太田述正コラム#13418(2023.4.12)
<小山俊樹『五・一五事件–海軍青年将校たちの「昭和維新」』を読む(その32)>(2023.7.8公開)

 「私心なきなき青年の純真」という被告イメージが形成され、その主張である「政党による軍部の圧迫」「政党・財閥ら支配層の腐敗」「農村の窮乏」といったトピックが、裁判報道の名目で大量にメディアから流れ始めた。
 これはつまり、陸軍側のメディア・キャンペーンである。・・・ 
 陸軍側公判は8回にわたり、8月19日に論告求刑が行われた。
 匂坂検察官は、被告らに反乱罪で一律禁固8年を求刑した。
 同罪は「首魁」を死刑、謀議者や群衆指揮者も死刑のみと、厳しい量刑を定める。
 だが、論告のなかで、元士官候補生らは犯罪の指導的立場になく、「諸般の従事したる者」(3年以上の有期刑)に該当するとされた。
 そのうえで匂坂検察官は、被告らの性質や素行には一点の非の打ちどころもなく、また一点の私心も認められないと褒め称えた。
 支配階層への批判が「広く世上に流布」されていたので、被告らがこれを信じたのは少しもおかしくない、とかえって弁護する姿勢も見せた。<(注108)>・・・

(注108)「1883年(明治16年)に制定された陸軍治罪法(海軍治罪法は翌年)では、法律の素人である軍人に軍法会議の法的補助を行う文官として理事(海軍では主理)が制定された。しかし、理事では軍法会議の審理に参画することが出来ず、制約も大きかった。
 1922年(大正10年)施行の陸軍軍法会議法・海軍軍法会議法が制定されたことによって、軍法会議に専従する文官として法律面で補佐する法務官が勅令によって新たに制定された。軍法会議法によって法務官は軍法会議内で裁判官や検察官の役割が付与され、一般の裁判官同様身分保障がなされるなど組織内で立場が上がった。これは軍の統帥権に対して司法権の独立がより明瞭になり、法的安定性が増したことを示している。また、1937年(昭和12年)の日中戦争の勃発による戦線の拡大により、外地で開廷される軍法会議の数と審理数が増えていった。
 太平洋戦争が勃発する直前の1941年(昭和16年)から終戦の1945年(昭和20年)まで、毎年軍法会議法が改正され続けた。特に1942年(昭和17年)の改正では、軍の統帥を理由にこれまで文官であった法務官は武官たる陸軍法務部将校・海軍法務科士官と従来の文官身分から武官身分へと変更され、司法権の独立について定めた条項が審判への不干渉を定めたもの以外は全て削除された。・・・
 戦争遂行における統帥権の下に司法権を組み込むことによって司法判断にも統帥の要求を通しやすくしようと法務官の武官制移行を推進していた武藤章軍務局長に、当時の法務局長が同調し・・・た<ものだが、>・・・軍組織の中では文官である法務官の意見が軽視されやすいことから「軍人」となることで軍の暴走を止めることができるとして武官制移行を肯定的に見る法務官もいた。・・・
 著名な法務官出身者・・・
 寺田治郎 – 最終階級は陸軍法務大尉。戦後に第10代最高裁判所長官となる。・・・
 宮崎梧一 – 最終階級は海軍法務中尉。戦後に最高裁判所判事となる。
 坂上壽夫 – 最終階級は海軍法務中尉。戦後に最高裁判所判事となる。
 栗栖弘臣 – 最終階級は海軍法務大尉。戦後に統合幕僚会議議長たる陸将となる。
 大橋進 – 最終階級は海軍法務中尉。戦後に最高裁判所判事となる。
 島谷六郎 – 最終階級は海軍法務大尉。戦後に最高裁判所判事となる。
 矢口洪一 – 最終階級は海軍法務大尉。戦後に第11代最高裁判所長官となる。
 羽田野忠文 – 最終階級は海軍法務大尉。戦後に衆議院議員を4期務めた。
 井上正治 – 最終階級は海軍法務大尉。戦後に九州大学教授、名城大学教授を務めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E5%8B%99%E5%AE%98_(%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%BB%8D)

 海軍側公判は、陸軍よりも1日早い7月24日に・・・高須四郎判士長<の下で>・・・開廷した。・・・
 公判で三上卓らがめざした「真意」の訴えは、大きな反響を呼んだ。・・・
 以降8月末にかけて、被告らに同情し、減刑運動の広がりを伝える内容が、各紙によってしばしば報道された。・・・
 被告らの行動は、・・・まるで浪花節の主人公であるかのような戯曲や、「昭和維新行進曲」<(注109)>と題するレコードまでがつくられた。

 (注109)作詞:畑中正澄 作曲:坂東政一 歌唱:黒田進
http://gunka.sakura.ne.jp/uta/515.htm
https://www.youtube.com/watch?v=8Vl1oRv98ug
 上掲は陸軍用であり、海軍用の昭和維新行進曲もあった。(上掲)
 作詞・作曲:畑中正澄 歌唱:黒田進
https://www.youtube.com/watch?v=vmz34EcXbvI

 世論の盛り上がりの背景には、公判報道の盛り上がりから、支持者の獲得をめざす右派団体の活動が活性化したことが挙げられる。・・・
 しかも運動は右派諸団体の枠組みにとどまらなかった。
 ・・・「純真なる意味の自発的嘆願運動」が続発し、・・・その他、政党では国民同盟の各支部、企業では星製薬会社などの運動もみられた。
 <結局、寄せられた減刑>嘆願書は・・・9月末までに70万通を超えた。・・・
 三上卓が作詞した「青年日本の歌(昭和維新の歌)」<(注110)>も、公判報道を機会に広く知られるようになった。・・・」(188~189、201~203)

 (注110)作詞・作曲:三上卓(1930年)
 「歌詞中の詩句の多くは土井晩翠と大川周明の著作から剽窃、無断引用されている。・・・
 歌詞冒頭の「汨羅」は、屈原が国を憂いて投身した汨羅江であり、これに続く「巫山の雲」とは、一般に男女の契り、すなわち性行為を表す慣用句である。・・・
 1936年禁止となった。歌詞が暴力を煽って、昭和天皇の不満を招いたことが原因とされる。」
 (但し、最後の一文の典拠は中共の出版物。)
https://www.youtube.com/watch?v=l21_3GzH914

⇒海軍側の論告求刑は9月11日であり(205)、それよりも3週間早い、この陸軍側の論告求刑、によって世論の動向が決定的になったところ、全ては(そもそも、五・一五事件自体も引き起こしたところの)杉山元らの目論見通りに事態は進行した、と、言ってよいでしょう。(太田)

(続く)