太田述正コラム#2632(2008.6.26)
<皆さんとディスカッション(続x176)>
<田吾作>
 すでに読まれたかもしれませんが、今月号の「ル・モンド・ディプロマティーク」(日本語・電子版)
http://www.diplo.jp/index.html
に以下のような記事があります。
DNAは誰のものか
アメリカ大統領選の欠けた争点
戦後ヨーロッパにおける「悪の問題」
 日本の新聞もこの程度の内容は書いて欲しいと思います。
<太田>
 情報提供ありがとうございます。
 今後はできたら、それぞれの記事の内容の簡単な紹介と、どこが面白かったのかを書いていただければありがたいですね。
 私は、原則英米の主要メディアしかフォローしないことにしているので、今後とも「ル・モンド・ディプロマティーク」を読むつもりはありません。(もっとも2番目と3番目の記事はフランス人ではなく、米国人が筆者ですが・・。)
 それに、私はフランス語の能力が不十分ですし、日本語版は翻訳に伴う誤訳やニュアンスのゆがみが避けられない、という問題もあります。
 私自身は、ご紹介の三つの記事のうち、「アメリカ大統領選の欠けた争点」が一番面白かったですね。
 「クリントンとオバマはアメリカのリベラル派の象徴である。リベラル派の政治倫理は、人種差別や性差別による不平等に対する否認と闘争に力を注ぐ。その一方で、差別に由来するのではなく、通常は搾取と呼ばれるものに由来する不平等は、視野の外に置いている。」というくだりには頷ける部分もあります。
 しかし、「クリントンは、「年収25万ドル以下の中産階級のアメリカ人への 課税は何一つ引き上げない」と約束した。・・・オバマもまた、年収20万ドル以下を対象とした減税措置の見直しはしないと約束した。年収15万ドル以上の世帯は7%、10万ドル以上でも18%にすぎず、年収5万ドルに満たない世帯が過半数にのぼる。年収20万ドル近くでもまだ中産階級で減税が必要だと民主党が考えるのならば、共和党のお株は奪われてしまう。 」 ということだけで、オバマも「搾取と呼ばれるものに由来する不平等は、視野の外に置いている」典型的「アメリカのリベラル派」だと断定されると、首をかしげてしまいます。
 選挙の際に増税を口にすることはどこの国でもタブーですが、にもかかわらず、オバマもクリントンも間接的に(富者に対して)増税することを示唆していること、オバマの方がクリントンより富者に厳しいことを私自身は注目したいと思うのです。
<田吾作>
 フランス軍に関する記事も目にしました。
フランス出版界を襲った異変
http://www.diplo.jp/articles03/0301.html
フランスの傭兵集団と国家政策
http://www.diplo.jp/articles03/0308-3.html
<太田>
 最初の記事は、私も近々著書が出るので、大変参考になりました。
 後の方の記事は、ちょっと整理が十分できていない感じですね。
<田吾作>
 話は代わりますが、私は宮澤賢治に興味を持ち調べた事がありますが、どうも東北地方に土地勘が働かないので賢治が生きた現実の世界と言う物が良く分かりません。「宮澤賢治殺人事件」(吉田 司著)を読んで少しは分かりましたが東北地方の全体像が把握できていません。
<太田>
 コラム#52 「東北地方論」じゃお気に召しませんか?
