太田述正コラム#13442(2023.4.24)
<太田茂『新考・近衛文麿論』を読む(その2)>(2023.7.20公開)

 「・・・蒋介石の姿勢と対応は現地の宋哲元<(コラム#10905)>らの妥協的対応とは全く反し、これを否定するものだった。・・・
 前年の西安事件以来の国共合作、抗日を強く主張する共産党やその支持勢力増加の下で、もはや従来の妥協的な対日姿勢は許されなくなっていた。・・・
 共産党の動きは驚くほど速かった。・・・
 事変勃発翌日の7月8日、共産党は、早くも、・・・激しく抗日戦を訴えた。
そのころ行われていた廬山会議<(注2)>で、17日、周恩来、馮玉祥<(注3)>らは、蒋介石に対日開戦を迫った。・・・

 (注2)「江西省北部の廬山で開かれた会議の総称。主なものに、盧溝橋事件直後に対日抗戦を決めた国民政府の会議や一九五九年に当時の国防部長彭徳懐らを解任した中国共産党中央八期八中全会がある。」
https://kotobank.jp/word/%E5%BB%AC%E5%B1%B1%E4%BC%9A%E8%AD%B0-152753
 (注3)ふうぎょくしょう(1882~1948年)。「<外国滞在経歴なし。>クリスチャン<。>・・・
 <中国国民党の、>中国共産党との関係改善、聯共路線の堅持を主張し<てい>た。・・・日本軍に勝利した後には、馮玉祥は蔣介石に対して<共産党との>内戦を回避するよう呼びかけ続けた<。>・・・
 1948年・・・1月、李済深らが香港で中国国民党革命委員会(民革)を結成すると、馮玉祥もこれに加入し、中央政治委員会主席兼駐米代表に任ぜられた。ここに至り、ついに蔣介石は馮玉祥を国民党から除名し、<米国>政府にも馮玉祥追放などの対応を要請している。<米国>政府は馮玉祥を懐柔しようと、反共路線に転じた場合は資金・武器の提供を行うなどの提案を行ったが、馮玉祥はこれを拒否した。
 1948年・・・7月末に、馮玉祥は帰国を決断し、ソ連船に乗って<米国>を離れた。ところが9月・・・、黒海沿岸のオデッサ付近で船が火災に遭い、馮玉祥も巻き込まれて死亡した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AE%E7%8E%89%E7%A5%A5
 李済深(りさいしん、リー・ジーシェン。1885~1959年)。「<外国滞在経歴なし。>1924年・・・に黄埔軍官学校が成立すると、李済深は教練部主任に就任し、後に副校長に昇進した。・・・
 1927年・・・4月12日の上海クーデターでは、李済深は蔣介石を支持し、中国共産党の粛清に協力した。その後も、李は北伐の継続を支援し、国民革命軍の勝利に貢献した。しかし、次第に・・・蔣と激しく対立するようになる。・・・
 1949年・・・10月1日に中華人民共和国の建国が宣言されると、李は中央人民政府副主席に就任した。1954年9月に開催された第1期全国人民代表大会第1回会議では、常務委員会副委員長に選出されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E6%B8%88%E6%B7%B1

 23日には、毛沢東及び中央委員会名で、抗日戦線の結成、日本との妥協条件の拒否、即時武力発動を全国に呼び掛けた。
 このような国共が一枚岩となった抗日機運の激しい盛り上がりの状況の下で、日本軍の侵略に弱腰の対応をすることは、蒋介石や国民党の政治基盤を根本から揺るがすものだった。
 蒋介石が、塘沽協定、梅津何応欽協定、土肥原秦徳協定を「竹のようなしなやかさ」で受け入れざるを得なかった当時の状況は完全に変化していたのだ。
 それを見抜けていなかったのが日本陸軍と<日本の>為政者だった。」(39~41)

⇒私は、杉山元らが、第一に蒋介石政権を叩いて弱体化させて中国共産党(毛沢東)に支那の権力を掌握させるため、第二に英米に蒋介石政権への支援を「強いる」ことで日本の南方進出と対英米開戦の口実を作るため、に、蒋介石を日本との戦いへと追い込んだ、と、見ている(コラム#省略)ところ、西安事件も盧溝橋事件も、杉山元らと毛沢東らがそれらの目的ために共謀して出来させたと考えている(コラム#省略)わけですが、私がいまだに解明できていないのが、西安事件を通じて、毛沢東らが、蒋介石のどんな弱みを握ったのか、です。
 というのも、1936年10月の西安事件での拘禁から解放条件として蒋介石が第二次国共合作を飲んでいた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%AE%89%E4%BA%8B%E4%BB%B6
とはいえ、そんなものは、自身の解放後、反故にすればよかったはずですし、いくら、西安事件の時にはスターリンが息子の蒋経国を事実上人質に取っている状態であったのですぐ反故にはできなかったという可能性はなしとはしないけれど、翌1937年7月に日支戦争が始まった直後の12月には、経国は解放されて蒋介石のもとに帰っている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%94%A3%E7%B5%8C%E5%9B%BD
にもかかわらず、その後も、蒋介石は、第二次国共合作を反故にすることなく、日本との和平を一貫して拒否し続けたことからして、それ以外の致命的な弱みを毛沢東らに握られていたはずだからです。(太田)

(続く)