太田述正コラム#13504(2023.5.25)
<太田茂『新考・近衛文麿論』を読む(その33)>(2023.8.20公開)

 「・・・近衛は戦争末期、ブレーンだった中山優を通じて蒋介石との和平を試みた。・・・
 ユダヤ人音楽家を救った実弟の近衛秀麿<(コラム#12833)>を通じた対米和平工作<も行なわれた。>・・・

⇒この2つのおバカ話も紹介を省略します。(太田)

 1945年2月14日、近衛は天皇に上奏した。・・・

⇒近衛上奏文の中身については、以前(コラム#12833で)取り上げたので省略します。(太田)

 近衛上奏文に対する評価は様々だ。・・・
 <批判的なもののうちの>極め付きは小説家の堀田善衛<(注67)>で、「こんなにまで真面目で非常識な、真剣で滑稽な文書を私は見たことがない」と酷評した・・・。

 (注67)1918~1998年。慶大文(仏文)卒。「第二次世界大戦末期の1945年3月に国際文化振興会が<支那>に置いていた上海資料室に赴任。現地で敗戦を迎える。1945年・・・12月に上海昆山路128号にあった中国国民党中央宣伝部対日文化工作委員会に留用され<る。>・・・
 1946年・・・12月28日(29日の夜明け)に<米>軍の上陸用舟艇で引き揚げ。・・・
 1951年、『中央公論』に話題作「広場の孤独」を発表、同作で当年度下半期の芥川賞受賞。・・・
 宮崎駿が最も尊敬する作家であり、宮崎は堀田の文学世界や価値観から非常な影響を受けていることを常々公言、堀田と幾度も対談している。たとえば宮崎の作品によく出てくるゴート人のイメージは、堀田のスペイン論に由来している。また、宮崎は堀田の『方丈記私記』のアニメ化を長年にわたって構想していた。2008年には、宮崎吾朗などのスタジオ・ジブリスタッフによって、『方丈記私記』などの堀田作品をアニメ化するという仮定の下のイメージ・ボードが制作され、神奈川近代文学館に展示された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E7%94%B0%E5%96%84%E8%A1%9B

⇒私は、全面的に堀田に同意です。(太田)

 <他方、・・・新谷卓<(注68)>・・・は、<近衛を弁護している。>・・・

(注68)あらやたかし。中大院修士、明大院博士課程修了、同大博士(文学)、高校教員、日本臨床政治研究所主任研究員、立教大非常勤講師。「著書等に『クラウゼヴィッツと「戦争論」』(共著、2008年)、『ドイツ史と戦争』(共著、2011年)、『終戦と近衛上奏文』(2016年)などがある。」
https://www.amazon.co.jp/%E5%86%B7%E6%88%A6%E3%81%A8%E3%82%A4%E3%83%87%E3%82%AA%E3%83%AD%E3%82%AE%E3%83%BC-1945-1947%E2%80%95%E5%86%B7%E6%88%A6%E8%B5%B7%E6%BA%90%E8%AB%96%E3%81%AE%E5%86%8D%E8%80%83-%E6%96%B0%E8%B0%B7-%E5%8D%93/dp/4901199595
https://www.sairyusha.co.jp/author/a10026452.html (「」内)

 殖田俊吉<(注69)(コラム#10042、10061、12833)>、・・・は、1937年8月、日中戦争がはじまったばかりのころ、「日満財政経済研究会」の研究員をしていた男から見せられた「戦争指導計画書」<(注70)>なるものを見て、経済をすべて国家統制の下に置くその内容は「りっぱなほんとうのコミュニズム計画」であり、日本を共産化するための案であるとの結論に達した。