<田吾作>
 日本人の特徴か日本の右・左翼の特徴かは良く分かりませんが、生身の人間を「聖人化(差別化)」する傾向があり、どのような人間であれ時代状況の中での一個人にしか過ぎない(逆の面を考えると差別化したいと言う時代状況が背後に存在する)という視点が欠落していると私は考えています。
 生身の人間はその生きた時代の中で生活をしており、その人間が書いたものとは別の事柄であるという感覚が必要だと私は考えます。冷徹で非情な学問である科学の中で論理性が際立っていると考えられている数学でも実情は次のようなものです。
「・・(略)・・数学の教科書で用いられている体系的説明は、論理的一貫性に基づいていて、歴史的な流れに基づいたものではない。しかし標準的な 高校の授業や大学の数学の講義でさえ、この事実に触れられることはなく、そのため学生たちは、数の歴史的進化は教科書の章立てどおりに進んできたという印 象を持つものだ。
 こうした印象をもたらす大きな原因が、数学の中には人間的要素はないという、広く受け入れられた考え方だ。数学は足場もなしに建てられた構造で あり、それは一層一層、温かみを欠いた偉容を持って屹立していると思われている。その構造は純粋な理性を基礎としているため、欠陥は一つも持っていない。 そしてその壁面は失敗や誤りやためらいなどなしに建っており、そこには人間の直観は含まれていないので、これは難攻不落である。要するに、一般人にとって 数学の構造とは、間違いを犯す人間の心ではなく、絶対に正しい神の魂によって建てられたように思えるのだ。
 数学の歴史は、そうした考えが間違いであることを明らかにしてくれる。 そこから分かるのは、数学の進歩には一貫性がなく、そこでは直観が支配的な役割を果たしてきたということだ。中間領域が探検される前に、あるいは探検者が 中間領域に気づいてもいないうちに、遠方の辺境地が獲得された。新たな形式を作り出すのは直観の働きであり、その形式を受け入れたり却下したりするのは、 “その誕生には関わっていない”論理に認められた権利である。しかし判決はなかなか下らず、その間もその子どもたちは生きなければならない。そして、論理 にその存在が認められるのを待つ間も、それらは成長してさらに子孫を増やすのだ。・・(略)・・」
「数は科学の言葉」 トビアス・ダンツィク著 2007年 日経BP出版センター発行 P174-P175より引用
ちなみに私が賢治の作品で好きなのは「虔十公園林(けんじゅうこうえんりん)」です。
<太田>
 一般論としては、仰有る通りだと思いますが、私自身は、宮澤賢治を「聖人化(差別化)」などしていませんよ。
 彼の作品を高く評価しているだけのことです。
 「虔十公園林」(
http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/4410_26676.html
。6月26日アクセス)読み返してみました。
 思い出しましたよ。懐かしいなあ。私も大好きです。
 
 ところで、古参有料読者の田吾作さん。
 大変失礼な言い方をしてご気分を害さないで欲しいけれど、もうちょっとでコラムが書けるところまで筆力が上がってきましたね。
 この勢いで広義の科学に関わるコラムでも、お書きになってみませんか?
<雲豊>
インドで佐々井秀嶺さんと言う仏教者として活躍する日本人が居るそうです。
http://www.fujitv.co.jp/nonfix/library/2004/445.html
 太田さんが宮沢賢治に影響を受けてるとは気づきませんでした。
 いまだに彼の生前の姿(例えば国柱会への傾倒ぶりとか)に戸惑う人はいるみたいですが歴史を観る難しさを感じます。
 仏教で諦めるとは明らかに究めて問題の原因を詳らかにする意味だそうですが、僕にとって太田さんのブログで日本の闇に光が当てられると同時に見ずに済んできた、また見たくなかった問題が直視されることになり、この諦めが肝腎だと思いました。
 それと話題にするには遅すぎたのですが、チベット仏教の最高指導者であられるダライ・ラマ14世を洞爺湖サミットに招待し、中国との対話を呼びかける運動があるのを知りまして、これは実現や効果の望みはあるでしょうか?
http://fttj.org/ja/
<太田>
 実現しないでしょうね。
 何せ、米国の属国の日本の福田首相は中共のポチでもあるのですから・・。
<コバ>
矢野元公明党委員長が幹部時代に、創価学会にかかわる問題や事件をめぐって警視庁や警察庁に陳情するなど働きかけをしていたことを明らかにしました(
http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/080626/stt0806260122000-n1.htm
)。こんな公明党の力を借りてまで延命措置を続けている自民党を偏愛する方々は一体何を考えているのでしょうか?
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太田述正コラム#2633(2008.6.26)
<イラクの現状をどう見るべきか(続)>
→非公開