太田述正コラム#13538(2023.6.11)
<太田茂『新考・近衛文麿論』を読む(その50)>(2023.9.6公開)

 「陸軍も海軍も、戦争末期になると、幹部たちは、内心では敗戦は必至であり、連合国との和平が必要だと思うようになった。

⇒「戦争末期になると」とは何事ですか。
 私と著者とでは、近衛の能力の評価にも相当違いがありそうですが、それは措くとして、「戦争が始まる前に」、近衛・・私に言わせれば、近衛ごときでさえも・・が対米英戦は敗戦必至と見ていたところ、首相当時の近衛よりも、陸軍や海軍の方が、軍事はもとより、政治や経済を含めた世界情勢について豊富な情報、しかも1次情報、を持っていたのですから、上層部は敗戦必至と見ていたはずである、とどうして著者は考えないのでしょうか。
 そう考えれば、にもかかわらずどうして陸海軍は対米英戦開始に反対しなかったのかに答えを出さなければならなくなるはずです。
 海軍の方については、旧海軍軍人達や歴史家等が、それなりに弁明なり推理なりをしています(典拠省略)が、陸軍の方については、寡聞にも存じ上げないと言ってもよさそうな状況が続いています。
 だからこそ、著者は(私のように)自分なりの推理を提示しなければならなかったというのに、著者もまた、スルーしてしまっています。(太田)

 しかし、それを公然と口にすることはできず、終戦工作は、陸軍でも海軍でも極秘のうちに検討された。・・・
 蒋介石は、抗日戦のためにやむを得ず共産党やソ連と連携しながらも、列強は自己の利害でしか動かないことを冷徹に見極め、ソ連の共産主義、戦後の国際社会や中国での権益拡大の強欲さを見抜いて警戒心を持ち続けていた。
 その洞察力の鋭さに、日本の軍中央も、そして為政者も、到底及ばなかった。」(295~296)

⇒近衛文麿礼賛の次は、よりにもよって蒋介石礼賛とは、まことにもって著者は変わったご仁ですねえ。
 蒋介石について、最も的確に表現していると私が思うのが下掲の一節です。↓
 ’Chiang presided over purges, political authoritarianism, and graft during his tenure in mainland China, and ruled throughout a period of imposed martial law. His governments were accused of being corrupt even before he even took power in 1928. He also allied with known criminals like Du Yuesheng<(注97)> for political and financial gains.’
https://en.wikipedia.org/wiki/Chiang_Kai-shek

 (注97)杜月笙(とげつしょう。1888~1951年)。「中華民国の犯罪組織指導者、実業家。秘密結社「青幇」の首領で、1920年代から1930年代にかけて黄金栄・張嘯林とともに上海暗黒街の三大ボスとして君臨し最も勢力が強かった。・・・
 国民党が北伐を開始し1927年に上海に到着すると司令官の蔣介石に接近。1927年4月、中華共進会を結成し、共産党を弾圧した上海クーデターでは、親しかった上海総工会委員長の汪寿華を呼び出し殺害、手下を使って何百人もの共産党員、労働者を虐殺した。そのことから南京国民政府誕生後は軍や政財界にも影響力を及ぼすようになる。
 蔣介石から少将の肩書きを授かり、国民党政府海陸空軍総司令部顧問、上海市抗日救国会常務委員、中国通商銀行董事長、国民党政府行政院参事、上海フランス租界華董など、様々な分野の要職についた。1929年には銀行を設立しフランス租界内の莫大な資金を一手に吸い上げた。
 1930年代は絶頂期であり、・・・彼は上流社会の名士となり慈善事業も精力的に行なった。労使紛争の調停にも活躍し1932年には政治団体「恒社」を設立している。人々は困ったことがおきると杜月笙を訪ねて解決してもらっていた。他の二大ボスを凌ぐ威望を持つようになったが、先輩にあたる二人を尊重し、立てていたという。
 しかし1937年に第二次上海事変が発生し日中戦争が勃発すると、杜月笙は・・・香港へ避難し、そこから上海と国民党政府がいる重慶を結ぶ「フィクサー」として活動した。1941年12月に日本軍の英領マレー侵攻をきっかけに太平洋戦争が勃発し日本軍に香港が占領されると重慶に逃れ、国民党の支配地区と日本の占領区との物資の流通で大儲けをした。
 日本が降伏し戦争が終結した1945年には上海に戻ったが、予想に反して歓迎されなかった。国民党上海市参議会の初代議長や第一期国民大会代表などをつとめたがすでに落ち目になりつつあり、1948年に三男が株の投売りで逮捕されたことで決定的になった。
 1949年に国共内戦で国民党が共産党に敗れると、妻子とともに<英国>の植民地に復帰した香港に逃れた。・・・晩年は長年のアヘン吸引によって健康を害し1951年に病死した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%9C%E6%9C%88%E7%AC%99

 蒋介石の「洞察力の鋭さ」?
著者は冗談がお好きなようで・・。↓
 ’ Liang Shuming opined that Chiang Kai-shek’s “greatest contribution was to make the CCP successful. If he had been a bit more trustworthy, if his character was somewhat better, the CCP would have been unable to beat him”. Some Chinese historians argue that the main determinants for Chiang’s defeat was not corruption or the lack of US support, but Chiang’s decision to start the civil war with 70% of government expenditures in the military, the overestimation of the nationalist forces equipped with US arms, and the loss of popularity and morales of soldiers.’
https://en.wikipedia.org/wiki/Chiang_Kai-shek 前掲
 とまあ、これほども支那国内情勢に係る洞察力すら欠如していた人物の国際情勢に係る洞察力など、口にするのも憚られるというものでしょう。(太田)

(続く)