太田述正コラム#13470(2023.5.8)
<太田茂『新考・近衛文麿論』を読む(その16)>(2023.8.3公開)

 「・・・近衛は、当初は三国同盟に乗り気ではなかった。
 しかし、松岡の、同盟締結がアメリカに対する牽制効果が大きいとの主張や、ソ連を引き入れて4か国条約とする構想についての強硬かつ巧みな弁舌に乗せられ同盟締結に舵を切ることになった。・・・
 また、近衛のブレーンであった昭和研究会<内において>・・・は、蒋介石を唯一の中央政権と認めて中国領土主権の尊重、民族の統一、近代化の推進助長の立場に立ち、対中国政策を根本として日支及び東洋の安定を図り、然る後に世界の流れに対処すべきだとの考え方と、高橋亀吉<(コラム#13245)>のように、中国の無能力、非近代性を強調し、分割統治する方が得策で、三国同盟にソ連を加えた新しい世界体制が必要とする考え方との激論があったが、大勢は反対説で、研究会は平沼内閣の末期に、軍に三国同盟反対の意見書を提出した。・・・

⇒前者は蒋介石政権の阿Q性を等閑視しているので話になりませんが、高橋もまた、(中国共産党のことが全く視野に入っていないことについても、独ソの相容れなさに考えが及ばなかったことについても、咎めないことにしたとしても、)日本とソ連が提携できると考えていた点でアウトです。
 結局のところ、現役や退役の軍人、とりわけ、陸軍の軍人、がメンバーに一人もいなかったことが、昭和研究会がまともな形で日本の対外政策に取り組むことを不可能にしてしまっていた、と思います。(太田)
 
 <とまれ、>同盟締結に舵を切った近衛は、<1940年>9月16日に緊急閣議を開いたが、松岡の独り舞台で誰も反対意見を述べず、同盟締結の閣議決定が行われた。
 近衛がそれを天皇に奏上すると、天皇はなおも憂慮し、「万一日本が敗戦国になった場合、いったいどうだろうか、そのような場合近衛も、自分と労苦を共にしてくれるだろうか」と近衛に言った。・・・
 三国同盟は9月19日の御前会議で決定され、27日、ベルリンで調印に至った。
 御前会議で<は原嘉道(コラム#10081)>枢密院議長<から>「本条約は米国を刺激し日本に対する経済圧迫が強化されて困らぬか」との質問<がなされている。>

⇒三国同盟締結がやがて対英米戦をもたらす可能性が大であるくらいは、英米のことにある程度通じている日本人であれば分かったであろうことが、昭和天皇や原枢密院議長の懸念表明から窺えるだけに、近衛の見識の無さと無責任さが際立ちます。
 というか、そういう人物であることを見込まれたからこそ、杉山元らは、近衛を一度ならず二度までも首相に据えたわけですが・・。(太田)

 1941年6月22日、電撃的な独ソ戦が開始された。
 これは、独ソ不可侵条約の締結に続く二度目のドイツの裏切り行為だった。
 激昂した松岡は、対ソ戦開始を主張したが、陸軍もそこまでの決意はできなかった。<(注35)>

(注35)「6月6日に独ソ戦が間もなく始まるという知らせが届くと、陸軍参謀本部の幕僚たちはすぐ南方武力行使を唱え始めた。陸軍軍務局にもそうした動きが見られ、・・・14日には陸軍案としてまとまった。」
https://ah.nccu.edu.tw/bitstream/140.119/33311/6/55601006.pdf
 「<結局、政府としては、>独ソ戦がドイツにとって 「極めて有利」 に展開する場合には、 武力を行使するということ」になった。
https://www.archives.go.jp/publication/archives/wp-content/uploads/2015/03/acv_27_p24.pdf

⇒杉山元参謀総長下の参謀本部も東條英機陸相下の陸軍省も、杉山構想の下、アジア解放/対英米戦を念頭に置いた南進にしか興味はなかったことが良く分かります。(太田)

 近衛は三国同盟締結の前提だったソ連を含む4国の連携策が不可能となったことから同盟破棄の検討を陸海相に文書で申し入れたが、松岡は問題にせず、軍部もドイツの破竹の進撃に目がくらんで独ソ戦は3~4か月で片付くと思い込み、同盟破棄の検討<に>は応じなかった・・・。<(注36)>

 (注36)「1943年初頭のスターリングラードで・・・ドイツ軍<は>敗北<し、>・・・1月21日、帰国したばかりのドイツ駐在陸軍武官坂西一良中将<は>大本営で<その旨>報告したが、参謀本部は「ドイツは長期持久戦に入るも不敗の態勢既に整いたるを以って断じて敗北することなし」との確信を表明し・・・た<。>」
http://www.nids.mod.go.jp/event/proceedings/forum/pdf/2010/04.pdf

⇒この時点でも、帝国陸軍は、杉山参謀総長/東條陸相(首相兼務)体制そのまま(典拠省略)であり、今度はドイツ支援のための北進論を封じ込めるために、あえて、独ソ戦の帰趨について、ドイツに有利に歪曲した情勢判断を示し続けたのでしょうね。(太田)

 その後、・・・日米諒解案交渉において、三国同盟の有名無実化を主張する近衛と、なおもドイツとの同盟維持に固執する松岡との対立が、その交渉を困難なものとした。」(115~116、118~120)
⇒杉山/東條は、日米交渉がまとまるはずがないと見通していた、というのが私の見方であり、近衛と松岡の対立になどさして関心はなかったはずです。(太田)

(続く)