤原氏の系図をでっちあげた連中、片や、ステップの桓武平氏の良将流の平将門、が加勢し、公闘化となったものであると言えよう。
 但し、ステップの武士がホップの武士達を束ねる萌芽が見られることは興味深い。(太田)

 ・藤原純友の乱

 簡単に触れるにとどめる。
 「純友が武力と説得によって鎮圧した海賊は、朝廷の機構改革で人員削減された瀬戸内海一帯の富豪層出身の舎人たちが、税収の既得権を主張して運京租税の奪取を図っていたものであった。それに対して純友らの武装勢力は、海賊鎮圧後も治安維持のために土着させられていた、武芸に巧みな中級官人層である。彼らは親の世代の早世などによって保持する位階の上昇の機会を逸して京の貴族社会から脱落し、武功の勲功認定によって失地回復を図っていた者達であった。つまり、東国などの初期世代の武士とほぼ同じ立場の者達だったのである。しかし彼らは、自らの勲功がより高位の受領クラスの下級貴族に横取りされたり、それどころか受領として地方に赴任する彼らの搾取の対象となったりしたことで、任国の受領支配に不満を募らせていったのである。・・・
 <平将門の乱と藤原純友の乱>は、ほぼ同時期に起きたことから将門と純友が共謀して乱を起こしたと当時では噂され、恐れられた。・・・
 実際には、両者の共同謀議の痕跡はなく、むしろ自らの地位向上を目指しているうちに武装蜂起に追い込まれてしまった色合いが強い。二つの乱はたまたま同時期に起こり、東国で将門が叛乱を起こし、純友は西国で蜂起に至ったと考えられる。
 その一方で、将門に襲撃されて国司の印を奪われて逃げ出した上野介藤原尚範は純友の叔父(父親の実弟)にあたる人物である。このため、先行した将門の動きが尚範の親族であった純友に何らかの心理的影響を与えた可能性までは否定できないという考えもある。
 これらの乱は発生期の1世代目から3世代目にかけての武士が、乱を起こした側、及び鎮圧側の双方の当事者として深く関わっている。乱を起こした側としては、治安維持の任につく武芸の家の者としての勲功認定、待遇改善を目指す動きを条件闘争的にエスカレートさせていった結果として叛乱に至ってしまった面を持ち、また鎮圧側も、乱を鎮圧することでやはり自らの勲功認定、待遇改善を図った。結果として鎮圧側につくことでこれらの目的を達成しようとする者が雪崩的に増加し、叛乱的な条件闘争を図った側を圧倒して乱は終結した。」(上掲)

 サ 天慶の出羽俘囚の乱(938年)

 表記については次の通り。↓

 「8世紀末から9世紀にかけて軍団が廃止され、常置の国家正規軍がなくなり地方で治安維持のための健児の制度が主体となったが、地方の治安は悪化し、国衙の厳しい調庸取り立てに反抗した群盗の横行が全国的に常態化するようになっていた。特に東国では9世紀半ばから後半を通じて俘囚の反乱が相次ぎ、群盗の活動の活発化と相まって、治安悪化が顕著であった。朝廷はこれらの鎮圧のために軍事貴族層を国司として派遣するとともに、国衙に検非違使等を設置するなどの政策をとっていったが、群盗の活動は収まらず乱が発生したものである。
 寛平・延喜東国の乱の詳細は不明であるが、その鎮圧には10年余りかかったことが『扶桑略記』や『日本紀略』に記載されており、鎮圧後も、東国では「僦馬の党」の横行が顕著であるなど安定しなかった。
 これらの鎮圧過程で延喜年間に軍制の改革が進められ、国衙の軍事動員に対する規制が緩和された(国衙軍制)。従来は中央政府に発兵権があったが、国毎に警察・軍事指揮官として押領使を任命し、中央からの「追討官符」を受けた受領の命令で押領使が国内の武士を動員して反乱を鎮圧する体制に移行したとする説がある。
 平高望、藤原利仁、藤原秀郷らが鎮圧の勲功を受けた。坂東平氏の東国支配の要因ともなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%85%B6%E3%81%AE%E5%87%BA%E7%BE%BD%E4%BF%98%E5%9B%9A%E3%81%AE%E4%B9%B1

⇒承平天慶の乱の最中に東国の治安が全般的に悪化したのは当然だっただろう。(太田)

 シ 安和の変(あんなのへん。969年)

