太田述正コラム#2525(2008.5.3)
<支那の体制(その1)>(2008.6.6公開)
1 始めに
 ロシアの現在の体制を論じたばかりですが、ロシアとくれば、次に支那を取り上げなければなりますまい。
 手がかりになるのは、中共中央の弱体ぶりを指摘したところの、『歴史の終わり』で有名なフランシス・フクヤマがロサンゼルスタイムスに寄せた論考(
http://www.latimes.com/news/opinion/la-oe-fukuyama29apr29,0,5376622,print.story
。4月30日アクセス)です。
2 中共中央政府の弱体ぶり
 フクヤマは次のような趣旨の指摘を行っています。
 現在の支那の最大の問題点は、強力な独裁権力をふるう中央政府によるチベット人や法輪功メンバーの人権蹂躙ではない。中央政府が弱体であるため、国民の人権を守るに守れないことなのだ。 
 だから、正当な補償なしに農民が農地を取り上げられたり、労働者がひどい条件で働かされたり、汚染物資の不法な投棄によって農民が病気になる、といったことが横行しているのだ。
 1978年からの中共の改革開放は、郷鎮企業設立の自由を農村や都市の当局に与えたことによって始まった。今や、民間企業と提携しつつ、郷鎮企業/地方当局は、恐ろしく富み力を持ち、産業化初期のイギリスで見られたような経済社会状況を現出させている。
 中共中央政府は、これら地方当局の人権蹂躙を何とかしようと思っても、中央政府がその存立を地方当局が生み出す雇用と収入に依存していることから、及び腰にならざるをえない。人権蹂躙に耐えかねて毎年何千件も地方で騒擾が起きているが、その鎮圧についても中共中央政府は地方当局に依存している。
 欧米の歴史を振り返ると、近代以前においてもイギリスの中央政府は強力であったのにフランスの中央政府は弱体だった。19世紀の英国の法学者、メイン(Sir Henry Sumner Maine)は、「フランスとイギリス(France and England)」という論考でこのことを指摘し、フランス革命の最大の原因は、貴族による農民の財産権の恣意的な侵害に対し、司法権が地方分権化されていて地方貴族の統制下にあったために、農民がこれに法的に抵抗するすべがなかったことにある、と記している。一方イギリスでは、ノルマン人による征服以来、イギリス王室は司法の中央集権化に成功し、大衆を地方貴族の権利侵害から守ってきたというのだ。
 近代以前のポーランドやハンガリーもフランスと同じ状況だった。これらの国の中央政府は弱体過ぎて、農民を貴族から守ることも、国を外敵から守ることもできなかった。
 米国は、20世紀初期まではどちらかというと、かつての欧州大陸諸国に近く、連邦政府に比べて州の力が強かった。そのため、南北戦争の前も後も、黒人を抑圧する南部各州に中央政府が介入できなかったのだ。この黒人抑圧を最終的に止めさせたのは、1960年代における連邦政府による軍隊の投入であったことを思い出そう。
 (以上、
http://www.latimes.com/news/opinion/la-oe-fukuyama29apr29,0,5376622,print.story(4月30日アクセス)による。)
 イギリスの中央政府が強かったのは、ノルマン人が征服したからというより、イギリスはそれ以前もそれ以降も封建社会ではなかったからだ、というのがマクファーレンの示唆に基づく私見です。
 つまり、イギリスは最初から資本主義社会、つまりは近代社会だったのであり、一元的な領域支配が貫徹した近代国家だったのです。他方、近代以前の欧州は封建社会であり、各「国」は地方政府(領邦国家)の集合体に過ぎなかったのです。
 それはともかくとして、このフクヤマの中共中央政府の弱体ぶりの指摘は、彼のこれまでの様々な指摘の中で、最も鋭いものであると言えるかもしれません。
 毛沢東という天才的かつ悪魔的な漢人「皇帝」亡き現在、支那はいつもの支那(コラム#2523)に戻ってしまったということでしょう。
3 中共中央政府の対外政策の拙劣さ
 (1)総論
 チベット騒擾がらみで中共中央政府の対外広報戦略、広くは対外政策の拙劣さが浮き彫りになったと(コラム#2514(未公開)、2515で)申し上げてきました。
 この点をもう少し掘り下げてみましょう。
 (2)各論
 北京五輪組織委員会の広報官は、2001年に、この五輪は「民主主義と人権を育み(foster)支那を世界に統合させる機会」になるだろうと述べました。
 中共中央政府は、着実にこの言明を履行してきているように見えます。
 2006年10月、共産党北京委員会の機関紙である北京日報(Beijing Daily)に、中央翻訳局(Central Translation Bureau)の次長にして国立の諮詢中心(シンクタンク)の研究員であるYu Kepingが論考を寄せ、「民主主義は良いものである」と記しました。
 また、Wang Yangなる官吏が2007年2月26日に人民日報に論考を寄せ、民主主義の拡大や政治改革の推進とあわせ、人権を擁護し、腐敗を撲滅することは、温家宝総理率いる国務院(内閣)の最優先課題であると記しました。
 更に、共産党中央党学校の政治研究中心の長であるZhou Tianyong率いるグループが、2008年2月に「政治改革里程標」を発表し、2020年までに中共に成熟した市民社会を、そしてそれに引き続き成熟した民主主義及び法の支配を確立する、という包括的政治体制改革計画を提示しました。そしてその中で、共産党の権力を抑制と監督下に置くための民主主義的改革を行わない限り支那は危険な不安定性に直面することになるだろうと警告を発しました。
 ただし、故トウ小平が、モンテスキュー流の権力の分立や多党制民主主義には反対だと述べた枠内で、以上をやろうというのです。要するに共産党一党独裁を維持しつつ、中共中央政府に抑制と均衡をもっと導入しようというわけです。
 全国人民代表大会常務委員会委員長の呉邦国(Wu Bangguo)・・共産党序列第2位・・が、「多党制民主主義」も「権力の分立」も論外だし、両院制の導入もダメだが、「支那は人間諸社会が生み出した政治諸文明を含む諸文明の経験から積極的に学ぶ必要がある」と述べたのも同じ趣旨です。
 このような枠内で、とは言うものの、冒頭の言明に基づき、中共中央政府は様々な施策を講じてきています。
 例えば、2006年12月に、中共中央政府は、外国人ジャーナリストが事前に許可を得ることなく、取材のために支那国内を自由に旅行することを認めました。新華社は、これは「支那の開放に向けての改革に係る画期的事件だ」と報じました。
 この措置は、北京五輪閉幕後に打ち切られることになっていますが、2006年12月28日、国務院情報局(Information Office)の局長のCai Wuは、「もしこの臨時的措置の結果が良好であれば、撤回されないこともありうる」と述べたところです。
 しかし、この措置についても、広東省等でこそ、忠実に実行に移されているものの、無視している地方が少なくありません。
 2008年3月に始まったチベット騒擾を取材しようとした外国人ジャーナリスト達は、ラサ、北京、四川省の成都、青海省の西寧(Xining)、及び甘粛省の所々で妨害を受けました。また、3月17日には少なくとも香港のメディア6社がチベット地区からの即時退出を命じられましたし、4月20日には安徽省の警察がカルフールへの抗議活動を取材しようとした外国人ジャーナリスト達の記者証を取り上げました。
 (以上、
http://www.atimes.com/atimes/China/JE03Ad01.html  
(5月3日アクセス)による。)
 中共中央政府の弱体ぶりがここにも顕れている感があります。
(続く)