太田述正コラム#13466(2023.5.6)
<太田茂『新考・近衛文麿論』を読む(その14)>(2023.8.1公開)

「・・・大政翼賛会は、議会主義、政党政治を崩壊させ、ついには東條内閣の下で軍国主義推進の精神運動の道具となってしまった。

⇒衆議院も貴族院も廃止されたり機能を停止させられたりしたことがないのに、一体いつ、日本で議会主義が崩壊させられたというのでしょうか。
 また、政党政治の崩壊とは、一体、何を指すのでしょうか。
 憲政の常道が挙国一致内閣にとってかわったのは有事だからある意味当然であり、また、そんなことを言いだしたら、同時期のイギリスでも挙国一致内閣でしたから、政党政治が崩壊していたことになってしまいます。
 より根本的なことを言うと、そもそも、日本に、階級/階層的なものがなく地域の違いもない以上、果して欧米的な政党政治が成り立つ基盤があるのか、ということもあります。
 実際、戦前の政友会や民政党を始めとした諸合法政党や戦後の諸政党の間に、基本的な内外政策の方向性に有意味な違いなどないように私には見えるのですが・・。(太田)

 <この>大政翼賛会は、近衛なくしては生まれなかった。・・・
 近衛としては、軍部を抑えることができる強力な政治の新体制は、国民各層からの自発的な国民運動、政治運動の盛り上がりによって初めて実現できると考えていた。
 しかし、近衛が1940年6月24日、枢密院議長を辞任したときから、近衛を戴く政治新体制運動<(注31)>にそれぞれの思惑から乗り遅れまいとする各政党がなだれをうって自ら解散してしまった。

(注31)「「新体制運動」が進められた背景には、「<ソ連型の>社会主義運動の広まり」と、「<欧州等における>全体主義の台頭」が挙げられる。当時、欧州の一部の国々、とりわけソビエト連邦、イタリア王国、ナチス・ドイツで、一党独裁による「挙国一致体制」が進められていた。世界恐慌から通ずる情勢不安において、これらの国々が経済成長(不況脱却)を果たしているかのように見受けられたことから、・・・<広義の>全体主義こそが今後の世界の指針になりうると考えられた。また、日本に先行して全体主義体制の確立を試みていた満洲国(1932年建国)の満洲国協和会も、新体制運動に影響を与えていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E4%BD%93%E5%88%B6%E9%81%8B%E5%8B%95
 「1940年4月以後の<欧州>西部戦線におけるドイツ軍の大勝利を契機に、新体制運動の機運が高まってきたが、これに対する各勢力の要求はさまざまであった。陸軍と革新右翼はナチス流のファッショ的一国一党を主張し、観念右翼は国民精神総動員運動方式を強調し、町内会と部落会を握る内務官僚は、観念右翼に同調しつつ新体制を行政補助機関化しようと画策した。また既成政党は解党して新体制のなかで指導権を確保しようとねらい、財界は新体制に期待しつつも、革新官僚の立案した経済新体制案には反対するというありさまであった。
 1940年6月24日近衛が枢密院議長を辞任して新体制運動への挺身を表明すると、運動は一挙に盛り上がった。しかし各勢力間の調整に苦しんだ近衛は、「新体制は近衛幕府の再現である」という観念右翼の批判に屈して新党構想を放棄し、全政治勢力を無原則のまま丸抱えにするという新体制構想に移行した。その間、陸軍と革新右翼は、現状維持的な米内光政内閣打倒と近衛内閣成立に狂奔し、7月22日第二次近衛内閣が成立した。」
https://kotobank.jp/word/%E6%96%B0%E4%BD%93%E5%88%B6%E9%81%8B%E5%8B%95-82190

⇒戦間期の国内外情勢の不安定化を背景として、世界の主要諸国で高度の総動員体制の構築が課題になっていた、ということも、著者には、改めて指摘して欲しかったところです。
 総動員体制には当然のことながら国民の動員が伴うわけですが、そのためには、社会や経済のみならず政治の動員だって必要になるわけですからね。(太田)

 陸軍では、<軍務局長の>武藤章を始めとして、近衛を戴き、背後から操って、ナチス的な親軍政党を作ろうともくろんでいた。
 そのため、陸軍は画策し、畑陸軍大臣を辞任させることによって米内内閣を倒してしまった。」(101~102)

⇒当時の帝国陸軍も、当然、政治の動員だって目論んでいた、ということでしょう。
 「1940年(昭和15年)7月<に>・・・畑<に>・・・陸相を辞任するように迫<ったのは>・・・参謀総長<の>閑院宮」であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%91%E4%BF%8A%E5%85%AD
「実務にはあまり関与<しなかった>」彼がそんなことをやったのは、同年10月3日に後任の参謀総長に就任するところの、杉山元
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%91%E9%99%A2%E5%AE%AE%E8%BC%89%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B
・・北支那方面軍司令官を1939年(昭和14年)9月12日に辞任してからは靖国神社臨時大祭委員長をしていたが、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%94%AF%E9%82%A3%E6%96%B9%E9%9D%A2%E8%BB%8D
https://note.com/songtenor0506/n/nf7912f664c13
近衛文麿に何がなんでも再度首相をやらせようとしていた・・の依頼を受けてのものだったと私は見ています。
 なお、武藤章は、関東軍勤務の時の内蒙工作への従事、参謀本部第3課長(編成動員担当)の時の盧溝橋事件での強硬策の主張、中支那方面軍参謀副長の時の南京攻略の積極的主張、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%97%A4%E7%AB%A0
を買われて、当時の山脇正隆次官
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%97%A4%E7%AB%A0
が、前任次官で陸軍航空総監をしていた東條英機
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8B%E5%8B%99%E6%AC%A1%E5%AE%98%E7%AD%89%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%A2%9D%E8%8B%B1%E6%A9%9F
の指示を受けて1939年(昭和14年)9月に軍務局長に起用したのでしょうが、対英米開戦に反対したり、開戦後その早期終結を主張したり、ゾルゲと濃厚な付き合いをしていたり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%97%A4%E7%AB%A0
からして、私は、武藤には最後まで杉山構想は開示されなかったと見ています。(太田)

(続く)