 表記については次の通り。↓

 「平安時代の969年(安和2年)に・・・<清和源氏の>源満仲らの謀反の密告により・・・嵯峨源氏<の>・・・左大臣源高明が失脚させられ<、>以後、摂政・関白が常設されることとなった<事件>。・・・
 967年・・・5月25日、村上天皇が崩御し、東宮(皇太子)・憲平親王(冷泉天皇)が即位する。関白太政大臣に藤原実頼、左大臣に源高明、右大臣には藤原師尹が就任した。
 冷泉天皇にはまだ皇子がなく、また病弱でもあったため早急に東宮を定めることになった。候補は村上天皇と皇后安子の間の皇子で、冷泉天皇の同母弟にあたる為平親王と守平親王だった。年長の為平親王が東宮となることが当然の成り行きとして期待されていたが、実際に東宮になったのは守平親王だった。その背景には左大臣源高明の権力伸張を恐れた藤原氏があった。高明は為平親王の妃の父なので、もし為平親王が東宮となり将来皇位に即くことになれば源高明は外戚となるのである。高明といえば、かつては村上天皇の信任篤く、また皇后安子の妹を妻として右大臣藤原師輔を岳父にもつ姻戚関係もあったが、この時点では両人とも既に亡く、高明は宮中で孤立しつつあった。・・・
 969年(安和2年)3月25日、左馬助源満仲と[系譜関連は不詳<の>]前武蔵介藤原善時が・・・橘氏<の>・・・中務少輔橘繁延と・・・嵯峨源氏<の>・・・左兵衛大尉源連の謀反を密告した。密告の内容がどのようなもので、源高明がどう関わっていたのかは不明である。・・・右大臣師尹以下の公卿は直ちに参内して諸門を閉じて会議に入り、密告文を関白実頼に送るとともに、検非違使に命じて橘繁延と僧・蓮茂を捕らえて訊問させた。さらに検非違使源満季(満仲の弟)が・・・藤原北家<の>・・・前相模介藤原千晴(藤原秀郷の子)とその子久頼を一味として捕らえて禁獄した。
 事件はこれに留まらず、左大臣源高明が謀反に加担していたと結論され、大宰員外権帥に左遷することが決定した。高明は長男・忠賢とともに出家して京に留まれるよう願うが許されず、26日、邸を検非違使に包囲されて捕らえられ、九州へ流された。
 密告の功績により、源満仲と藤原善時はそれぞれ位を進められた。また左大臣には師尹が替わり、右大臣には大納言藤原在衡が昇任した。一方、橘繁延は土佐国、蓮茂は佐渡国、藤原千晴は隠岐国にそれぞれ流され、さらに源連と・・・桓武平氏<の>・・・平貞節の追討が諸国へ命じられた。
 また、京で源満仲と武士の勢力を競っていた藤原千晴もこの事件で流罪となり、結果として藤原秀郷の系統は中央政治から姿を消した。
 971年・・・高明は罪を許され帰京するが、政界には復帰せず京郊外の葛野に隠遁した。醍醐源氏は政治の主導権を失うものの、・・・嵯峨源氏<の>・・・高明の末娘明子は東三条院詮子(一条天皇国母、藤原道長実姉)の庇護を受けのちに藤原道長と結婚し、その縁で高明の子の俊賢、経房兄弟は中央政界で順調に昇進し、それぞれ権大納言、権中納言まで栄達した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%92%8C%E3%81%AE%E5%A4%89
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%96%84%E6%99%82 ([]内)
 「藤原兼家<(929~990年)は、>・・・967年・・・、冷泉天皇の即位に伴い、同母の次兄・兼通に代わって蔵人頭となり、左近衛中将を兼ねた。翌・・・968年・・・には兼通を超えて従三位に叙され、さらに翌・・・969年・・・には参議を経ずに中納言となる。蔵人頭とは通常、四位の官とされて辞任時に参議に昇進するものとされていた。しかし、兼家は従三位に達し、更に中納言就任直後までその職に留まった。これは、長兄・伊尹の政権基盤確立のための宮中掌握政策の一翼を兼家が担っていたからだと考えられ、安和の変に兼家が関与していたとする説の根拠とされている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%85%BC%E5%AE%B6

⇒この安和の変に関し、「変に関する九条流<(注58)>の関与については、積極的な関与を見る見方、むしろ高明の縁戚である九条流に対する圧迫が意図されたとする見方、九条流の関与は認める一方で源高明・為平親王と関係が深かった藤原兼通のみが打撃を受けたとする見方がある。

 (注58)「<兼家の父である>藤原師輔(兼通も含む)の子孫を表す用語」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E6%B5%81
 私の言う、藤原氏北家本流のこの時代の呼称、ということになる。

 また、近年の説では、沢田和久が冷泉天皇の次の皇太弟に守平親王を定めたのは、村上天皇の遺命であって藤原氏は関与していないとする説を取る。この説では、村上天皇の本意は長子である憲平親王(冷泉天皇)の子孫への皇位継承であったが、憲平親王に子が生まれないうちに自身が病に倒れていたために憲平親王の即位後に「一代主」となる皇太弟を立てる必要性を認識していた。しかし、既に成人して源高明の娘が妻となっていた為平親王が皇太弟になった場合、為平親王が先に男子を儲ける可能性もあり、為平親王の皇子が憲平親王の皇子に対抗する皇位継承の有力者になってしまう。そのため、憲平親王よりも9歳年下の守平親王の方が「一代主」に相応しい(仮に守平親王が男子を儲けても、それ以前に憲平親王が先に男子を儲けている可能性が高く、年齢的に対抗馬になりにくい)と判断したためで、臣下である藤原氏や源高明が関与できる話で無かったとする。このため、安和の変の背景に皇位継承問題が無関係でないとしても、それは為平親王が源高明の娘婿として関係を疑われた事実以上のものはなく、皇位継承問題と安和の変の関係は一旦切り離すべきで、「藤原氏の陰謀説」も含めて再考が必要であるとする。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%92%8C%E3%81%AE%E5%A4%89 前掲
と、諸説が唱えられている。
 私は、源満仲が、武家たる仮冒藤原氏の主流である藤原秀郷一門・・藤原千晴は秀郷の三男・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%8D%83%E6%99%B4
をして、爾後武家棟梁たる清和源氏に臣従させること、と、爾後源姓の者が「朝廷で高位を占め」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%B0%8F
て、清和源氏に朝廷が権力を移譲する折に、その意思決定に在朝廷の非清和源氏が直接関与する事態・・そんなことでは、いつその非清和源氏が武士達を集めて、清和源氏から権力を奪取するか分からない・・を回避すること、を目的として、源満仲が謀略でもってこの変を起し、これらの目的を達成した、と、見てはどうか、と、思うに至っている。(太田)

 ス 寛和の変(かんなのへん。986年)

