太田述正コラム#13464(2023.5.5)
<太田茂『新考・近衛文麿論』を読む(その13)>(2023.7.31公開)

「・・・要するに、近衛は・・・汪兆銘工作と、蒋介石との直接和平交渉との二股をかけていたのだ。
 現に、当時、影佐らの汪兆銘工作と並行して、陸軍<参謀本部>ロシア課が派遣した小野寺信<(注29)>大佐による重慶との直接交渉が進められていた。

 (注29)「1938年(昭和13年)6月、・・・ラトビア公使館附武官<から>・・・参謀本部ロシア課に復帰。その直後に発生した張鼓峰事件の対処にあたった後、同年10月、中支那派遣軍司令部附として上海に派遣される。当時中国大陸で進行中であった日華事変の収束策として、参謀本部の支那課は汪兆銘政権の樹立による和平交渉を検討していたが、ロシア課は対ソ防衛のためには事変を早期終結させるべきと考えており、小野寺は武漢に籠る蔣介石との直接の交渉を企図する。小野寺は市内のアスターハウスホテルに事務所を置き、自前の特務機関を構えた。メンバーには軍人は一人も含まれず、共産党転向者を中心に20人ほど採用した。1939年(昭和14年)5月、香港において板垣征四郎陸相と国民党の呉開先組織部副部長との直接会談を行う根回しを行うが、汪兆銘工作を進めていた影佐禎昭の巻き返しにあい、通らなかった。6月には本国へ戻された上で陸大教官に就任、事実上の左遷となった。同年8月、陸軍歩兵大佐に進級した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E5%AF%BA%E4%BF%A1

 上海の東亜同文書院に派遣されていた近衛の息子文隆<(注30)>が、父文麿の口添えにより、小野寺と連携してこの工作を進めていた。

 (注30)近衛文隆(1915~1956年)。プリンストン大中退。「1938年(昭和13年)に帰国し、父の秘書官となる。
 翌1939年(昭和14年)、東亜同文書院講師、兼学生主事・・・に就任して上海へ赴く。上海では蔣介石との直接交渉の必要性を感じ、政府要人の娘と交際してその手引きで重慶に向かおうとして憲兵隊に捕まり、閣議でも問題視されたため帰国。帰国後も青年同志会という組織を作って直接交渉を主張した。そのため軍部から問題視され、1940年(昭和15年)2月に召集され、満州阿城砲兵連隊に入隊。幹部候補生考査に合格して陸軍中尉まで昇進した。
 太平洋戦争のさなか、貞明皇后の姪・大谷正子(浄土真宗・京都西本願寺・大谷光明の娘、1924-2017)と1944年(昭和19年)にハルビンで結婚。1945年(昭和20年)8月15日、満州で終戦を迎え、・・・シベリア抑留<中死去。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E6%96%87%E9%9A%86

 しかし、政治力に勝った影佐らは、小野寺工作を妨害し、小野寺は失意のうちに帰国することとなった。」(100)

⇒「梅機関の性格について,影佐は次のように述べている。「梅機関を単に陸軍のみの機関なるかの如く解する者のあるのは誤りである。抑々我々の工作は五相会議の指示に依つて開始したものである」。梅機関には陸軍だけでなく,海軍や外務省・興亜院からも派遣された者があり,民間からの参加者・協力者もあった。影佐の指揮権は陸軍軍人に及ぶだけで,他省庁や民間から加わった者は,それぞれ派遣元の指示・命令に従った。陸軍軍人は陸軍の機密費等で賄われたが,他省庁や民間から来た者の経費は,それぞれの派遣元が負担した。この意味で梅機関は軍人と官僚と民間人の「協力合議体であり同志の集合体である」
https://spc.jst.go.jp/cad/literatures/download/13181
というのですから、梅機関は実質内閣の機関であって、同機関を主管した陸軍では陸軍省と共に参謀本部(支那課)も所管していたとはいえ、陸軍だけのプロジェクトであった小野寺工作を参謀本部(ロシア課)が主管/所管したからといって、参謀本部が精神分裂を起していたというわけではなさそうですが、当時の参謀本部は多田駿次長が閑院宮参謀総長の下で事実上取り仕切っていて、「1938年(昭和13年)1月15日の大本営政府連絡会議では、・・・ただ一人、和平工作の打ち切りに反対する多田の抵抗によって夕刻まで<会議が>続<き、>政府側は、内閣総辞職を何度も示唆することで多田<を押し切ったものの、>・・・8月に石原莞爾が満州から帰国したのを機に、<今度は>多田と拡大派の陸軍次官・東條英機との対立が深刻化する」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E7%94%B0%E9%A7%BF
、という具合に、政府部内、陸軍部内、のどちらでも、圧倒的だった杉山元ら勢力、に対する参謀本部の多田の抵抗が続いていた中で、参謀本部(多田)の方も、杉山元らと同様、近衛を利用しようとした、ということでしょう。
 ところで、「1939年(昭和14年)8月、平沼内閣が総辞職し、後継首相は阿部信行大将となった。阿部内閣の組閣時、・・・第3軍司令官に転出<していた>・・・多田<が>板垣陸相の後任として陸軍三長官会議で陸相候補に決定した<けれど、>・・・昭和天皇は新聞報道で磯谷と多田が新陸相候補に挙がっていることを知り、阿部に「新聞に伝えるような者を大臣に持って来ても、自分は承諾する意思はない」と述べ<、かつ>・・・「「陸相には畑(俊六)か梅津(美治郎)を」との思し召しがあった」<ことで、多田が畑俊六に差し替えられた>」(上掲)というようなことが、一体どうして起こったのでしょうか。
 まず、板垣には杉山構想そのものは開示されていなかったのだろうということが前提です。
 だからこそ、対英米戦に繋がりかねない日支戦争の継続に板垣は内心反対だったけれど、東條次官等、陸軍省内の主要ポストには杉山構想を開示された者や杉山らの指示に従う者達ばかりが就いていたために、動きがとれず、小野寺工作にも乗ってやる程度のことしかしてやることができなかったので、多田の苦労に報いると共に多田に日支戦争を終わらしてもらうべく、三長官会議で次期陸相に多田を指名した、と。
 参謀総長は、つい最近まで多田の上司であった閑院宮ですからこの指名に反対する理由はありませんでしたし、教育総監の西尾寿造は、賛否が言えるような陸軍中央での経歴の持ち主ではなかった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%B0%BE%E5%AF%BF%E9%80%A0
のでそれで決まったのでしょう。
 この成行に驚愕した杉山元らは、西園寺公望を通じて内大臣の湯浅倉平
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%AF%E6%B5%85%E5%80%89%E5%B9%B3
をして、板垣と石原莞爾が首謀者としてやってのけた満州事変当時から板垣を嫌っていたところの、昭和天皇、に、さんざん優柔不断な板垣の悪口を吹き込ませることで、天皇自身に板垣の多田陸相案を粉砕させ、その一方で、(当時北支那方面軍司令官をしていた)杉山
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E5%85%83
自身が、電話で、次長時代に仕えたことのある閑院宮に鈴をつけ、かつまた、陸大同期の西尾寿造
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%8D%92%E6%A5%AD%E7%94%9F%E4%B8%80%E8%A6%A7
にも仁義を切る、といった形で、杉山及び西尾と陸大同期である畑俊六(上掲)、を再度の三長官会議で指名差し替えをさせることに成功したのでしょう。(太田)

(続く)