太田述正コラム#13484(2023.5.15)
<太田茂『新考・近衛文麿論』を読む(その23)>(2023.8.10公開)

「・・・近衛が次に考えたのが、西園寺公一の派遣だった。・・・
西園寺は近衛に呼ばれて官邸に行くと、・・・傍らに同盟通信社長の岩永裕吉<(注42)>がいた。

 (注42)1883~1939年。「内務省衛生局局長(勅任局長)長與專齋の四男(第6子)として出生する。7歳で母方の叔父に当たる岩永省一の養子となり、正則中学などを経て旧制第一高等学校を卒業する。1909年に京都帝国大学法科大学を卒業すると、内務省衛生局で父の部下だった後藤新平のコネで南満州鉄道株式会社に就職したが(1911年)、1917年に鉄道院へ移り後藤総裁(寺内内閣内相と兼任)の秘書官、次いで同院参事・文書課長となる。翌年、寺内内閣が総辞職すると鉄道院を退官して渡米、さらに新渡戸稲造や鶴見祐輔らとヨーロッパを訪問する。
 帰国後の1920年に個人事務所を開き、国際交流を目的とした「岩永通信」を発行し、翌年には通信社の「国際通信社」(国通)に迎えられ理事・専務理事を歴任する。1924年にはロイター社と最初の対外自主頒布権の交渉を行った。国通は1926年に他の通信社と共に新聞組合「日本新聞聯合社」(聯合)を創立するが、創立にあたって岩永は専務理事となり、・・・聯合は1928年に内信を開始し、1933年にはAP通信の支配人だったケント・クーパーと通信自主権の確立に成功する・・・。
 1936年に社団法人同盟通信社が設立されると初代社長となり、1938年12月9日には貴族院議員に勅選された<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E6%B0%B8%E8%A3%95%E5%90%89

 近衛が「公一君、上海へ行ってくれないかナ」と言い、岩永が熱心に説明した。・・・
 訪中を決心した西園寺が上海に行くと、松本重治が待っていた。
 松本の人脈で、英国の商務官ホールパッチ<(注43)>の協力で、宋子文<(注44)>と密会<し>・・・た。・・・

 (注43)Sir Edmund Hall Patch(1896~1975年)。’Initially a HM Treasury official’
https://en.wikipedia.org/wiki/Edmund_Hall-Patch
当時は、「駐中国・駐日大使館財政顧問」
http://repository.tufs.ac.jp/bitstream/10108/23365/1/acs029010.pdf
 (注44)1894~1971年。ハーヴァード大経済学修士、コロンビア大経済学博士。「<当時は>財政部長<。>・・・1937年の日中戦争勃発後、宋子文は対中支援を訴えるため<米国>に赴き、<米国>からの支援を取り付ける役を果たした。これにより太平洋戦争開戦前には数回に渡る資金援助の他に、1941年には空軍戦力の提供(いわゆるフライングタイガーズ)を<米国>から受けている。1941年12月の日米開戦直後に宋は外交部長となり、<米国>や連合国との交渉役を務めた。終戦の直前には行政院長となっている。・・・
 宋家三姉妹として知られる宋慶齢・宋靄齢・宋美齢は、実の姉妹で<、宋子良(前出)は実の弟で>ある(三姉妹はそれぞれ孫文・孔祥熙・蔣介石と結婚した)。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8B%E5%AD%90%E6%96%87

⇒松本重治は、聯合上海支局長であった(コラム#13029)ところ、「1926年(大正15年)に日本新聞聯合社(聯合)が誕生すると、電通と聯合は激しく競争するようになった。1931年(昭和6年)9月18日に発生した満州事変の発生を伝えた電通の一報は、事変発生後わずか4時間で入電し大スクープとなった。両通信社が激烈な取材競争をした結果、両社ともに経費が膨れ上がり、報道内容にも食い違いが生じた。このため政府部内や新聞界で両社を統合しようという機運が高まり、1936年(昭和11年)1月、同盟通信社が発足した。同年6月には電通が通信社事業を同盟に引き渡し、代わりに同盟の広告事業を電通が引き継ぎ、国内の通信社は同盟の1社体制が名実ともにスタートした。」
https://www.chosakai.gr.jp/profile/history/
ことに伴い、引き続き、同盟上海支局長・・岩永祐吉の部下ということになる・・を務めていたのでしょう。(太田)

 西園寺<が>「満州国のことに関してはお互いに触れない」ということでどうか、と言うと、宋は「難しいが可能性があるかもしれない。すぐに南京に飛んで、蒋主席の考えを聞きましょう」と言った。
 2日後、宋子文から、YESの返答があった。
 ホールパッチは、・・・「・・・宋子文がイエスという返事を持ってきた以上、蒋介石は本気です」と言った。

⇒近衛は、ジャーナリストを含む様々なルートを使うことで、和平工作をしていることが外部にだだ洩れさせただけでなく、いわば積極的に英国に洩らしてしまったわけであり、広田が外相である以上、この工作は外務省に(だけ?)は秘匿していたのでしょうが、そのことも英国は掴めたであろうことから、日本は、日本政府部内で官邸と外務省との間に対立が生じているということまで英国に知られてしまったことになります。(太田)

 <ところが、>西園寺が神戸に上陸し、7月27日、東京駅に着くと、出征しり皇軍兵士を見送る歓呼の声でもみくちゃにされた。
 西園寺は、これを見て頼みの綱の不拡大方針がぷっつり切れてしまったことを知った。
 こうしてこの工作も挫折した。」(143~144)

⇒このようにして、近衛は、せっかくの、最後の、かつ、最も可能性のあった工作を成功させるチャンスを、西園寺公一と宋子文の梯子を外す形で自ら弊履のごとく捨て去っていた、というわけです。
 近衛のだらしなさ、愚かさには言葉を失います。(太田)

(続く)