表記は次の通り。↓

 「花山天皇は即位後、外戚(叔父)である藤原義懐らの補佐を受けて新政策を展開していったが、 寛和5年<(985年)>7月18日・・・、寵愛していた女御・藤原忯子の急死とともに出家を考えるようになった。皇太子・懐仁親王(後の一条天皇)の外祖父であった右大臣・藤原兼家は孫である皇太子の即位と自らの摂政就任を早めるために、天皇の退位・出家を画策、蔵人として天皇に仕えていた次男・藤原道兼に対して天皇に出家を勧めさせた。
 寛和2年<(986年)>6月23日の明け方、天皇は道兼の勧めに従って内裏を出て山科の元慶寺に向かった。これを確認した兼家は清涼殿に残された三種の神器を皇太子の居所である凝花舎に移し、内裏諸門を封鎖した。藤原義懐が事態を知った時には既に天皇は元慶寺において出家を済ませた後であり、義懐も側近の藤原惟成とともに元慶寺において出家したのである。更に当時の関白・藤原頼忠も摂関の地位を失うことになり、事実上失脚した。
 懐仁親王は一条天皇として即位し、外祖父藤原兼家は摂政に就任した。兼家はそれまでの慣例を破って右大臣を辞任して摂政専任の先例(大臣と摂関の分離)を生み出すなど、摂関政治の歴史において一つの転機になる事件であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%9B%E5%92%8C%E3%81%AE%E5%A4%89

 セ 長徳の変(995年)

 表記は次の通り。↓

「995年・・・4月10日の藤原道隆の死後、弟の藤原道長が内覧の宣旨を得た後に起きた政変。道隆の一族、中関白家が排斥される結果となった。・・・
 長徳2年(996年)頃、道隆の遺児である藤原伊周が通っていた故太政大臣藤原為光の娘三の君と同じ屋敷に住む四の君(藤原儼子。かつて寵愛した女御藤原忯子の妹)に花山法皇が通いだしたところ、それを伊周は自分の相手の三の君に通っているのだと誤解し、弟の隆家に相談する。隆家は長徳2年1月16日(996年2月7日)、従者の武士を連れて法皇の一行を襲い、法皇の衣の袖を弓で射抜く(更に『百錬抄』では、花山法皇の従者の童子二人を殺して首を持ち去ったという話も伝わっている)。
 花山法皇は出家の身での女通いが露見する体裁の悪さと恐怖のあまり口をつぐんで閉じこもっていたが、この事件の噂が広がり、これを政敵の藤原道長に利用される形となり、先ず隆家が4月に出雲権守に左遷された。伊周は勅命によるもの以外は禁止されている呪術である大元帥法を密かに行ったとして、大宰権帥に左遷された。どちらも実質的な配流である。その他中関白家に連なる面々が連座して処断され、また姉弟であった一条天皇中宮定子の落飾の遠因ともなった。
 翌年から数年後には許され都に戻されているが、以降において伊周ら中関白家が道長に政治的に勝つことは無かった。
 「長徳の変の黒幕」と衆目の一致する所であった道長は、後年、賀茂詣のついでにわざわざ隆家を招いて同車させ、その弁明に努めている。
 なお、藤原儼子はのちに花山院の死後、藤原道長の妾となり懐妊するが、出産時に死亡している。・・・
 長徳の変より150年後に発生した保元の乱を描いた『保元物語』・・・には、・・・嵯峨天皇によって死罪が停止された後、法家が伊周の死罪を検申したにもかかわらず罪一等を減ぜられて流罪となったことで死罪は久しく絶えたと記されており、当時(平安時代末期)において平安時代を通じて長く続いた「死刑の停止」が薬子の変と長徳の変の2段階を経て確立されたと認識されていた、とする指摘もある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%BE%B3%E3%81%AE%E5%A4%89
 「「中関白」の呼称の由来については、自己の系統による摂関独占を確立した父兼家と御堂流の祖となった弟道長の中継ぎという説と兼家系の2番目の摂関であったからという説がある。その呼称は12世紀前期に成立した『江談抄』や『中右記』、『大鏡裏書』などに登場する。
 道隆は・・・990年・・・に父・兼家の後を継いで摂関に就任して自己の系統を摂関家の嫡流にすべく尽力した。嫡男伊周は内大臣、その弟の隆家は参議、庶長子道頼は権大納言に任ぜられ、娘の定子は一条天皇の中宮、同じく原子は東宮居貞親王(後の三条天皇)の妃となった。
 ところが、長徳元年(995年)に道隆と道頼が急死し、その後叔父である道長との権力闘争に敗れた伊周が花山院闘乱事件(花山法皇に矢を射かける事件)などによって大宰権帥に左遷され、隆家もこれに加担したとして連座した。更に定子は長徳の変で伊周、隆家をかくまった後出家し、また参内するなど世の人々から呆れられ人望を失い、第二皇女出産後後産が下りず崩御。遺された敦康親王も皇位に就くことなく病死したため、外戚になることもなかった。伊周の子である道雅も問題行動が多く不遇のまま没し、隆家の家系のみが続いたが大臣以上を輩出することはなくなった。
 隆家の子孫は坊門家・水無瀬家をそれぞれ称した。前者は室町時代に断絶したが、後者は水無瀬流としてその分家とともに明治維新まで家系を保った。・・・
 <ちなみに、隆家のひ孫の孫が池禅尼だ。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E9%96%A2%E7%99%BD%E5%AE%B6

 ソ 平忠常の乱(1028年)

 表記については、コラム#11921参照。
 「平忠常の乱は、平繁盛やその子孫(常陸平氏)と忠常の一族(平良文流平氏)の競合を背景に、常陸平氏と連携する都の平貞盛流による追討を借りた良文流に対する私戦であったとする説がある。・・・
 この乱の主戦場になった房総三カ国(下総国、上総国、安房国)は大きな被害を受け、上総介藤原辰重の報告によると本来、上総国の作田は2万2千町あったが、僅かに18町に減ってしまったという。だが、同時にその原因は追討使であった平直方や諸国兵士、すなわち朝廷軍による収奪であったと明言している・・・。
 この乱を平定することにより坂東平氏の多くが頼信の配下に入り、河内源氏が東国で勢力を広げる契機となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E5%B8%B8%E3%81%AE%E4%B9%B1

(3)外患

 ア 弘仁の新羅の賊(811年、813年)

