太田述正コラム#13502(2023.5.24)
<太田茂『新考・近衛文麿論』を読む(その32)>(2023.8.19公開)

「近衛の生前、近衛の伝記は・・・山本有三<(注64)>・・・に書いてほしいと頼まれていた。

 (注64)1887~1974年。府立一中、「一高<に>入学<し、>同級だった近衛文麿とは生涯の親交を温めた。」東大文(独文)選科<に学ぶ>。「1934年(昭和9年)に共産党との関係を疑われて一時逮捕されたり、『路傍の石』が連載中止に追い込まれたりし・・・<、>1933年6月3日、共産党に資金を提供した疑いで検挙された。1941年(昭和16年)には帝国芸術院会員、太平洋戦争中の1942年(昭和17年)には日本文学報国会理事に選ばれている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E6%9C%89%E4%B8%89

 その山本が近衛から東條暗殺の企てを持ち掛けられた。・・・
 東條内閣末期の1944年7月1日、栃木県に疎開していた山本は、近衛から呼び出されて荻窪の近衛邸を訪ねた。
 近衛は、政策の大転換を行うため、高松宮を戴いて東條を暗殺する計画を立てているので、その声明文を書くよう山本に依頼した。
 しかし、計画の具体的内容の説明を求めても近衛はそれを言わない上、事の重大さから山本が慎重論を述べると、2日後、近衛はあっさりと「君の言うようにもっと慎重に考えましょう」と何か他人事のような言い方をした。
 山本は、なあんだ、という気持ちで、近衛という人は世間で言う通り本当に弱い人だなあとつくづく思った、と回想する。・・・

⇒仮に暗殺計画に加担したことを咎めないことにしたとしても、その計画を事前に第三者に語るようなことをしただけでも、近衛は政治家として疑問符がつきます。
 しかも、(近衛自身は、一貫して山本の「無罪」を確信していたのでしょうし、当時は復権もしていたとはいえ、)ゾルゲ事件の後だというのに、容共容疑者としての前歴がある山本にこんな話をするなどもってのほかです。(太田)

 1944年秋頃から、近衛は、実弟の水谷川忠麿<(コラム#12833)>を通じた蒋介石との直接の和平交渉に取り組んだ。・・・

⇒とりわけ、ばかばかしい挿話であり、紹介するのは止めておきます。(太田)

 近衛文麿は・・・1945年1月25日、京都の別邸「虎山荘」<(注65)>に岡田啓介海軍大将と米内光政海軍大臣を招いた。

 (注65)「近衛文麿は昭和13年(1938年)に・・・仁和寺の近く<、>・・・京都市右京区宇多野上ノ谷町に・・・財団法人陽明文庫を設立し、家蔵の資料の永久保存を図ることとした。「陽明」は、近衛家の別名であり、近衛家の屋敷が大内裏の外郭十二門の1つである陽明門から発する近衛大路沿いにあったことにちなむものである。
 文庫は洛西の仁和寺の近くに位置する。約8,550平方メートルの宅地内には、文庫設立以来の建物である書庫2棟、閲覧事務所のほか、昭和19年(1944年)に建てられた数寄屋造の虎山荘が建つ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%BD%E6%98%8E%E6%96%87%E5%BA%AB

 「戦局は最悪の事態を迎えている。もはや敗戦はまぬがれまい。そこで国体の護持をどうはかるかだ……決戦の前になんとか和平の手がかりをつかまないとならぬ~~陸軍は容易なことでは乗って来まい……皇室の擁護ができさえすればそれでよい……本土だけになったとしても甘受しなければならないのではないか……陛下に落飾(出家)をしていただ<き>裕仁法皇として仁和寺の門跡に迎える」などと語り、終戦の方策を数時間も密議した。
 近衛は、その翌日に、高松宮をも虎山荘に迎え、同様に天皇を仁和寺に迎えることを暗に了承を求めた<(注66)。>・・・」(181~182、196)

(注66)「仁和寺は、・・・皇室とゆかりの深い寺(門跡寺院)で、出家後の宇多法皇が住んでいたことから、「御室御所」(おむろごしょ)と称された。・・・
 仁和寺は・・・、明治時代に至るまで、・・・皇族が<二例を除いて>歴代の門跡(住職)を務め、門跡寺院の筆頭として仏教各宗を統括した。・・・
 太平洋戦争での日本の敗戦が濃厚となった1945年(昭和20年)1月20日以降、数度にわたり、近衛文麿が仁和寺を訪れ、昭和天皇が退位して仁和寺で出家するという計画について当時の門跡と話し合い、出家後の居所などを検討している。1月26日、近衛文麿の別荘陽明文庫において、文麿と昭和天皇の弟宮・高松宮宣仁親王との間で、昭和天皇の出家について会談がもたれた。霊明殿に掲げられている扁額「霊明殿」の文字は、文麿が仁和寺を訪れた際に揮毫した絶筆である。
 1946年(昭和21年)、真言宗御室派が大真言宗から分離独立し、仁和寺はその総本山となった。
 仁和寺の南西には光孝天皇後田邑陵(小松山陵)があり、また北には光孝天皇御室陵墓参考地がある。さらに北に行くと大内山に宇多天皇大内山陵があるが、この場所は金堂から見て真北にあたる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E5%92%8C%E5%AF%BA

⇒この、近衛らの国体護持なる思い込みもまた、杉山らに、終戦時期をコントロールするための材料として活用されるわけです。
 なお、宇多天皇がどうして仁和寺を真言宗の寺院にした上で、しかも、その境内に住み込んだのか、についての私の仮説を、次のオフ会「講演」原稿でご披露する予定です。(太田)

(続く)