太田述正コラム#13396(2023.4.1)
<小山俊樹『五・一五事件–海軍青年将校たちの「昭和維新」』を読む(その21)>(2023.6.27公開)

 「・・・1931年9月18日、・・・柳条湖事件、いわゆる満州事変<が>勃発<した>。
 関東軍と連絡のあった橋本欣五郎陸軍中佐は、濱口内閣を継いだ第二次若槻礼次郎内閣が事変の不拡大を決定すると、いよいよクーデターの必要性を感じた。<(注84)>・・・
 
 (注84)「不拡大・局地解決の方針が9月24日の閣議にて決定された。しかし、陸軍急進派はこの決定を不服とし、三月事件にも関わった桜会が中心となり、大川周明・北一輝らの一派と共にこの動きに呼応する政変を計画した。・・・
 決行の日を10月24日(土曜日)早暁と定め、関東軍が日本から分離独立する旨の電報を政府に打ち、それをきっかけに政変に突入するというものであった。
 具体的には桜会の構成員など将校120名、近衛師団の歩兵10個中隊、機関銃1個中隊、第1師団歩兵第3連隊、海軍爆撃機13機、陸軍偵察機、抜刀隊10名を出動させ、首相官邸・警視庁・陸軍省・参謀本部を襲撃、若槻禮次郎首相以下閣僚を斬殺および捕縛。その後閑院宮載仁親王や東郷平八郎・西園寺公望らに急使を派遣し、組閣の大命降下を上奏させ、荒木貞夫陸軍中将を首相に、さらに大川周明を蔵相に、橋本欣五郎中佐を内相に、建川美次少将を外相に、北一輝を法相に、長勇少佐を警視総監に、小林省三郎少将を海相にそれぞれ就任させ、軍事政権を樹立する、という流れが計画の骨子となる。
 計画は先の三月事件の失敗から陸軍の中枢部には秘匿されたまま橋本ら佐官級を中心に進められた。当初、外部の民間右翼からは大川周明、岩田愛之助が加わっていたが、その後北一輝・西田税が参加した。その他在郷軍人への働きかけも行われ、鎌倉の牧野伸顕内大臣の襲撃は海軍が引き受けていた。また、大本教の出口王仁三郎とも渡りをつけており、信徒40万人を動員した支援の約束も取り付けていたし、赤松克麿・亀井貫一郎らの労働組合も動く手筈となっていた。
 『橋本大佐の手記』によれば、東郷平八郎自身もこの計画を知っており、参内・奏上に同意していたとあるが、荒木貞夫の談話では東郷は知らなかったとされ、荒木自身も計画には加わっていなかったことから、計画に挙がっていた新内閣の構想は単なる目標に過ぎず、その先の日本の政治や経済についてどのようにするかについては無計画であった。
 この計画は10月16日には陸軍省や参謀本部の中枢部へ漏れ、翌17日早朝に橋本欣五郎・長勇・田中弥・小原重孝・和知鷹二・根本博・天野辰夫といった中心人物が憲兵隊により一斉に検挙される。計画がどこから漏れたのかについては諸説あるが、根本が参謀本部の今村均に漏らしたとする説、西田が宮中に情報を売ったとする説など様々であるが、先の荒木の談話に寄れば西田が東郷へ出馬を促しに行き、その連絡を荒木にしたことから発覚したとされている。大内力は、この計画ははじめから実行に移す予定はなく、それをネタに政界や陸軍の中央部を脅迫することで政局の転換を図ることが目的であったと推測しており、事実、荒木を含めこの計画を知った軍の首脳部は事態の収拾に率先して動き、次第に政権の主導権を獲得していくこととなった。
 十月事件首謀者に対する責任の追及は、永田鉄山らによる極刑論も一部あったものの、同志の助命を橋本に嘆願された杉山茂丸が、西園寺公望に口添えを行ったり、橋本の盟友である石原莞爾が陸軍首脳部に圧力をかけたりすることで、結果的には曖昧なままにされることとなった。橋本は重謹慎20日、長・田中は同10日といった処分の後、地方や満州に転勤という軽いもの<だった。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E6%9C%88%E4%BA%8B%E4%BB%B6