 「弘仁2年(811年)12月6日、新羅船三艘が対馬島の西海に現れ、その内の一艘が下県郡の佐須浦に着岸した。船に十人ほど乗っており、他の二艘は闇夜に流れ、行方が分からなくなった。
 翌12月7日未明、灯火をともし、相連なった二十余艘の船が島の西の海中に姿を現し、これらの船が賊船である事が判明した。そこで、先に着岸した者のうち五人を殺害したが、残る五人は逃走し、うち四人は後日捕捉した。」(★)
 「弘仁4年(813年)2月29日、肥前の松浦郡五島の小近島(小値賀島)に、新羅人110人が五艘の船に乗り上陸した。新羅の賊は島民と交戦し、島民を9人打ち殺し100人を捕虜にした。この日は、基肄団の校尉貞弓らの去る日であった。
 また、4月7日には、新羅人一清、清漢巴らが日本から新羅へ帰国した、と大宰府から報告された。この言上に対して、新羅人らを訊問し、帰国を願う者は許可し、帰化を願う者は、慣例により処置せよと指示した。
 事後の対策として通訳を対馬に置き、商人や漂流者、帰化・難民になりすまして毎年のように来寇する新羅人集団を尋問できるようにし、また・・・835年・・・には防人を330人に増強した。・・・838年・・・には、796年以来絶えていた弩師<(注59)>(どし)を復活させ、壱岐に配備した。弩師とは、大弓の射撃を教える教官である。」(★)

 (注59)「律令軍制においては、弩を扱う弩手(どしゅ)は軍団の中から強壮の者二名が選抜され、あてがわれていた。・・・
 10世紀頃に兵(つわもの)から武士が誕生し、争い事自体が領主としての武士とその郎党・下人らで組織される多くても数十人単位の小集団同士の武力衝突が多くなったこと、その争いでは「首級数」よりは「誰の首級か」が重要になったこと、地方軍制もその小集団を束ね自らが軍装を持参する新たな国衙軍制が成立したことなどにより、兵器として管理・整備が難しく国司・郡司による中央統制的兵器管理が必要な弩は全体として軍備から外され消滅に向かった。代わりに管理のしやすい軽便な軽甲・弓箭が主流となる。
 武士に期待された任務としての軍事行為は、初期には主として少人数のゲリラ的な襲撃戦を主体とした田堵負名層の反受領闘争の鎮圧であり、また11世紀以降になると荘園公領の管理者として荘園公領間の武装抗争の自力救済が期待された。長弓を用いた騎射を主体とする武士にとって弩は不向きであったし、本来、千人規模以上の大軍団の歩兵による迎撃戦に適した弩は、数十から多くて百人程度の規模でしかない武士対田堵負名層、あるいは支配地に隣接する荘園や公領の他の武士との抗争における騎馬機動戦には不向きであり、また騎射を「弓馬の道」として尊び武芸として極めようとした武士の思想に向かないものであった。
 古代律令制が日本で形骸化した後、歩兵を主体とする兵士の大集団が日本の戦場に再登場したのは戦国時代以降であるが、この頃には日本の長弓は複合素材を用いた長射程のものに発達しており、弩が顧みられることはなかった[注 2]。時代が下ると西洋からクロスボウが伝来するが、火縄銃の伝来と同時期であり、威力では火縄銃に、速射性では和弓に、コストパフォーマンスでは印地に劣るクロスボウは中途半端な存在として普及しなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A9

 イ 弘仁新羅の乱(866年)

 「弘仁11年(820年)2月13日、遠江・駿河両国に移配した新羅人在留民700人が党をなして反乱を起こし、人民を殺害して奥舎を焼いた。
 両国では兵士を動員して攻撃したが、制圧できなかった。賊は伊豆国の穀物を盗み、船に乗って海上に出た。 しかし、相模・武蔵等七国の援兵が動員され追討した結果、全員が降服した。」(★)

 ウ 山春永らの対馬侵攻計画(866年)

 「肥前基肄〈(きい)〉郡擬大領(郡司候補)山春永(やまのはるなが)、藤津郡領葛津貞津、高来郡擬大領大刀主、彼杵郡住人永岡藤津らが新羅人[珍賓長(ちん-びんちょう)]と共謀し、〈新羅に渡って〉日本国の律令制式の弩の製法を漏らし、対馬を攻撃〈奪取〉する計画が発覚したが[密告により]未遂に終わった。」(★)
https://kotobank.jp/word/%E5%B1%B1%E6%98%A5%E6%B0%B8-1118273 ([]内)
https://kotobank.jp/word/%E7%8F%8D%E8%B3%93%E9%95%B7-1091737 (〈〉内)

 エ 貞観の入寇(869年)

 「貞観11年(869年)6月から、新羅の海賊が艦二艘に乗り筑前国那珂郡(博多)の荒津に上陸し、豊前の貢調船を襲撃し、年貢の絹綿を掠奪し逃げた。追跡したが、見失った<。>・・・
 また現地の史生が「新羅国の牒」を入手し、大宰少弐藤原元利万侶(ふじわらのげんりまろ)が新羅国王と内応して反乱を企ていたことが発覚する。・・・
 870年2月15日、朝廷は弩師や防人の選士50人を対馬に配備する。また、在地から徴発した兵が役に立たないとみた政府は、俘囚すなわち律令国家に服属した蝦夷を配備した。
 〈<すなわち、弩の>有効性については騎射に優れた蝦夷よりも劣ると判断された・・・。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A9 〉
 これらの国防法令は『延喜格(えんぎきゃく)』に収められ、以後の外交の先例となった。
 また、伊勢神宮、石清水八幡宮、香椎、神功皇后陵などに奉幣および告文をささげ、「わが日本の朝は所謂神明の国也。神明の護り賜わば何の兵寇が近く来るべきや(日本は神の国であり、神の守護によって敵国の船は攻め寄せない)」と訴えた。こうして新羅を敵視する考えは神国思想の発展へとつながっていった。また、神功皇后による三韓征伐説話もたびたび参照されるようになる。・・・
 また貞観14年から19年にかけて編纂された『貞観儀式』追儺儀(ついなのぎ)では、陸奥国以東、五島列島以西、土佐国以南、佐渡国以北は、穢れた疫鬼の住処と明記されている。こうして対新羅関係が悪化すると、天皇の支配する領域の外はケガレの場所とする王土王民思想も神国思想とともに形成された。」(★)

