太田述正コラム#13488(2023.5.17)
<太田茂『新考・近衛文麿論』を読む(その25)>(2023.8.12公開)

 なお、板垣の陸相起用については、「林内閣で組閣工作に失敗した十河信二の近衛への進言があった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BF%E5%9E%A3%E5%BE%81%E5%9B%9B%E9%83%8E
ことに、著者は触れていません。(太田)

 「・・・そのころ板垣は<第5師団師団長<として>(上掲)>山東省に出陣していた。
 風見は、・・・岩永祐吉・・・に相談し、その部下だった古野伊之助<(注48)>に親書を渡して山東に派遣し<、>・・・板垣の陸相起用が実現した。・・・

 (注48)1891~1966年。「三重県朝明郡富田村(現在の四日市市)に・・・生まれた。・・・
 1909年から京橋区瀧山町六番地のAP通信東京支局で給仕として働いた。当時の支局長は元ワシントン・ポスト特派員のジョン・ラッセル・ケネディ(John Russel Kennedy)というアイルランド人であった。
 1912年(大正元年)に改めて東京支局の正社員として採用されたが翌年に辞め<たが、>・・・。1914年、偶然に再会したケネディから国際通信社(国際)に誘われ入社した。1913年、渋沢栄一は日米摩擦を憂慮して国際理解増進のため日本のニュースを海外におくる通信社を立案、国際が誕生した。しかしロイター通信は国際が自主的に外国へニュースを供給することを認めず渋沢の意図は失敗した。
 1920年、国際の北京支局が設置されると1923年まで赴任、風見章、市川正一と机を並べていた。・・・通信自主権の回復が日本の通信社に必要であると痛感し外務省に働きかける一方、陸軍省の駐在武官たち土肥原賢二、鈴木貞一、板垣征四郎や在外公館の吉田伊三郎と交際をした。外務省や渋沢がケネディに不信感を持つと追い出し工作を行い、専務理事に岩永裕吉を推した。1926年にロンドン支局より戻り「国際」と東方通信社が合併し日本新聞聯合社が創設されると社長の岩永裕吉を支え1931年(昭和6年)より総支配人の地位にあった。
 1931年、満州事変を契機としてメディアの積極活用により国際世論へ働きかけたい関東軍と聯合の奉天支局長より相談をうけた。この年の12月19日、岩永裕吉は「満蒙通信社論」を文書で送った。国より特権を与えられた唯一の通信社にニュースの無線放送を許すという論文は満州国通信社(国通)結成の契機となった。1934年に関東軍の要請により「満州弘報協會結成要綱案」を提出した。強力な通信社に通信網を独占させ、複数ある新聞社の資本を統合し、両者を包括したメディア組織を作るという実験は後に生かされた。1936年、競合関係にあった日本電報通信社(電通)と聯合が合併し同盟通信社が結成され<、やがて>・・・国際放送電報規則が改正され電通の外信とのラインが断ちきられた。また鈴木貞一を説得し同盟結成の後押しをさせ、同盟を指導監督する各省相乗りの出先機関「情報局」で陸軍が主導権が握った。
 同盟では常務理事に就任。風見章の紹介で昭和研究会に招かれ委員に就いた。盧溝橋事件が起きると国通と協力し取材の陣頭指揮をとり、1938年には近衛内閣の板垣陸相就任工作に協力した。1939年に岩永の後を継いで同盟通信社の社長となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E9%87%8E%E4%BC%8A%E4%B9%8B%E5%8A%A9

⇒こんなところにも、澁澤榮一が!(太田)

