太田述正コラム#13400(2023.4.3)
<小山俊樹『五・一五事件–海軍青年将校たちの「昭和維新」』を読む(その23)>(2023.6.29公開)

 「・・・同じ茨城県人で、小沼と縁戚関係もある<(団琢磨を暗殺した)>菱沼が捕まったことで、走査線は一気に絞られた。
 井上日召は小沼の襲撃後、頭山秀三<(注88)>(頭山満の子)の天行会道場に身を隠していた。・・・

 (注88)1907~1952年。「東京農大卒。・・・昭和6年東亜民族の提携・武道精神の鼓吹を目的に天行会を創設、会長となる。翌年の5・15事件に際しては、海軍中尉の古賀清志、中村義雄から計画を打ち明けられ、拳銃等を調達して後援。また児玉誉士夫、岡田利年らとの独立青年社による重臣暗殺計画が判明して検挙され、禁固3年の刑を受けた。15年には大森曹玄らと日本主義青年会議を結成、のち大政翼賛会参与となる。・・・三島由紀夫の小説「奔馬」の主人公のモデルといわれる。」
https://kotobank.jp/word/%E9%A0%AD%E5%B1%B1%20%E7%A7%80%E4%B8%89-1650231

 3月11日、日召は・・・出頭した。・・・
4月29日、古賀は大川周明を訪問して「いよいよ<五・一五に>決行することにした」と言って、資金を要求した。
 大川はすでに4月3日に拳銃5丁、弾丸約150発と1500円を古賀に渡しており、今回も2000円を古賀に渡した。・・・

⇒頭山秀三/頭山満のカネの出どころはともかくとして、大川周明のカネの出どころが、杉山ら、具体的には陸軍、であったことは間違いないでしょう。(太田)

 古賀は以降の連絡を、<「民間人」である>黒岩勇に託すことを大川に告げた。・・・

⇒話は逆で、かねてより、(杉山らの指揮の下、)大川が、五・一五事件的なものを引き起こすよう、古賀に指示していて、決行日を目前にして、最終的な打ち合わせを行うと共に、資金を古賀に渡したのでしょう。(太田)

 黒岩勇(海軍予備役少尉)は、三上卓の海軍兵学校での同期生である。
 1928年に少尉任官後、砲術学校や水雷学校で技術を学んだが、病のために1929年3月予備役へ編入された。
 その後、電気を学ぶために佐賀高校理科へ入学するも、祭祀の看病などのため出席が滞り、退学となった。
 1931年1月、知人宅へ年始に行った黒岩は、偶然会った三上の紹介によって、佐世保で井上日召と面会した。・・・
 2月20日に黒岩と会った古賀は、・・・佐世保の林正義<(注89)>中尉が持っている手榴弾を、今後の上京時に持参してほしいと依頼した。

 (注89)1906~1980年。海兵56期(111名中107番)。「熊本県出身。祖父は横井小楠と親交があった人物で、父は刀工、母は神風連に関わった人物の娘である。・・・
 1931年(昭和6年)の十月事件では藤井、三上卓らと協議し抜刀隊として参加を決めたが、陸軍関係者に不信を抱き離脱した。12月、中尉に進級。国家革新を目指す意思に変わりは無く、井上日召、藤井が計画した1932年(昭和7年)2月の決起に参加を決め、使用予定の手榴弾を預かり自室に隠していた。決起間近の同年1月に第一次上海事変が生起し、同志の多くは出征。林は「事変の結末がつき、国民が国内に関心を向けたときの方が影響が大きい」と藤井を説得し、藤井は決起の延期に同意した。しかし民間同志であった井上らは単独で決起し血盟団事件が発生した。藤井は上海事変で搭乗機を撃墜され戦死し、林は藤井のノートを処分し証拠隠滅を図っている。
 血盟団事件が続く中、林は海軍法務関係者の調査を受けたが、藤井らとの関係を否定し三上、古賀らと決起を図る。5月15日を決起予定日としていたが、 陸軍の協力が期待できないとわかり、林は延期を主張した。林は佐世保、三上は呉、古賀は東京方面にあり連絡は電報によっていたが、古賀の返事は「待てぬ」というものであった。林は大庭春雄を派遣し計画を延期するよう説得を図る。しかし大庭に許された休暇は16日からで、古賀、三上らは15日に犬養毅首相を射殺した(五・一五事件)。
 林は保護検束され、東京軍法会議・・・に起訴される。同期生の浅水鉄男特別弁護人、清瀬一郎らの弁護が行われ、禁固6年の求刑に対し判決は懲役2年、執行猶予5年となり、林は失官した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E6%AD%A3%E7%BE%A9_(%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E8%BB%8D%E4%BA%BA)

 上海の海軍陸戦隊が陸軍から譲りうけた旧式手榴弾20発が、三上の手で密かに持ち出され、それを大庭春雄少尉が持ち帰り、林中尉に預けていた。
 また、上海に出征して、負傷した伊東亀城少尉が持ち帰った手榴弾1発も、林中尉が持っていた。・・・
 黒岩は、・・・手榴弾を東京に送って、トランクのまま知人宅に預けて保管した。・・・

⇒帝国海軍における、にわかに信じられないほど杜撰な武器保管ぶりです。(太田)

 決起が近づき、地方にいる海軍同志を呼び寄せる資金が必要となった。・・・
 古賀は黒岩に、大川周明から軍資金2500円をもらうよう求め、手紙を託した。
 翌5月9日、黒岩は・・・大川を訪ねたが不在であった。
 古賀に拳銃5丁を渡し<てい>た大川は、入手先のアリバイを作るため5月1日に満州へ渡っていた。・・・13日朝、黒岩は三たび大川の屋敷を訪ね、満州から帰還していた大川から2500円を受け取った。・・・

⇒黒岩が大川と一度会えなかったのは、ちょっとした手違いというやつでしょう。
 繰り返しますが、大事なことは、合法非合法を問わず、カネを確保して渡す者を、基本的に事業の首謀者だと見なしてよい、ということです。(太田)

<結局、>決起のために集めた武器は、拳銃13丁、手榴弾21発、ほかに短刀が15口程度。
 手榴弾は・・・黒岩が保管・・・。
 拳銃の出所は、大川周明から5丁・・・、本間憲一郎(天行会理事)から6丁、村山格之が2丁を調達した。
 古賀は頭山秀三に武器調達を依頼したが、秀三を表に出さないように、本間が受け渡しを担当したのである。・・・
決行前日<、>三上卓の乗った列車は、5月14日朝9時40分に横浜駅へ着いた。
 黒岩勇は三上を迎え、大川周明の紹介した東京駅裏の旅館龍名館に向った。

⇒こんなことまで、大川が面倒を見ていたことに注目しましょう。(太田)

 三上に計画書を見せた黒岩は、武器弾薬をトランクに入れて同旅館に運び込んだ。
 そして2人はトランクを手に上野駅へ向かい、午後4時に土浦から上京した古賀清志・中村義雄を迎えて、4人で芝の水交社に行った。
 <そして、>トランクを押入にいれ<た。>」(95、106~108、110、113~114)

(続く)