 オ 寛平の韓寇(893、894年)

 「873年・・・、武将でもある小野春風が対馬守に赴任、政府に食料袋1000枚・保呂(矢避けのマント)1000領を申請して防備の拡充を行っている。
 寛平5年(893年)5月11日大宰府は新羅の賊を発見。「新羅の賊、肥後国飽田郡に於いて人宅を焼亡す。又た、肥前国松浦郡に於いて逃げ去る」。
 翌寛平6年(894年)4月、対馬島を襲ったとの報せを受ける。沿岸国に警固を命じ、この知らせを受けた朝廷は、政治の中枢の人間である参議の藤原国経を大宰権帥として派遣するなどの対策を定めたが、賊は逃げていった。この間遣唐使が定められたが、一説に唐の関与を窺うためであったともいう。
 寛平6年(894年)、唐人も交えた新羅の船大小100艘に乗った2500人にのぼる新羅の賊の大軍が襲来し、対馬に侵攻を始めた。
 9月5日の朝、45艘でやってきた賊徒に対し、武将としての経験があり対馬守に配されていた文屋善友は郡司士卒を率いて、誘い込みの上で弩を構えた数百の軍勢で迎え撃った。雨のように射られ逃げていく賊を追撃し、220人を射殺した。賊は計、300名を討ち取った。また、船11、太刀50、桙1000、弓胡(やなぐい)各110、盾312にものぼる莫大な兵器を奪い、賊ひとりを生け捕った。
 捕虜の証言ではこれは民間海賊による略奪ではなく、新羅政府による襲撃略奪であった。捕虜曰く、新羅は不作で餓えに苦しみ、倉も尽きて王城も例外ではなく、「王、仰せて、穀絹を取らんが為に帆を飛ばして参り来たる」という。その全容は大小の船100艘、乗員2500、逃げ帰った将軍はなお3人いて、特に1人の「唐人」が強大である、と証言した。・・・ 
 同年9月19日、大宰府の飛駅の使が撃退の成功を伝え<た。>・・・ 
 翌年の寛平7年(895年)にも、新羅の賊が壱岐を襲撃し、官舎が焼かれた。」(★)

 カ 長徳の入寇(997年)

 「長徳三年(997年)、高麗人が、対馬、肥前、壱岐、肥後、薩摩、大隅など九州全域を襲う。民家が焼かれ、財産を収奪し、男女300名がさらわれた。これは南蛮の入寇ともいわれ、奄美島人も賊に参加していたといわれる。・・・
 報告を受けたときの道長たちのあわてぶり・・・」(★)

 キ 刀伊の入寇(といのにゅうこう。1019年)

 「寛仁3年(1019年)に、女真の一派とみられる集団を主体とした海賊が壱岐・対馬を襲い、更に九州に侵攻した<。>」(※)
 (コラム#11921参照。)


[太政大臣・摂政・関白]

 そして、ついには、摂関制の成立も、武士創出計画の副産物だったのではないか、と思い至った。↓

 「正規のかたちで太政大臣が任命された初例は、・・・857年・・・2月の藤原良房である。ときの文徳天皇は、おりから病気がちであり、しばしば政務を執ることができないほど体調が悪化することがあった。一方で、皇太子惟仁親王はわずか8歳の幼少であった。文徳天皇としては、生母藤原順子の兄であり、正室藤原明子の父であり、皇太子の外祖父であり、すでに右大臣として廟堂に重きをなしていた良房は、病身の自分を補佐するとともに、自分に万一のことがあった場合には前代未聞の幼帝として即位することになる惟仁親王の後見人として、もっとも頼りがいのあるうってつけの人材であったと言える。
 実質的には、良房の太政大臣任命は、いわゆる「人臣摂政制」の発足としての意味を持つものである。はたして文徳天皇は翌・・・858年・・・2月に崩御、惟仁親王が9歳で践祚した(清和天皇)。『公卿補任』や『職原鈔』などは、良房が清和天皇の践祚と同時に摂政に任じられたものとして記述している。良房は、順子や明子と協調しながら、事実上の摂政としての役割をはたしてゆくことになる。

⇒自分の妻を差し出すのは止めて外戚になることによって、双子的な桓武天皇構想遂行中枢であるところの藤原家本流と天皇家との紐帯が、より同構想漏洩を防止できかつ強固かつ安定的なものにはなったけれど、それでも、外戚になった天皇の子を自分ないし自分の実子/養子の娘が産めるとは限らないという危うさが残ったことから、藤原氏本流が、天皇家との血縁的関係が希薄であっても同構想を、漏洩を防止しつつ代々継承できるようにするために、原則藤原氏本流だけが就くことが出来る職位を作ることを考え、まず、以前にわずか一例だけながら、藤原仲麻呂(恵美押勝)なる天皇家以外の者が就いた前例がある太政大臣(注60)・・私は道鏡は、名称が異なる、しかも、特殊な例であることから、太政大臣に就いたとは言えないと思う・・を復活して良房がそれに就くことによって、地均しをした上で、天皇家以外の人間が就いたことがない摂政に就く機会を狙うことにした、と見る。(太田)