 (注69)うえだしゅんきち(1890~1960年)。五高、東大法、大蔵省入省。「1927年(昭和2年)4月、田中義一内閣の内閣総理大臣秘書官兼大蔵事務官となる。1929年(昭和4年)6月、拓務省殖産局長に就任。以後、台湾総督府殖産局長、関東庁財務局長を歴任し、1933年(昭和8年)9月に退官した。・・・
 第二次世界大戦末期に近衛文麿の側近として吉田茂らと戦争早期終結の工作に加わるが、東京憲兵隊にヨハンセングループとして検挙された。
 戦後、復興金融金庫監事となる。さらに、第2次吉田内閣の法務総裁、行政管理庁長官(兼務)、第3次吉田内閣の法務総裁を歴任した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AE%96%E7%94%B0%E4%BF%8A%E5%90%89
 (注70)日満財政経済研究会「戦争指導計画書:中間報告」(1937年)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1281737/1/1

 以後、殖田は、真崎甚三郎、近衛、小畑敏四郎、岩淵辰雄、高松宮、若槻礼次郎らに対し、この結論に基づく危機感を語り、共有するようになる。・・・

⇒1935年(昭和10年)秋に日満財政経済研究会(宮崎<正義>機関)を作ったのは当時の参謀次長の杉山元である、と以前(コラム#10367で)指摘したことがありますが、「戦争指導計画書」は、日本の来るべき総動員体制の設計図であり、日本の総動員体制≒戦後の経済高度成長体制、なのであって、個人主義/集団主義、ならぬ、人間主義・・この場合はエージェンシー関係の重層構造(コラム#省略)・・、に立脚したものであって、集団主義に立脚したコミュニズム計画とは似て非なるものである、ということが、(自分が仕えた)田中義一の頭の良さに驚嘆できる程度の頭脳は持ち合わせていた殖田(コラム#12833)でも全く理解できなかったのでしょう。
 で、近衛は、そんな殖田とさえ、比較にならないくらいお粗末な頭脳・・井上成美の酷評(コラム#12833)を想起されたい・・の持ち主だったのですから、何ともはや・・。(太田)

 <殖田は、その>回想では、・・・昭和18年から19年ころ(新谷は、その時期は1943年1月以前ではないかとしている)と定かでないが、吉田茂らの勧めで是非近衛に会うようにいわれ、小畑敏四郎と共に近衛を訪ね・・・<書いたも>のを近衛に見せたところ、近衛は目を皿のようにして熱心に読み、「貴方の話は思い当たる事ばかりです。何故私にもっと早く話をしてくれなかったか」と言ったという。・・・
 <恐らくこれを踏まえて、>1943年1月、近衛<は>木戸<幸一>に・・・<次のような>書簡<を送っている。>
 「・・・軍部内の或る一団により考案せられたる所謂革新政策の全貌を最近見る機会を得たり。之と在職中内閣に提案せられたる幾多の革新政策とを比較し、更に対外問題に関し軍部と折衝したる大権を考え合するに思い当たる節甚多く、一度此鏡にかけて満州事変以来今日に至る内外の動きを照し見る時、凡てが判然とし来るが如き感あり・・・石原、宮崎が遠ざけられた後も(革新政策が)軍部の一角に残り、それが次第に急激のものとなって、今日明白にソ連と同型の共産主義と同じものとなった……彼らの目的は革新そのものであり、戦争は革新を実現せんがための手段と考えており、むしろ敗戦こそが望ましいとさえ考えている……振り返ってみれば、彼らが故意に事変を拡大し、故意に交渉を遷延した、と思われる節がある……彼らが明らかに共産主義の思想をもって日本を赤化しようと企んでいることは明白である」・・・
 <また、>高松宮<には、>1943年12月5日に<この種の話をし、更に、>・・・1944年1月21日<には、>細川護貞と会っ<ており、>細川<は同日の>日記に「荻窪にて殖田俊吉氏と会見。今日の軍部が抱懐する処の政策はすべて共産主義ならざるはなく、従って戦いが不利となるにしたがって、一層この傾向は激化すべし」などと<記してい>る。」(198、203、206、209~210)

⇒石原莞爾を共産主義者視するなんて、それこそ、近衛にどんな罵倒の言葉を投げかけても不十分でしょう。(太田)

(続く)