太田述正コラム#13540(2023.6.12)
<太田茂『新考・近衛文麿論』を読む(その51)>(2023.9.7公開)

 「・・・中国大陸では、蒋介石の国民党軍との戦いが続く中で、日本陸軍と延安の共産党との水面下の連携も次第に強まった。・・・
 細川護貞『細川日記(上)』・・・には、1944年7月22日に「延安工作のため、在ソ日本人共産党員7名を延安に呼び寄する交渉を、政府、殊に陸軍が為し居れりと。恐るべく驚くべきことなり」と記載されている。・・・

⇒いや、最初から陸軍の杉山元らと延安(中国共産党)は提携していた、と私は見ているわけです。(コラム#省略)

 陸軍では<1944年>8月8日「今後採ルベキ戦争指導ノ大綱に基ク対外政略指導要綱(餡)が承認された。
 これは、「概ネ秋頃ヲ其ノ結實ヲ目途トシ『ソ』ヲシテ帝国ト重慶(延安ヲ含ム)トノ終戦ヲ、已ムヲ得サルモ延安政権トノ停戦妥協ヲ斡旋セシメ且独『ソ』ニ対シ独『ソ』間ノ国交恢復ヲ勧奨ス……速カニ有力ナル帝国使節ヲ先ツ『ソ』ニ派遣ス」としていた。
 そのために日本は、一、日独防共協定の廃棄、二、南樺太のソ連への譲渡、三、満州の非武装化または北半分のソ連への譲渡、四、重慶地区はソ連の勢力圏とし、中国における日本の占領域は日ソ勢力の「混交地域」とする、五、南京、重慶の合作を認めてそれを促進させ、その方法は支那の内政問題とする、六、蒋介石がこれに応じない場合には、中共を支援して重慶に代位せしめる、<七、>戦中、戦後における日ソ間の特恵的な貿易の促進、など今までにない大幅な譲歩案だった。
 それはソ連はもとより、中国では重慶よりも共産党の方に積極的に接近しようとするものだった。・・・

⇒1944年の6月のノルマンディー上陸作戦により、米英軍がフランス領域内に進撃するに至っており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC%E4%B8%8A%E9%99%B8%E4%BD%9C%E6%88%A6
また、同じ6月にバグラチオン作戦が発動され、7月中に、ソ連軍は、ドイツ軍を押し返してポーランド領域内まで進撃していて、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%81%E3%82%AA%E3%83%B3%E4%BD%9C%E6%88%A6
ドイツが敗北するであろうこと、従ってまた、独ソ停戦だの独ソ国交恢復だのにソ連が応じるはずがないことも、誰の目にも明らかであったにもかかわらず、8月初旬の時点でそういったことに言及してる点だけからでも、著者が引用する「要綱」は、当時、2度目の陸相を務めていた杉山元が、7月のサイパン陥落
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%91%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
を受け、浮足立つ国内向けに、陸軍も和平を真剣に模索している姿勢を装うために作成されたところの、単なる作文であったことが分かろうというものです。
 しかし、中国共産党への好意的姿勢にホンネが滲み出てしまっているのは面白いですね。(太田)

 <また、>1945年4月ころ、陸相秘書官の松谷誠大佐が部外の専門家と極秘裏に集まって終戦工作の研究を行っており、残されたペン書資料によれば、7~8月ころ、ソ連が米国との関係で東亜の処理に対するキャスティングボードを握ろうとして日本に和平勧告を行うだろうと予測し、その機会を利用すべきであって、その際の和平条件としては国体護持のみを最終的条件とすべきだとし、その理由として、一、スターリンは……人情の機微に即せる左翼運動の正道に立っており、したがって恐らくソ連は我が国に国体を破壊し、赤化せんとする如きは考えないであろう、二、ソ連の民族政策は寛容のものであり、スラブ民族は人種的偏見が少なく、民族の自決と固有文化を尊重し……ソ連は我が国体と赤は絶対に相容れざるものとは考えないだろう、三、ソ連は海洋への外郭防衛権<「圏」?(太田)>として日本を親ソ国家たらしめようと希望するだろう、四、戦後我が経済は表面上不可避的に社会主義的方向を辿るべく、この点からも対ソ接近が可能であろう、五、米の企図する日本政治の民主主義化よりも、ソ連流の人民政府組織の方が将来日本的政治への復帰の萌芽を残し得るであろう、などとソ連とスターリンに対し、幻想的とすらいえる甘い期待を持っていた。

⇒松谷誠は、杉山元陸相の時も、また、それに続く阿南惟幾陸将の時も陸相秘書官を務めており、杉山構想を開示されていて(コラム#12978)、余人をもって代えがたかった人物であった可能性が大です。
 しかも、終戦時の文書焼却命令(コラム#省略)に逆らってこの資料・・杉山から阿南への交代は1945年4月7日です
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%A4%A7%E8%87%A3
から、恐らくは、杉山の指示を踏まえた資料でしょう・・をわざわざ松谷が残した、とくれば、この資料は、当時と後世の人々をどちらも欺くために作成されたものである可能性が大です。
 「1945年4月7日に成立した鈴木貫太郎内閣の東郷茂徳外相は、日ソ中立条約が翌年4月には期限が切れても、それまでは有効なはずであったことから、ソビエト社会主義共和国連邦を仲介役として和平交渉を行おうとした。東郷個人はスターリンが日本を「侵略国」と呼んでいること(1944年革命記念日演説)から、連合国との和平交渉の機会を既に逸したと見ていたものの、陸軍が日ソ中立条約の終了時、もしくはそれ以前のソ連軍の満州への侵攻を回避するための外交交渉を望んでいたため、ソ連が日本と連合国との和平を仲介すると言えば、軍部もこれを拒めないであろうという事情、また逆にソ連との交渉が破綻すれば、日本が外交的に孤立していることが明らかとなり、大本営も実質上の降伏となる条件を受け入れざるをえないであろうという打算があったとされている。かつて東郷自身、駐ソ大使として、モスクワでノモンハン事件を処理し、ソ連との和平を実現させたという成功体験も背景にあったとされる。翌5月、最高戦争指導会議構成員会合(首相・陸相・海相・外相・陸軍参謀総長・海軍軍令部総長の6人)において、東郷外相は、ソ連の参戦防止及びソ連の中立をソ連に確約させるための外交交渉を行なうという合意を得た。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%99%8D%E4%BC%8F
という背景からして、この資料は、対ソ交渉にあたって、外務省向けにでっち上げたところの、陸軍が希望する交渉方針の背景説明に係る手持ち資料として当時は使われたものであって、後世向けには(杉山構想の存在を秘匿する狙いから)陸軍が愚かであったという誤った印象の流布に資するためのものだった、と、私としては見たいところです。(太田)

 また、6月頃、種村佐孝戦争指導班長は、ソ連をバックにして本土決戦、戦争完遂させるとして、小田原の近衛の別荘を訪ね、本土決戦に賛成してくれるよう頼んだという。」(296~297)

⇒、これは、杉山構想を開示されていなかったと私が見ている種村(コラム#12976)による、独断行動でしょうね。(太田)

(続く)