 (注60)「760年・・・1月の藤原恵美押勝(藤原仲麻呂)の任命まで時期がくだることになる。ただし、この任命は、・・・758年・・・8月から・・・764年・・・9月までの、太政大臣を「太師」と改称した時期に当たり、押勝が就任したのはこの太師である。これに続いて、・・・765年・・・閏10月、道鏡が、<結果的に日本史上唯一の>出家した天皇<となったところの、>称徳天皇・・・には出家した大臣が必要であるという理由で・・・764年・・・9月に彼のために新設された令外官である「大臣禅師」から昇進して「太政大臣禅師」に任命されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E6%94%BF%E5%A4%A7%E8%87%A3

 清和天皇の良房に対する信任は篤く、成長しても良房に対する尊重は変わることがなかった。・・・866年・・・閏3月に起きた応天門の変<(前出)>による政情不安に際しては、同年8月に、非常事態を収拾するための大権として、あらためて良房に天下の政を摂行すべき由の勅を発している。(注61)

 (注61)866年)、応天門の変が勃発。同事件では左大臣源信が当初事件の容疑者と疑われたため出仕を控え、筆頭大納言の伴善男は真犯人として処罰、その肩を持った右大臣藤原良相も失脚と、朝廷首脳陣が軒並み不在となる。清和天皇はこれを受けて、太政大臣良房の復帰を求める。この時、「太政大臣」の職掌の確認が改めて行われ、勅命により、太政大臣良房に、天下の政を摂行させることが命じられた。
 この時が、人臣摂政の初例である。すなわち、元来不明瞭であった太政大臣の職掌を明言した際の者であり、かつ、その内容は、すでに成人した天皇の政を補佐するものという、後の関白に近いものであった。
 その後、良房の嫡男・基経が、貞観18年(876年)、陽成天皇の即位に伴って摂政となる。この時、天皇は8歳であったが、譲位する清和天皇は、自らの即位時に良房が朝政を代行したのを先例とし、当時右大臣であった基経に、「幼帝を保輔して天下の政を摂り行うこと」を、譲位の詔の中で命じた。幼帝の即位時、先帝による譲位の詔の中で摂政に任じられることは、後の常例となる。しかしこの時は、陽成天皇が元服しても摂政の任は続けられ、”摂政は幼帝に限る”という慣例は成立していなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%82%E6%94%BF

⇒良房とその養子の基経は、清和天皇の天皇としての資質、とりわけ、桓武天皇構想推進の意欲と能力、に疑問を抱いており、その分、藤原氏北家本流の桓武天皇構想推進における責任が重くなっているとの危機意識の下、事を急がなければならない、と、既に良房の太政大臣就任で地均しがしてあったところへ、摂政という、天皇家以外の人間が就任したことがない職位に基経・・基経は清和天皇の外戚ではなく、外戚たる良房の実子でもない!(注62)・・が就くことによって、爾後、摂政ないし摂政に相当する職位に、外戚ではないところの、藤原氏北家本流の人間が就任する前例を作った、と、見たらどうだろうか。

 (注62)「中納言・藤原長良の三男として生まれたが、時の権力者で男子がいなかった叔父・良房に見込まれて、その養嗣子となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%9F%BA%E7%B5%8C
 「藤原長良<(802~856年)は、>・・・仁明天皇即位後一年ほどで従五位から参議に至るなど急速に昇進した次弟・良房に官途で先を越されている。のち・・・844年・・・従四位上・参議に叙任され、良房に遅れること10年にして公卿に列した。
 ・・・850年・・・甥の文徳天皇が即位<した>・・・翌・・・851年・・・には・・・10歳以上年少の同母弟・良相が先に権中納言に任ぜられ、その後塵を拝す。・・・
 没後、娘・高子が清和天皇の女御となり、高子所生の貞明親王が即位(陽成天皇)したため、・・・877年・・・に正一位・左大臣、次いで・・・879年・・・に太政大臣を追贈された。
 昇進は弟の良房、良相に遅れをとったが、両弟に比べ子女に恵まれ子孫は大いに繁栄した。特に三男・基経は良房の養子となり、その子孫からは五摂家を初めとして多数の堂上諸家を輩出した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%95%B7%E8%89%AF

 なお、「注61」のように、長良の昇進が遅れたのは、(通説では)同母兄弟である長良、良房、良相、の能力が、良房>良相>長良、であることを、彼らの父親である冬嗣
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%86%AC%E5%97%A3
が見抜き、良房を嫡男に指名していたと思われるところ、そのこともあって、良房を気に入っていた嵯峨天皇が、良房と自分の皇女とを結婚させた(注63)が、彼女との間に女子1名しかできなかったことを横から見ていて、長良が、自分の男の子達の中で最も能力が高かった経基を弟の良房に差し出したのだろう。

 (注63)「当時は皇女が臣下に降嫁する事は禁じられていたが、潔姫は既に臣籍降下していたためその対象外だった。それでも皇女が臣下に嫁ぐのは前代未聞であり、平安時代中頃までにおいてこの待遇を受けたのは源順子(宇多天皇皇女、一説には実は光孝天皇の皇女)と結婚した藤原忠平のみである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%89%AF%E6%88%BF

 桓武天皇構想推進中の段階では、藤原氏北家主流においては、実力主義が貫かれていた、というわけだ。(太田)

 形式的には、この時点が史上初の人臣摂政の任命とされている。さらに・・・871年・・・4月には、良房に三宮に准じて年官年爵を与えている(准三宮<(注64)>の初例)。

 (注64)「三宮 (太皇太后,皇太后,皇后) に准じた待遇・・年官・年爵および封戸(ふこ)<の>給与・・を,皇族や臣下に与えること。・・・後世、年官・年爵・封戸が有名無実となった後も、名誉ある称号、あるいは一種の資格として、江戸時代の末まで存続した。准三后(じゅさんごう・じゅんさんごう)。准后(じゅごう・じゅんごう)。」
https://kotobank.jp/word/%E5%87%86%E4%B8%89%E5%AE%AE-77692

