太田述正コラム#13522(2023.6.3)
<太田茂『新考・近衛文麿論』を読む(その42)>(2023.8.29公開)

「近衛は、自分の欠点や限界をよく知っていた。・・・

⇒属国化した戦後日本の首相じゃあるまいし、戦前の日本で、到底首相が務まる知力と適性など持ち合わせていない、と自覚できなかった近衛だというのに?(太田)

 <また、>近衛は、・・・孤独であり、人を信じることができなかった。・・・

⇒でも、自分を執拗に首相に擁立しようとした西園寺公望は「信じることができ」たようで・・。(太田)

 <そして、>近衛は、世間一般の人々の「義理人情」の世界とは無縁だった。
 御世話になったり自分を支えてくれた恩義ある人を裏切れないとか、梯子を外せない、というような感情や価値観は持っていなかった。
 そのような人々でも平気でさらりと斬り捨てることができた。・・・
 人を信じることができず、人々から担がれ、利用されることが多かった近衛は、それらの人々を公に批判することはなかったが、密かに深い恨みを抱き続けていた。
 1945年6月ころ、近衛は、富田健治に「私は日本をこのような敗戦に陥れた野心家の者共を、私達を国賊扱いした私心家どもを、終戦後一大検挙をして、思い知らせてやりたいと思う。そのとき残忍なことのできるのは、あなたよりも私ですよ」と語った・・・。・・・

⇒近衛が国賊扱いされたのは当然ですし、近衛は、「このような敗戦に陥れた野心家の者共」に「担がれ、利用されることが多かった」自分自身を責めてそれでおしまいにしなければなりませんでした。
 それにしても、「終戦後一大検挙をして」くれた占領当局が、自分自身を検挙対象にすることが全く想定できなかった近衛の愚かさ、浅はかさ、滑稽さ、には、無惨、という言葉しか思い浮かびません。(太田)

 近衛は、鈴木内閣総辞職後に成立した東久邇宮内閣の国務大臣に就任した。

⇒「副総理格の無任所国務大臣」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E6%96%87%E9%BA%BF
と書いて欲しかったところです。(太田)

 近衛は、天皇がマッカーサーと会見する一週間前の9月13日、マッカーサーを訪ねた。

⇒著者は、大部の著書だというのに、マッカーサー訪問の前、というか、終戦直後に、近衛が、副総理格の国務大臣として、「8月18日<、>・・・警視総監を呼んで、国体護持のため慰安所設置の指揮を要請した。この要請から警視庁は東京料理飲食業組合に命じた結果<、>マッカーサー元帥の<当時の>執務室間近の400室<ある>互楽荘で国家による<米>軍将兵への性的慰安所が運用開始した」(上掲)(注85)、という「重要な」、近衛にとって、あらゆる意味で恥ずかしーい史実、を書いていません。(太田)

 (注85)「8月・・・18日、内務省警保局長が「進駐軍特殊慰安施設整備について用意されたし」と全国に通達。いわゆる「性の防波堤」づくりだった。これを受け、進駐軍専門の慰安施設設置のため、「特殊慰安施設協会」が設立され、「RAA」(Recreation and Amusement Association)と改称された。
 県内でも、県警保安課が取り組み、横浜、横須賀を中心に慰安所が建てられた。
 その「第一号」は横浜・山下町のアパート「互楽荘」だったが、殺到した米兵が女性を奪い合って収拾がつかなくなり閉鎖される事態も起きた。
 ・・・20年末には、横浜市の真金町、曙町など計174カ所に355人、横須賀市は164カ所に358人の女性が働き、当初は警察が主導する形で女性の募集が行われたという。
 GHQが21年1月21日、公娼制度廃止の覚書を出し、RAAなどの慰安所は閉鎖されたが、職を失った女性の中には街娼となるものも多く、米兵と娼婦らとの間の「混血児」も問題となった。」
https://www.sankei.com/article/20150810-QDA4NZGGIBLTBNPISNAA3AUAFA/

 マッカーサーは、近衛が軍閥の内実を破壊して日本の民主化のための役割を期待する旨、好意的な態度であり、近衛に対し憲法改正案の作成に当たることを要請した。
 ところが、<10月26日の(上掲)>ニューヨークタイムズが「憲法改正処理に、近衛公は不適任」と報道したことを皮切りに、日本の大手紙も、「(近衛が)戦争犯罪人として牢獄に放り込まれたとして恐らく誰一人驚くものはあるまい」などと激しい批判に転じた。

⇒著者は、「10月23日の朝日新聞は、天皇退位の条項を付け加えるため皇室典範の改正が近く行われるだろうとの近衞の話を伝えた。首相・幣原喜重郎はこれに抗議し、翌24日に近衞は軌道修正する会見を行っている」(上掲)ことも端折っています。
 これは、近衛が、昭和天皇の退位が天皇制そのものの権威失墜に繋がる可能性、も、そもそも昭和天皇の責任追及を占領当局が行わないであろうこと、も、予見できていなかったことを示す挿話だというのに・・。(太田)

 それとともに総司令部の文麿に対する対応が急変した。
 11月9日、文麿は、戦略爆撃調査団から、東京湾上に浮かぶ軍艦アンコン号に呼び出され、約4時間にわたる厳しい尋問にさらされた。
 近衛はGHQから梯子を外されたばかりか、戦犯の指名を受け、巣鴨に出頭前夜、荻外荘で青酸カリを飲んで自殺した。」(266、268、270~271)

(続く)