 全く蚊帳の外に置かれ、後にこの人事を知った陸軍次官梅津美治郎は、統帥権干犯だと激怒した。・・・

⇒杉山陸相と梅津次官は、近衛の対外的な動きは憲兵や陸軍の諜報機関を通じて全て把握していたはずであり、梅津の見事な演技力に拍手です。
 これで、終戦後に、梅津が「太平洋戦争の降伏文書調印式全権を依頼されると、降伏に賛成した米内光政や鈴木貫太郎(終戦当時の首相で、元海軍大将)らが適役であるとして一旦は拒否した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%85%E6%B4%A5%E7%BE%8E%E6%B2%BB%E9%83%8E
のも演技であったことがはっきりした思いです。(太田)

 しかし、陸相に就任した板垣は、その直後から近衛を裏切り、柳川登用の約束を反故にした。・・・
 <そもそも、>板垣を推挙したのは<日支戦争>非拡大派の多田駿参謀次長と石原莞爾だった<が、>・・・多田を通じて真崎の考えを聞かせたところ、・・・皇道派<を>起用<するなら>・・・「柳川・・・平助・・・に重要な地位を与えて板垣の顧問にするがよい」とのことだった<ところ、>柳川は上海攻略戦に活躍<するも>本来は支那事変拡大に反対・・・であり、陸軍中央から疎まれて召集解除されていた<が、>・・・<この>柳川を現役に<再び>戻して重要な地位を与えるという真崎の考えについて、多田に念を押すと、「必ずそうする」と断言した<ので、>・・・板垣<にも古野に確認させたところ、>「近衛公と多田、石原との間の話は、必ず、自分が陸軍大臣になった暁には実行する」と約した<もの。>・・・
 近衛が想定できなかったもう一つは、梅津が次官辞任に当たり、東條英機を後任に据えたことだった。・・・
 これが後々の日本の運命を破滅に追い込むことになってしまった。・・・
 1943年、・・・近衛は、「・・・気づかなかったが東條は・・・杉山、・・・梅津と同心一体の存在だったのだ」と述懐し<ている>。」(149~151)

⇒柳川が、かつて、皇道派だったのか、或いは私の言う横井小楠コンセンサスのみ信奉者だったのか、などということは問題ではなく、私見では、柳川が、1932年8月に杉山元の次の次の陸軍次官になった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8B%E5%8B%99%E6%AC%A1%E5%AE%98%E7%AD%89%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
ということは、それまでに、彼が、秀吉流日蓮主義者/島津斉彬コンセンサス信奉者になっていた、または、なるに違いない、もしくは、少なくとも杉山構想は誠実に実行に移し続けるに違いない、と確実に判断された、からこそ、杉山元らが次官に据えたということなのです。
 また、そう考えないと、「1937年に第二次上海事変で中国国民党軍を押し切れない上海派遣軍支援のために、第10軍が編成され、召集された柳川が第10軍司令官に補された<が、その>柳川<が、>杭州湾上陸作戦を成功させ、中国軍の退路を脅かし、朝香宮鳩彦、松井石根らと上海攻略に貢献<した後、>・・・参謀本部や上海派遣軍の松井石根の意向を無視し<て、>独断で中国軍を追撃、南京攻略戦へと発展させ南京陥落<を成し遂げ、>南京大虐殺に荷担する」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E5%B7%9D%E5%B9%B3%E5%8A%A9
という、和平を事実上不可能にする、「皇道派」にあるまじき行動を採った・・なお、私見では「荷担」ではなく「主導」(コラム#省略)・・ことの説明がつきません。
 真崎も多田も石原も、そして、板垣も、柳川のこの「転向」に気付いていなかったのでしょう。
 1938年6月3日に陸相に就任した板垣は、5月30日に次官を辞任した梅津、または、同日付で新次官に就任していた東條から、柳川の「転向」を知り、柳川を忌避するに至ったのでしょう。
 もちろん、杉山元らは、柳川の上海/南京戦での功績に報いることは当然考えていたのであって、近衛首相の、柳川が皇道派であるとの無知に付け込んで、同年12月16日に興亜院を設立し、その初代総務長官に柳川を就任させ、汪兆銘工作に関与させる(!)(上掲)のです。(太田)

(続く)