 良房が・・・872年・・・9月に薨去すると、その立場は良房の<養>子の右大臣基経に受け継がれた。清和天皇は、・・・876年・・・11月に皇太子貞明親王(陽成天皇)に譲位するにあたり、基経に良房と同じ摂政の任を与えている。さらに、・・・880年・・・12月には、その崩御に臨み遺詔をもって「右大臣の官職は摂政の任にふさわしくない」という理由で基経を太政大臣に昇進させている。これ以降、摂政の職務と太政大臣の官職は一体のものとして観念されるようになってゆく。

⇒太政大臣の職位が用済みとなり、事実上、摂政の職位に吸収されたと捉えることができよう。(太田)

 ・・・884年・・・2月に陽成天皇が廃位され、光孝天皇が践祚すると、基経は、陽成天皇の退位により<自分の>摂政の職務は解除されたものと考えた。一方、光孝は従前どおり基経の補佐を受けることを望んだ。しかし、良房・基経の摂政がいずれも老練な重臣が若年の天皇を補佐するものであったのに対して、光孝天皇は基経よりも年長であった。そこで、従前のものとは異なる論理で摂政の職務を合理化する必要が生じた。ここで着目されたのは太政大臣の職務権限である。太政大臣であること自体に事実上の摂政の意味を求めようとしたのである。基経も、令では抽象的な規定にとどまっている太政大臣の職務の具体化・明確化を望んだ。

⇒というよりは、基経のイニシアティヴの下で、光孝天皇と藤原基経との間で了解されたのだろう。(太田)

 <884>年5月、文章博士菅原道真ら8名の有識者に「太政大臣の職掌の有無」が諮問された。8名の答申はさまざまで意見の一致を見なかったが、もっとも明確に結論をくだしたのは道真の答申である。それは、太政大臣は「分掌の職にあらずといえども、なお太政官の職事たり」というものであった。実は『令義解』にも「分掌の職にあらず、その分職なきがため、ゆえに掌を称さず」と明記されている。令に太政大臣の職務権限に関する規定がないのは、地位のみが高くて実権のない官職だからではなく太政官が管轄するすべての職務について権限を有するために、あえて個別に例示する必要がないからだというのである。
 これを踏まえ、光孝天皇は同年6月に基経に対して、太政大臣は「内外の政統べざるなし」との詔を発し、太政大臣が実権のある官職であることを保証した。しかし、同じ詔で「まさに奏すべきのこと、まさに下すべきのこと、必ずはじめに諮稟せよ、朕まさに垂拱して成るを仰がむとす」とも述べて、基経には太政大臣とは別の特殊な権限があることも認めている。この後半の部分は、のちに関白を任命する際の詔にも決まり文句として継承されることになる。これは、摂政・関白と太政大臣が分離してゆく最初の契機ともなった。

⇒つまり、基経は、陽成天皇の廃位を好機と捉え、非若年の天皇の時の摂政に代わる職位の創造を目指し、取敢えず、太政大臣の職位の読み替えを菅原道真にやらせた、と、見たいのだ。(太田)

 ・・・887年・・・8月に光孝天皇が崩御し、宇多天皇が践祚した際にも、基経の特殊な権限は再確認された。同年11月、宇多天皇は「万機の巨細、百官己に惣べ、みな太政大臣に関わり白し、しかるのちに奏下すること一に旧事のごとくせよ」と詔している。これが「関白」ということばの初例である。

⇒その上で、光孝⇒宇多、の時に、基経は関白という新職位を創造することに成功し、ここに摂関制が概成した、と言ってよかろう。(太田)

 基経が・・・891年・・・1月に薨去したあと、基経の子孫たちのなかから、忠平、実頼、伊尹、兼通、頼忠が相次いで太政大臣に就任している。いずれも、まず、基経によって確立された摂政または関白の地位に就いてから、その地位にふさわしい官職として太政大臣に任命されるやり方[<であって、>、摂政は職事官である大臣に付随して兼務する官職と<の>考え<方、>]をとっている。この間約100年、摂関と太政大臣はつねに一体のものとしてあった。
 これが変化するのは、・・・986年・・・6月の花山天皇の突然の退位のときのことである。代わって践祚した一条天皇のもとで、天皇と外戚関係のない関白太政大臣頼忠は、一条天皇の外祖父の右大臣藤原兼家に関白を譲ることになった。一条天皇はまだ6歳であったから、兼家は関白を改めて摂政となった。これまでの慣例からすれば、兼家が太政大臣となるのが自然な流れであるが、頼忠が引き続き太政大臣に在任しており、なんら罪があるわけでもない頼忠から太政大臣の官職を奪うことは困難であった(関白は、もともと天皇の交代とともに自動的に退任し、改めて新天皇から指名されるものであり、頼忠に罪があって解任されたわけではない)。そこで兼家は、同年7月、右大臣を辞任した。太政大臣以下の太政官の既存の官職から超越して、ただ摂政という立場のみに基づいて権力をふるうことを選んだのである。兼家は准三宮となり、さらに、その後摂関の特権のひとつとして定着することになる「一座の宣旨」を与えられて、三公[(太政大臣・左右両大臣)]の上に列することとされた。このとき、摂関と太政大臣は決定的に分離した。太政大臣の実権は完全に摂関に吸収され、太政大臣は単なる名誉職へと変化することになる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E6%94%BF%E5%A4%A7%E8%87%A3
 「<ちなみに、>関白職の初任者は、藤原基経である<けれど>、その就任時期については大きく3つの説・・陽成天皇<期、>・・・光孝天皇<期、>・・・宇多天皇<期>・・に分かれている。・・・
 だが、どの説を採用するとしても、「関白」という言葉の語義または具体的な職掌・役割が確定するのは阿衡事件に伴う議論の結果によるところが大きいこと、藤原基経が最初の関白であったという事実は変わりがない。基経が詔勅を受け入れていれば、関白ではなく「阿衡」が職名になったことは間違いない。
 続いて、関白に任命されたのは約半世紀後の基経の子・忠平である。忠平は朱雀天皇の摂政を即位時より務めてきたが、・・・937年・・・に天皇が元服したのを機に辞表を提出した。だが、折りしも承平天慶の乱が発生したために天皇はこれを慰留して乱の鎮圧に努めさせ、乱が鎮圧した・・・941年・・・になって漸く忠平の摂政辞表は受理されたものの、直ちに基経の先例に従って関白に任じられた。天皇の成人を機に摂政が関白に転じた確実な事例はこれが最初である。

