太田述正コラム#13476(2023.5.11)
<太田茂『新考・近衛文麿論』を読む(その19)>(2023.8.6公開)

 「・・・前年の1940年9月23日、当時のドイツの華々しい進撃の間に行った北部仏印進駐は、3日後の25日に、アメリカの国民政府に対する2500万ドルの借款供与や、翌26日にアメリカの日本に対する屑鉄・鉄鋼の全面禁輸を招いた。
 それにも関わらず、陸海軍や近衛内閣部内では、南部仏印進駐がアメリカを怒らせて更なる制裁に踏み切ると予測したものはほとんどいなかった。
 その前提として、主に陸軍を中心に、南進してイギリスと敵対し、ドイツと共にイギリスを屈服させることになっても、国際紛争には不介入の立場をとっていたアメリカがイギリスを助けるために戦争に介入することはないだろうという、「英米可分論」があった。・・・

⇒「陸軍を中心に・・・「英米可分論」があった」はその通りですが、全体としては意味不明です。
 米国は、イギリスならぬ蒋介石政権を助けるために、第二次世界大戦ならぬ日支戦争に、既に介入していたというのに・・。(太田)

 <例えば、>グルー<米>大使の<1941年>7月26日の日記・・・には「[当時、商工相から外相に転じたばかりの
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E7%94%B0%E8%B2%9E%E6%AC%A1%E9%83%8E ]・・・豊田貞次郎・・・提督も多くの日本人官吏と同じく、米国は報復手段に出ぬものと信じていた」とある。・・・

⇒これぞ、根拠なき楽観論の典型ってやつです。(太田)

 <また、>参謀本部の佐藤賢了<(コラム#13381)>は、・・・南部仏印に進駐しても日米戦争にはならないと判断していた・・・とし、・・・陸軍では一般にこのような考え方だったとし<つつ、>海軍では南部仏印進駐により日米戦争が起こるかもしれぬとの判断は陸軍よりもずっと強かったとしている。

⇒佐藤は、日本軍の南部仏印進駐が英領マラヤを危殆に瀕せしめるけれど、だからといって英国が対日予防戦争をしかけたり、更にそれに米国が参戦したりすることはならない、という、しごく当たり前の話をしているというよりは、仮に将来日英が戦争状態になったとしても米国は参戦しない、と判断し、それが陸軍上層部の判断でもあるけれど、海軍上層部の判断は異なる、と指摘しているのであって、著者の根拠レスの主張に反し、陸軍は「英米可分論」に立っていたのに対し、海軍は「英米一体論」に立っていたこと、が、改めて分かろうというものです。
 (なお、当時、佐藤は「参謀本部」ではなく「陸軍省軍務局軍務課長」(大佐)です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E8%B3%A2%E4%BA%86 )(太田)

 石井秋穂<(前出)>・・・によれば、南部仏印進駐については、多少の反応は生じても即刻の命取りになるような自体は招くまいとの甘い希望的観測を<陸軍の>大多数の人が持っていたという。・・・
 <そして、>当時陸軍省軍務局軍事課高級課員だった・・・西浦進<(コラム#12956)に至っては、>・・・「・・・南部仏印進駐でイギリスに非常な脅威を与えるから、むしろいい変化が来るのじゃないかという意見が……さかんに聞<こえ>ておりました」と回想している。・・・

⇒陸軍上層部において「英米可分論」・・端的に言えば、日本が対米開戦しない限り日米戦争にはならないという認識・・が、いかに常識であったかが、ここからも分かります。
 但し、石井や西浦のような陸軍中堅層は、海軍が「英米一体論」を抱懐するのみならず、対英開戦時に同時対米開戦することに固執することまではさすがに予見できなかった、ということもまた分かりますね。(太田)

 『東久邇宮日記』・・・には、1941年3月3日に次の記載がある。
 「海軍省の高木惣吉<(コラム#13134)>大佐<が>・・・仏印とタイについては、英米は武力を用いてまでも日本の南進を拒否することはないだろう<が、>・・・蘭印まで兵力を用いれば、・・・日・米英戦争となるにちがいない<云々と私に語った。>」・・・

⇒日本が英領マラヤを飛び越えて蘭印に侵攻したとしても米国はもとより英国だって対日開戦することはありえないのであって、エリートで駐仏武官経験があった高木でさえ、海軍軍人一般同様、英米についていかに不勉強であったかが分かるところ、そんなことより、ここからも、何度も何度も恐縮ですが、海軍上層部が「英米一体論」なる妄想を信じて疑わなかったことがよーく分かろうというものです。(太田)

 しかし、これは陸海軍共に甘い判断だった。」(130~132)

⇒よって、これはひどい間違いなのであって、国際情勢判断に関し、陸軍は正常だったけれど海軍はトチ狂っていた、のです。(太田)

(続く)