太田述正コラム#13500(2023.5.23)
<太田茂『新考・近衛文麿論』を読む(その31)>(2023.8.18公開)

「・・・夏に入ると、・・・開戦反対の武藤軍務局長に対し、田中新一参謀本部第一部長は早期開戦論で、両者は激しく争っていた。・・・
 8月6日朝、近衛は天皇に奏上し、天皇から「大統領との会見は速やかなるべし」との御諚を受けて近衛の意気はあが<ったが、>・・・そのころ、近衛の訪米を阻止するための・・・辻政信と児玉誉士夫らによる・・・テロ工作が進められていた。・・・

⇒児玉は、「1937年、・・・笠木良明・・・から紹介された外務省情報部長河相達夫より勧められ、<支那>各地を視察<したが、>上海副総領事の岩井英一(東亜同文書院出身)を知り、岩井が1938年に領事館内に設置した「特別調査班」の嘱託とな<り、その後、>岩井の推薦で、1939年4月に陸軍参謀本部の嘱託となりハノイにいた汪兆銘の護衛を任された<ところ、>石原莞爾の紹介で支那派遣軍総司令部参謀の辻政信を知り、同司令部の嘱託となる<も、石原の>東亜聯盟の動きが陸軍の方針に反すると東条英機の逆鱗に触れたことで、児玉は嘱託を解かれ1941年5月に帰国し<てい>た」もの。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%90%E7%8E%89%E8%AA%89%E5%A3%AB%E5%A4%AB (太田)

 近衛は、8月8日朝、富田健治と密談し、会談のための船の手配を高木惣吉に依頼していた。
 高木は応諾し、横須賀鎮守府の塩沢幸一<(注62)>司令長官と会い、豪華客船新田丸を8月20日に横須賀海軍工廠に入港させて準備手配をした。・・・

 (注62)1883~1943年。海兵32期(次席/192名。首席は堀悌吉)、海大13期。
 「実家は・・・養命酒製造<。>・・・在<英>日本大使館附武官補佐官・在<英>大使館附武官を歴任<。>・・・1939年(昭和14年)8月、平沼内閣総辞職に伴い米内光政が海軍大臣を辞任する事になり、後任に塩沢と兵学校同期の吉田善吾が親補された。吉田より先任順位が上位の塩沢艦政本部長<たる塩沢>が吉田海軍大臣の部下となる矛盾が生じるために、塩沢は軍事参議官に転補された。1940年(昭和15年)9月5日、吉田が海軍大臣を辞職し横須賀鎮守府司令長官の及川古志郎が海軍大臣に就任した際に、及川の後任として横須賀鎮守府司令長官に親補される。日米開戦時は軍事参議官。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%A9%E6%B2%A2%E5%B9%B8%E4%B8%80

 児玉は辻の依頼を引き受け、腹心の吉田彦太郎<(注63)>を使うことにして辻に引き合わせ、辻は上海から用意してきたという高性能の新型爆弾の木箱を参謀本部の地下倉庫から児玉の事務所に持ち込んだ。

 (注63)1913~1971年。「博多祇園町<に>・・・生まれ、・・・明治大学と進み、黒龍会内田良平門下の萩原祥宏の主宰する萩原青年同盟に参加し、大日本学生前衛連盟を結成するなど、右翼学生運動に身を投投じた。
 1937年(昭和12年)、陸軍首脳部が二・二六事件の全責任を北一輝、西田税らに転嫁させていると主張。磯部浅一の獄中手記なる不穏文書を作成、頒布した容疑で他の首謀者らとともに警視庁特高部に逮捕された。
 1941年、海軍航空本部嘱託の児玉機関副機関長に就任し上海を中心に<支那>大陸で軍の資材調達活動に奔走。児玉機関のナンバー2と呼ばれ、長らく児玉誉士夫の片腕を務めた。・・・
 戦時中<は>『やまと新聞』の副社長(社長は児玉誉士夫)<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E5%BD%A6%E5%A4%AA%E9%83%8E

 もし、近衛の訪米が実現し、出発していたとすれば、近衛はこのテロで爆殺されていた可能性は高い。・・・

⇒そんな、海軍に歯向かう悪質な陰謀に荷担した児玉を、「1941年11月、児玉が属した国粋大衆党を主宰する笹川良一の紹介で海軍省(海軍大臣は嶋田繁太郎)の外局である航空本部(本部長は山本五十六)より招かれ<、>児玉は海軍航空本部のため航空機に必要な物資を調達する<よう依頼され、>・・・児玉は・・・上海へ飛び、ここに児玉機関の本部を置いた。児玉は海軍の嘱託(佐官待遇)となる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%90%E7%8E%89%E8%AA%89%E5%A3%AB%E5%A4%AB
と、重用した海軍は、知らなかったとすれば脇が甘過ぎた、知っていたとすれば狂っていた、と言うべきでしょう。(太田)

 1941年12月8日、細川護貞が華族会館に近衛を訪ねると、周囲の人々は真珠湾の勝利にざわめいていた。
 しかし、近衛は浮かぬ顔をしており「えらいことになった。僕は悲惨な敗北を実感する。こんな有様はせいぜい、2、3か月だろう」と沈鬱なっ声で言った。・・・

⇒日米の経済力/科学技術力格差、軍事力比較、にある程度通じている者で、むしろ、こう考えない方がおかしいところ、近衛文麿は、2度・・形の上では3度・・も首相を務め、これらのデータに接する機会が確実にあった筈ですから、そう考えない人間の方がおかしいのです。
 むしろ、問題にすべきは、彼は、アジア主義の元締めの立場に一応あったというのに、そう考えない陸軍指導層の真意を(アジア主義等の観点から)探る能力もなければ、恐らくは努力もしなかったことです。
 とまあ、言ってはみたけれど、彼が杉山元らと親交を結ぶ努力をどれだけしようと、能力的に杉山元らとギャップがあり過ぎて、彼らに、まともに相手をしてもらえなかった、いや、相手のしようがなかった、であろうと思われ、いずれにせよ、そんなことは不可能であったことでしょうが・・。(太田)

 このように、近衛は戦争の行く末を正確に見通していたが、開戦当初の華々しい日本の戦果に目がくらんでいた大多数の政治家や国民は、近衛を「インテリ近衛」「敗戦主義者」と非難した。・・・」(174)

⇒そりゃあ、むしろ、近衛に対する過分の誉め言葉であったというべきかも。(太田)

(続く)