⇒この時点で、摂政と関白の違いが確定したわけだ。(太田)

 村上天皇期には関白が設置されなかったものの、冷泉天皇が即位すると再置されることになった。しかし外祖父に当たる師輔はすでに死亡しており、その兄にあたる太政大臣実頼が関白となった。実頼は外戚でなかったため権力に乏しく、「揚名(名ばかり)の関白」と嘆くほどであった。
 実頼以ienie降は筆頭大臣が摂関となることが続いたが、986年・・・に右大臣藤原兼家が外孫一条天皇の摂政に任じられた。この時兼家の上座には太政大臣と左大臣の二人がおり、摂政の位置づけが不明確になった。一ヶ月後に兼家は右大臣を辞職し、摂政が三公(太政大臣、左大臣、右大臣)より上席を占めるという一座宣旨を受けた。この「寛和の例」以降、摂関と大臣は分離され、藤原氏の氏長者の地位と一体化していった。しかしこれ以降摂関と太政大臣が陣定の指導を行う一上とならない慣例が生まれ、摂関が太政官を直接指導することは出来なくなった。関白の主要な職務は太政官から上奏される文書を天皇に先んじて閲覧する内覧の権限と、それに対する拒否権を持つことであった。しかしこの対象は太政官に限られ、蔵人からの上奏は対象とならなかった。
 兼家の死後は権力争いに勝利した道長が朝廷の主導権を握った。道長自身は関白に就くことなく、内覧および一上として政務を主導したが、事実上の関白として「御堂関白」とも呼ばれた。道長の嫡流を御堂流というのはこれに由来する。1016年・・・に後一条天皇が即位すると道長は摂政となったが、間もなくその子の頼通にその座を譲った。その後も道長の外孫が天皇となることが続き、頼通は50年以上にわたって関白の座を占め続け、摂関政治の最盛期を築いた。しかし頼通は子宝に恵まれず、入内した子女も皇子を産むことはなかった。また頼通も優柔不断な性格で決断を嫌ったこともあり、責任を押しつけ合う頼通と天皇との間で政務は停滞した。こうした状況を藤原資房は、天下の災いは関白が無責任であることが原因であると記している。

⇒そういうことではなく、刀伊の入寇(1019年3月27日~4月13年)(前出)の時、後一条天皇の摂政であった藤原頼通は、武士が育っていたおかげで、必要にして十分な対処ができたと受け止め、父で前太政大臣の道長ともども、肩の荷を下ろしたような気持ちになり、爾後、基本的に三公以下に政務、公事を委ねることにしたのではなかろうか。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%A0%BC%E9%80%9A ←事実関係
(太田)

 頼通と外戚関係にない後三条天皇が即位すると、後三条の主導による政治改革が始まったことで関白の存在感は減少していった。

⇒桓武天皇構想が概ね完遂されたことから、藤原氏北家本流は、その封建制への移行部分の完遂・・引き続きの代々の武家棟梁の指名、と、然るべき時における武家棟梁への権力の委譲・・については、基本的に天皇家に委ねるととした、と、受け止めたらどうか。
 但し、桓武天皇構想中の武士の縄文性の回復・維持方法確立という課題がまだ残っていたこともあり、それまで天皇家に委ねるわけにはいかなかったこともあり、藤氏長者交替の際には、桓武天皇構想の伝授は引き続き行われていった、と見たい。(太田)

 その子の白河天皇が堀河天皇に譲位して院政を開始したことや、師実・師通の父子が相次いで死去し御堂流が主導権を握れなかったこともあり、摂関政治の時代は終焉を迎えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E7%99%BD

⇒「封建制への移行部分の完全完遂・・・について」は、完全に「天皇家に委ねた」、と、受け止めるべきだろう。(太田)

 「11世紀の藤原道長の頃からは建武の新政期を除き、摂政もしくは関白は常置の官となった。以降は外戚関係に関わりなく、常時摂政・関白のいずれかを藤原道長の子孫(御堂流)が占めるようになった。

⇒時計を巻き戻すが、藤原道長が、摂関制を完成させた、と言ってよかろう。(太田)

 鎌倉時代以降、藤原北家御堂流は近衛家、一条家、鷹司家、九条家、二条家の五摂家に分かれ、代々そのうち最も官位の高い者が摂政・関白に任ぜられる例となって、明治維新まで続いた。この例外は、藤原氏以外で関白となった豊臣秀次の1名である。(秀吉は近衛家猶子、藤氏長者、藤原秀吉として関白になる。)ただし、藤原氏以外で摂政となった人物は、平安時代から江戸時代までには存在しない。
 明治維新以前の摂政は、詔書の代筆、叙位・任官の施行など、天皇の行う政務のほとんど全てを代行し、その権限はほとんど天皇とかわりなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%82%E6%94%BF ([]内も)

⇒鎌倉時代末期以降は、摂関は名誉職化し、旧藤原氏北家本流の桓武天皇構想遂行協力の功績をたたえて、旧藤原氏北家本流の後裔たる五摂家が独占的に占めることとされる一方で、近衛家が、事実上の日蓮主義の総元締めとしての役割を演じることとなるが、これはまた別の話だ。(太田)


(続く)

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太田述正コラム#13550(2023.6.17)
<2023.6.17東京オフ会次第>

→非公開。