⇒どうして10月事件が漏れたか、諸説があって定まらないのは、私のように、最初から(当時陸軍次官であった)杉山元がこの事件を最初から未遂で終らせる形で企画した、と見れば説明がつくでしょう。(太田)
 
 <この事件>に恐慌をきたした与党民政党と野党政友会の一部が、連立内閣を構想して緊縮財政・協調外交の転換を図ろうとしたのである。
 だが民政党内で、連立を希望した足達謙蔵<(注85)>内相と連立に反対する若槻礼次郎首相が対立、12月11日に若槻内閣は閣内不一致で総辞職した。」(84、87)

 (注85)「経済面でもかねてから金解禁の影響による経済悪化、さらに<英国>の金輸出再禁止に端を発するドル買問題を受けて、解決策を見出せず第2次若槻内閣は行き詰まりを見せていた。内相として軍部の不穏な動きを熟知していた安達はこうした状況に危機感を強めていた。また民政党内部でも自派の中野や永井は、幣原喜重郎外相の協調外交(幣原外交)に批判的だったこともあり、政友会と協力しあって連立内閣を作り、軍部とも提携して挙国一致内閣で難局を切り抜いていくことを考えた。10月28日、政権運営に自信を失っていた若槻首相から事態の解決について相談を持ちかけられた安達が協力内閣構想を若槻に示すと、若槻は軍部の台頭による政治の無力化を防ぐためにも政友会との連立は必要と考えてこれに賛同した。安達は政友会の久原房之助の合意をとりつけ、協力内閣運動の声明を発表したりして、政友会総裁の犬養毅を首班とする連立内閣の成立に向けて動いた。軍部では小磯国昭、さらに西園寺にも構想を打ち明けている。政友会では松岡洋右、秋田清、前田米蔵なども当初は協力内閣構想に積極的だった。
 しかし協調外交を主張する幣原外相と、緊縮財政と金解禁の維持を主張する井上準之助蔵相らの強い反対を受けると、当初は安達と同じ考えだった若槻は豹変して協力内閣の考えを捨ててしまう。また政友会内部でも森恪をはじめとする幣原外交に批判的な勢力も強く、11月10日の議員総会において金輸出の再禁止を強く求める声明が出るに至って、民政党と政策面で相容れる見込みは小さくなった。
 12月9日から10日にかけて安達の腹心の富田幸次郎が奔走したものの、若槻を翻意させることはできず、かえって臨時閣議で安達に内相辞職が求められることとなった。既に政友会から合意を得ていた安達の面目はつぶれ、引くに引けないまま安達は辞職を拒絶して自宅に引きこもってしまう。これで閣議は空転、12月11日若槻はついに閣内不一致を理由に内閣総辞職に至った。西園寺は協力内閣構想が不発に終わったことを知ると、次期首班には迷わず政友会の犬養毅総裁を奏薦、犬養内閣の成立となった。かねてから久原や安達の独走に懐疑的だった犬養は政友会単独で組閣したが、これを受けて安達は中野ら数十名と共に民政党から脱党した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E9%81%94%E8%AC%99%E8%94%B5

⇒安達謙蔵(1864~1948年)は、熊本藩士の子で閔妃殺害事件の実行犯の一人であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E9%81%94%E8%AC%99%E8%94%B5
秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス信奉者としてかねてより杉山元らと通じていたと私は見ており、10月事件を受けて、安達は杉山元らが希望したところの、軍部主導の総動員体制樹立を図るための挙国一致内閣樹立のために尽力したものの、実現寸前で、政党勢力主導の挙国一致内閣樹立を標榜した政治家達の抵抗の前に失敗した、というのが私の見方です。(太田)

(続く)