太田述正コラム#13422(2023.4.14)
<小山俊樹『五・一五事件–海軍青年将校たちの「昭和維新」』を読む(その34)>(2023.7.10公開)

 「・・・古賀清志・三上卓・黒岩勇の三被告に死刑が求刑されたことは、一般国民の世論に大きな衝撃をもたらした。・・・
 海軍側論告に続いた、9月19日の陸軍側判決が、全員求刑よりもさらに軽い禁固4年であったことも、拍車をかけた。・・・
 ただし判決への影響に関してみれば、世論の高揚は、あくまで間接的な影響にとどまった。
 海軍側の軍法会議が「海軍独自の権威」で成り立っている以上、判決と言う結論は、海軍部内の動きで決まる。
 焦点は海軍内部の議論自体が、やはり二つに割れていたことにある。
 公判での被告の主張に、反発もあれば、賛同もあった。
 特に被告がロンドン海軍軍縮条約を批判している点は、海軍内の条約賛成と反対の意見対立を再燃させ、不安な状勢を引き起こす火種となり得るものであった。・・・
 9月18日、・・・加藤寛治海軍大将(軍事参議官)・・・<と>東郷平八郎・・・の両名と会って論告につき意見を述べた・・・小笠原長生<(注115)>(ながなり)・・・は、翌19日、大角海相と会い「五一五事件フンキフ善後策」について「協議」した。

 (注115)1867~1958年。子爵。海兵14期(45人中35位)。「江戸幕府老中を務めた小笠原長行の長男<。>・・・大正3年(1914年)4月から大正10年(1921年)3月まで、皇太子裕仁の教育を担う東宮御学問所幹事を務める。総裁だった東郷平八郎と親しくなり、その伝記や大衆向け戦記小説『撃滅 日本海海戦秘史』などの刊行で東郷の神格化に拍車をかけた。・・・
 、大正10年(1921年)4月に予備役編入となり宮中顧問官に就任。昭和20年(1945年)11月まで在任した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E9%95%B7%E7%94%9F
 「<父>小笠原長行<は、>・・・肥前唐津藩世嗣<だったが、>・・・養父・長国から養子関係を絶縁されても、最後まで譜代の家臣として幕府に忠誠を誓った。・・・明治24年(1891年)1月25日、駒込の自邸で死去した。・・・墓所は元は天王寺(東京都台東区)の谷中霊園であったが、後に子の長生により日蓮宗の妙祐山幸龍寺(世田谷区北烏山)に改葬された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E9%95%B7%E8%A1%8C
 長国<は、>・・・明治6年(1873年)9月に隠居し、長行<と自分の娘の直子>の長男・長生に家督を譲る。明治10年(1877年)4月23日、66歳で死去した。墓所は東京都世田谷区北烏山の<日蓮宗>幸龍寺(以前は東京都台東区谷中の<天台宗>天王寺)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E9%95%B7%E5%9B%BD

⇒唐津小笠原家の菩提寺は唐津の臨済宗の近松寺である
http://www.karatsu-kinshoji.jp/
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E9%95%B7%E5%92%8C
ところ、長生の祖父の長国も父の長行も、臨済宗の墓所には入っていませんでしたが、わざわざ長生が両者の墓所を日蓮宗の同じ幸龍寺に移しているということは、長生が、父の死後、或いは、祖父の死後、日蓮宗に改宗したということでしょう。
 (当然、長生の墓所も幸龍寺にあります。
https://hakamiler.blogspot.com/2017/06/blog-post_26.html )
 恐らく、長生は、東郷の謦咳に接し、東郷の日蓮主義と共にその日蓮宗信仰も「継受」したのでしょう。
 (「鎌倉武士の血筋であり先祖代々日蓮宗の崇敬者であったことから東京都府中市の東郷の別荘跡地には海軍関係者が中心となって日蓮宗寺院聖将山東郷寺が建立され現代では枝垂桜の名所となっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E9%83%B7%E5%B9%B3%E5%85%AB%E9%83%8E )
 このような背景の下、長生は、東郷の重宝なるメッセンジャーとして使われていた、と見ればよさそうです。
 また、下出の南郷と千坂は、(どちらも皇族付武官を務めたことのある)メッセンジャーの従者達といったところでしょうね。(太田)

 協議といいつつも、この時の小笠原は、かなり強硬に首脳部の更迭を要求したらしい。
 大角は躊躇した。
 だが最終的に、山田法務局長を辞めさせることで同意したという。
 そして9月23日、小笠原は南郷次郎<(注116)>予備役少将、千坂智次郎後備役中将と大角海相の自邸を訪ね、「陸海軍青壮年将校の不穏の情況」を訴えて「種々協議の結果」、満州へ赴いた小林省三郎少将を中央に戻し「海軍省兼軍令部出仕」とすること、および「五・一五事件の被告を有期とすること」などを「決定」した。

 (注116)1876~1951年。海兵26期、海大8期。「<旧加賀藩士>の長男として生まれる。・・・東伏見宮依仁親王付武官<等。>・・・講道館の創始者である嘉納治五郎の甥である縁から、海軍退役後に講道館第2代館長を務めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%B7%E6%AC%A1%E9%83%8E
 (注117)1868~1936年。海兵14期。「米沢藩士・・・の二男<。>・・・有栖川宮威仁親王)付武官、・・・東宮武官<等。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E5%9D%82%E6%99%BA%E6%AC%A1%E9%83%8E

 南郷少将や千坂中将は、小笠原と意見の近い予備後備役の将官であり、小林少将は故藤井斉少佐らとの交流が深く、海軍内の維新運動に理解を示していた。
 そして何より、死刑を求刑された被告を「有期とすること」が、小笠原をまじえて決められていることは注目される。
 判決は判士間の協議で決められるべきものであったが、大角海相が量刑にまで関与し、さらに背後には青年将校の不穏行動と、それを前提とした条約反対派の行動が見られたのである。
 翌9月24日、千坂中将は加藤大将に「大角と予等同志の結束成る」と告げている。」(208~212)

⇒大角自身も含めて、全員、同じ穴の狢であり、文字通り、善後策を協議して取り決めただけのことでしょう。(太田)

(続く)