太田述正コラム#13512(2023.5.29)
<太田茂『新考・近衛文麿論』を読む(その37)>(2023.8.24公開)

 「・・・スターリンを西郷隆盛に似ていると評した鈴木貫太郎、「ソ連の民族政策は寛容。国体と共産主義は相容れざるものとは考えない」との見方を示していた首相秘書官を務めた松谷誠<(コラム#12978)>陸軍大佐、参謀本部戦争指導班長だった種村佐孝<(コラム#12976)>大佐などが親ソ寄りの軍人と言われる。・・・

⇒それだけのことで、どうして鈴木貫太郎が「親ソ寄り・・・と言われる」のか、私にはさっぱり分かりませんし、松谷や種村は、重要な役職に就いていたとはいえ、どちらも(その時点では)大佐に過ぎず、また、そもそも、親露ではあっても親スターリン主義者とまでは言えないのでは?(太田)

 外務省では、・・・杉原荒太<(注74)>のようにソ連に頼ろうとする親ソ派と、・・・調査局ソ連課長尾形昭二<(注75)・・・らの親英派に分かれていた。・・・

(注74)すぎはらあらた(1899~1982年)。「佐賀県杵島郡中通村(後の山内町、現武雄市)に生まれる。・・・大阪市立高等商業学校(後の大阪市立大学)を卒業後。外務省に入省。・・・南京総領事、本省法規課長、企画課長、大東亜省総務局長、外務省調査局長、同条約局長を歴任。
 戦後、首相となった吉田茂とは何かと対立し、1946年いわゆる“Y項パージ”で外務省を追放され、弁護士となる。
 1950年、第2回参議院議員通常選挙に自由党から佐賀選挙区にて立候補し当選を果たす。
 鳩山一郎の外交ブレーンとなり、日ソ国交回復交渉の裏方役として活躍する。1955年第2次鳩山一郎内閣で防衛庁長官として入閣する<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%8E%9F%E8%8D%92%E5%A4%AA
 (注75)1901~1967年。東大法卒。「外務省に入り、パリ、モスクワ、新京大使館、ペトロパヴロフスク領事館などで勤務。その後、本省調査局ソビエト課長、調査局長などを歴任。退官後、外交評論家となり、日ソ協会常任理事を務めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BE%E5%BD%A2%E6%98%AD%E4%BA%8C

⇒外務省についても、やはり、課長クラスではねえ、といったところです。(太田)

 1945年7月10日の最高戦争指導会議で、ソ連に和平仲介依頼のため近衛文麿を派遣することが決定された。
 近衛は上奏文が示すように反共産主義、反ソ連でありながら、なぜその特使派遣を引き受けたのか。・・・
 富田健治<に、>・・・近衛は、・・・こう語っ<ている>。
 「・・・著しくおやつれになられた陛下を拝<し、>・・・よろしくたのむ・・・と仰せられ・・・ると何も言えなくな<った。>・・・」・・・
 近衛は、富田と相談し、酒井鎬次<(注76)(コラム#12833、13304)>に起草をお願いしてはどうかということで、<富田は>酒井邸を訪ねた。

 (注76)こうじ(1885~1973年)。愛知県出身。幼年学校、陸士18期(2番/920名)、陸大24期(優等)。「陸軍省軍務局付勤務(軍事課)、フランス駐在、参謀本部員、参謀本部付(平和条約実施委員・欧州駐在)、陸大教官、近衛歩兵第2連隊付、参謀本部員、参謀本部付(国際連盟陸軍代表随員)、歩兵第22連隊長、陸大教官などを歴任し、昭和9年(1934年)3月、陸軍少将に進級。
 陸大研究部主事、陸士幹事、歩兵第24旅団長を経て、昭和12年(1937年)3月、関東軍の独立混成第1旅団長に任ぜられる。この旅団は戦車2個大隊、自動車歩兵連隊、野砲兵、工兵等からなり、車輌744両を擁する日本初の機械化兵団であった。同年8月、陸軍中将に進むが、同月から開始されたチャハル作戦において、各兵団に戦車隊が分派されて集中的な運用が出来ず、小部隊が無理な突撃を強いられて損害を大きくする状況が続き、東條英機関東軍参謀長と作戦のあり方をめぐり衝突する。結局は満州に帰還後、旅団は解体されることとなった。
 その後、留守第7師団長、第109師団長、参謀本部付を経て、昭和15年(1940年)1月、予備役に編入された。昭和18年(1943年)11月に召集を受けて参謀本部付となり、戦争指導についての歴史的検討に携わるが、近衛文麿を中心とする終戦工作への関与が問題視され、同19年(1944年)7月、召集解除となった。彼自身は皇道派ではなかったが、柳川平助と親しく、東條に代わり皇道派将官の起用を画策する近衛に陸軍内部の情報を提供し、その相談相手となっていた。
 戦争理論、戦史研究の権威として知られ、立命館大学で国防学を講義している。彼の翻訳した「戦ふクレマンソー内閣」は第一次大戦でのフランス宰相クレマンソーの果断な戦争指導を描いたものだが、戦局を傾けた東條内閣へのアンチテーゼとして要路に配布されていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%92%E4%BA%95%E9%8E%AC%E6%AC%A1

 <酒井は最初強く難色を示したが、結局、>・・・翌日、近衛と酒井は6時間にもわたって協議し、「和平交渉の要綱」を作成した。・・・

⇒近衛が判断能力なぞ持ち合わせなかったことは繰り返すまでもありませんが、(ソ連への和平仲介依頼どころか「ソ連からの援助を引き出すべきだ」とすら主張した当時海相の米内光政
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E5%86%85%E5%85%89%E6%94%BF
は論外として、)酒井についても、難色を示した理由が、ソ連が仲介するはずがない、ではなかったことから、その判断能力には問題があったと言わざるをえません。(太田)

 近衛や酒井は、・・・この要綱は、外相と天皇のみに見せ、軍部には見せないこととした。
 そして、現地で交渉がもし妥結したら、一気に天皇の御聖断を得て、軍部の反対を押し切る覚悟だった。
 さらに、近衛は、随行するメンバーに酒井中将を始めとして、外務省は次官ら2名、陸軍から松谷誠少将、海軍から高木惣吉少将、富田健治、松本重治、細川護貞の8名を選んだ。
 酒井中将については、陸軍が和平派反戦派だと強く反対した。
 しかし、近衛は出発が決まれば押し切るつもりだった。」(219~223)

⇒松谷は、直前に大佐から少将に昇任していたわけです。(太田)

(続く)