太田述正コラム#13532(2023.6.8)
<太田茂『新考・近衛文麿論』を読む(その47)>(2023.9.3公開)

 「・・・頭山の人物眼の特質は、接する相手の「思想」の内容の是非ではなく、その人物が、真剣・誠実であり、真に国と人々を思い、そのために自らの信念に忠実に生きているか否かが判断の基準だった。 
 いったん相手を信頼すると、情況がいかに変化しても頭山はその人物への支援を貫いた。
 孫文や蒋介石に対しては、日本政府は、一時は彼らを支援しながら、袁世凱が実権を握ると袁を慮って孫文らへの支援を中断した。
 しかし、その時も頭山は支援を続け、いささかもぶれることがなかった。・・・
 日英同盟の下でイギリス政府からボースが追われたときも、頭山は日本政府の方針に反してもボースの庇護を貫いた。
 <中村屋の>相馬夫妻は信州出身の敬虔なクリスチャンであり<(注91)>、頭山とは思想的にはおよそ無縁だったが、頭山との人格的な信頼関係により、この庇護を全うしたのだ。

 (注91)相馬愛蔵(1870~1954年)。「信濃国(翌1871年より筑摩県)安曇郡白金村(現・長野県安曇野市)の豪農の家に生まれた。・・・東京専門学校(早稲田大学の前身)・・・在京中に市ケ谷の牛込教会に通いはじめ、キリスト教に入信し、洗礼を受けた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E9%A6%AC%E6%84%9B%E8%94%B5
 相馬黒光(1876~1955年)。「旧仙台藩士・・・の三女として仙台に生まれた。
 少女期より横浜バンド出身である押川方義の教会「仙台日本基督教会」へ通い、14歳で洗礼を受けた。・・・
 長女・俊子(インド人ラース・ビハーリー・ボースと結婚、正秀、哲子の2児をもうけたのち26歳で病死)<。>・・・
 多田駿(陸軍大将、黒光より6歳(数え年)年下)は、父方のいとこ<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E9%A6%AC%E9%BB%92%E5%85%89

⇒頭山の、ボースに対する見立てはともかく、孫文や蒋介石に対する見立ては、彼らが、「真に国と人々を思」っていなかった(コラム#省略)以上、誤りであるところ、そんなことは、「情況」の「変化」に応じたこの両名の生き様をきちんと追っておれば分かったはずなのに、頭山が、彼らへの「支援を貫いた」のは批判されるべきでしょう。
 (そもそも、どんな人物だって一生を通じて変わることがないとは言えない、ということも指摘しておきましょうか。)
 特定の人々に対する頭山の態度が終生変わらなかったことで頭山を高く評価する著者の考えが、私には全く理解できません。(太田)

 戦後岸信介首相が台湾を訪問し、蒋介石に「以徳報怨」のお礼を述べた際、蒋は、「(この考えは)実は、自分が留学した際に学んだ武士道の精神です。特に頭山先生、犬養先生という方々から実践を通じて教え込まれたものです。それは、東洋思想の基本であると同時に、日本の精神です。だから、私に感謝するというよりも、日本自身がもっている諸先輩の精神に感謝してください」と語った。
 蒋介石は莫大な戦争賠償請求を放棄<(注92)>し、日本領土の分割占領に中国も加わるのを断る<(注93)>ことでソ連の北海道占領を阻止した。

 (注92)「1949年8月、<米国>政府は『中国白書』を発表し、事実上の「中国喪失」を宣言することに従い、国共内戦において<米国>の支援を仰ぐ国府はすでに敗色濃厚という事態に直面していた。国府にとっては、対日戦争賠償が重要であるとはいえ、対米協調がより死活的な政策課題であるため、戦争賠償を対米協調の枠内に置くことを余儀なくされた。これによって、国民政府は対日賠償と対米協調という二者択一の窮地に追い込まれ、結局のところ、対米協調を選択することになった。」
https://nagoya.repo.nii.ac.jp/record/22781/files/nujlp_267_2.pdf
 (注93)「蒋介石は<、>・・・1944年・・・カイロ会談<の際、>・・・琉球を回収することを断念<すると表明するとともに、>・・・「日本降伏後、軍隊の駐留問題<について、>ローズヴェルト<の>、中国が指導的地位にあるべきだと<の>提案<に対しても、>・・・中国にはまだそのような任務を全うできる実力がないため、アメリカの主導下で進めるべきで、もし派兵する必要があれば、中国が協力できると応じた。蒋介石は対日軍事占領に対して消極的であったといえる。それは、彼がローズヴェルトに中国は日本に対して領土の野心がないことを示すためであった。・・・
 <蒋介石は、中国>に対するアメリカの警戒と懸念が、イギリスにも劣らない<と認識しており、>・・・アメリカの懸念を払拭<したかったのだ。>」
https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php/pdf%C2%A5AA12310306-20120331-0202.pdf?file_id=71772

 これらによって日本は戦後の復興を遂げたが、その根源に遡れば頭山の孫文・蒋介石支援に行きつくのだ。」(281~282)

⇒やれやれ。
 「注92」や「注93」を踏まえれば、蒋介石の戦後日本政策は、自分の政権の維持だけを念頭に置いたものであったことは明らかであり、著者が、その戦後日本政策に関し、どうしても蒋介石を高く評価したいのであれば、せめて、「注92」や「注93」的な学術的見解への批判がなされた上でなければならないでしょう。
 それにしても、蒋介石も岸も、よくもまあ互いに心にもないことを心の中で舌を出しながら言い交すことができたものです。
 まあ、「真に国と人々を思」うことなき政治屋であった点では両者は似た者同士でしたから、気が合った可能性は否定しませんが・・。(太田)

(続く)