太田述正コラム#13510(2023.5.28)
<太田茂『新考・近衛文麿論』を読む(その36)>(2023.8.23公開)

「・・・平沼内閣の外務大臣だった有田八郎は、防共協定の締結に力を注いだが、1939年1月22日の平沼の所信表明演説に続き、外相として行った演説で「所謂長期抗戦、遊撃戦術なるものは、元来共産党の建策に基づくものでありまして、畢竟支那大衆の犠牲において出来る限り事変の解決を遷延せしめ、以て支那、延いては世界の赤化を招来せんとする陰謀に外ならないのであります」と近衛上奏文の認識を彷彿とさせる演説をしていた・・・。

⇒全く彷彿とさせないのですが・・。
 但し、「畢竟支那大衆の犠牲において出来る限り事変の解決を遷延せしめ、以て支那、延いては世界の赤化を招来せんとする陰謀」の「赤化」を「解放」に変更すれば、杉山元らと中国共産党等が共同で追求していたところのものとは合致します。(太田)

 石原莞爾・・・自身は共産主義者ではなかったが、関東軍の軍人たちや満州国政府の日本人関係者の中には、共産主義者ないしそのシンパ、転向者などが多数<おり、>・・・「我々の当面の敵はいわゆる『赤』である。所が我々は常に自称日本主義者から攻撃され、彼等は我々を目して『赤』だというではないか」と嘆いていた・・・。・・・ 
 宮崎正義・・・<も>、共産主義者ではなく、マルクス主義、リベラリズム、ファシズムは日本の天皇を中心とする国家には合致しないと考えており、新谷<(前出)>は、彼らが作成した文書を見る限り、共産主義的な方法を取り入れてはいるが、実際には共産主義精神の本質からはだいぶかけ離れている、とする。・・・

⇒著者は、さすがに石原は共産主義者ではなかったとは思っていたようですし、また、宮崎ですら、そうではなかったと思っていたわけですね。
 しかし、今度は、「関東軍の軍人たち」ですか。
 その「軍人たち」の一人の個名も挙げられないのでは?
 なお、新谷や(新谷による宮崎の紹介が正確だという前提の下ですが)宮崎・・そしてもちろん著者自身・・のマルクス主義ないし共産主義認識は間違っています。
 マルクス主義ないし共産主義≒(私の言う)人間主義、だからですが、新谷や宮崎の言うマルクス主義乃至共産主義、や、石原らの言う『赤』、は、マルクス・レーニン主義ないしスターリニズム、なのですからね。(太田)

 彼等は「満州には資本主義は入れない」と豪語し、日本国内の財閥の受け入れは排除し、三井や三菱などの財閥側も赤化する満州を恐れて進出しなかった。
 例外は経済界の異端児と言われた鮎川義介くらいだった。
 満州国建設のための統制経済は、社会主義経済と紙一重だった。・・・

⇒筆者は、例えば、’During the Second World War Britain was transformed from a predominantly free-market economy into a centrally managed economy as it moved from a peacetime footing to one of full-scale war mobilisation. ‘
https://www.cambridge.org/core/books/abs/cambridge-economic-history-of-modern-britain/wartime-economy-19391945/EE6D43226D81964D488D6EB987E47452
といったことを知らないのでしょうか。
 知っておれば、戦前の軍部、就中、帝国陸軍が追求したのも同じである、と思わない方がおかしいですし、そう思った瞬間、「満州国建設のための統制経済」がその予行であった可能性に思い至るはずなのですが・・。(太田)

 <実際、>関東軍の小磯國昭参謀長は1932年に大連で発表した談話の中で「満州国には資本家は絶対に入れない」と表明していた・・・。」(216~217)

⇒二・二六事件を引き起こすに至ったところの、帝国陸軍内の若手将校達は、三井等の財閥に対して、無知から、また、金づるとして利用する際の便利な脅し文句として、非難していた
https://diamond.jp/articles/-/282884
けれど、それとは違って、小磯、石原等は、「満洲国の経済運営で巨大な満鉄が影響力を持つことを嫌った」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AE%8E%E5%B7%9D%E7%BE%A9%E4%BB%8B
けれど、そう広言はできないことから、財閥批判めいた言辞を弄しただけでしょう。(太田)

(続く)