太田述正コラム#13556(2023.6.20)
<太田茂『新考・近衛文麿論』を読む(その57)>(2023.9.15公開)

 「・・・1945年6月9日の帝国議会で、鈴木総理が、「太平洋は名の如く平和の洋にして日米交易のために天の与えたる恩恵である、もしこれを軍隊搬送のために用うるが如きことあらば、必ずや両国ともに天罰を受くべし」と発言した「天祐天罰事件」<(注104)>で、議会の強硬派や右翼から猛烈な攻撃を受け、阿南陸相がその沈静化に努力した。

 (注104)「護国同志会は、鈴木の演説や答弁を非難する声明書を出し、その中で「(鈴木の)不忠不義を追及し、もってかくの如き敗戦醜陋の徒を掃滅し、一億国民あげて必勝の一路を驀進せんことを期す」と記した。閣僚内では、議会召集に最初から反対していた和平派の米内海相は内閣を反逆者扱いされたことに怒り、議会の閉会を主張した上、議会への反発から辞意を表明した。迫水によると、米内は護国同志会の罵倒のほかにも議会が法案への修正要求などによって内閣の動揺を誘っているのだから打ち切るべきだと主張し、会期延長による法案成立で閣議がまとまると「皆さん、そんならそうしなさい。私は私は私で善処する。しかし、皆さんには迷惑はかけません」と断言したことで、他の閣僚は辞意と受け止めたという。大日本帝国憲法では首相に閣僚の任免権はなく、海軍大臣が辞職して後任を海軍が指定しなければ総辞職せざるを得なくなる(軍部大臣現役武官制を参照)。このため、阿南惟幾陸軍大臣や鈴木が米内を説得して翻意させ、内閣総辞職は免れた。迫水の回想では阿南のほかに閣内の海軍出身者(左近司政三や豊田貞次郎、八角三郎ら)が説得に当たったが、阿南の慰留が「特に有効に作用した」という。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%BD%B0%E7%99%BA%E8%A8%80%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 その後の収拾策において、米内海相と左近司<(コラム#13078)>国務相が反対意見を主張し、辞意を漏らした。・・・
 阿南は左近司邸に特使を派遣し、「自分は陛下にお供するからどうか何分お頼みする」と申し入れる手紙を届け、米内の辞意を踏みとどまるように要請した。
 阿南は、この内閣は道草を食ってはならぬ、鈴木内閣により時局を収拾せねばならぬと考えていた。
 阿南の手紙を読んだ米内は「阿南がこんなことをいってきたのか、感心だな」と言い、米内は辞意を撤回した。
 阿南の死後、米内は「私には阿南と言う男は遂にわからなかった」と語ったという。

⇒米内の、時局観や人を見る目、判断能力、のなさに改めて驚かされます。
 阿南の15日未明の自決後、17日の鈴木内閣総辞職
https://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/43.html
までの間に、例えば、内閣書記官長の迫水等から情報収集して、この自分の疑問を氷解させる努力を怠るとは何事だ、ということです。(太田)

 迫水は、終戦の際、陸軍がクーデターの準備をしたとき、阿南陸相は、これを承諾し、みずからその指揮をとるから自分に任せよ、といったというが、これも部下の暴発を防ぐための阿南の深謀によるものであったとしている・・・。
 東久邇宮日記によれば、1945年1月26日、阿南が来訪し、今次大戦における陸軍と大本営の基本的な対応の問題や欠陥を語った。
 阿南は、最後に、こう語った。
 「根本的には、士官学校、陸軍大学の戦術教育が間違っていたのである。教官の質問に対し、適当な解答をしたものが優秀な成績を得るようだったが、これは常に受け身に立つ習慣をつくり、自発的、積極的に立つ教育を受けていなかったので、実敵に直面する時、つねに後手後手となり、敵の後塵を拝することとなり易い。また、学術の研究に走り、精神的鍛練を欠き、才子的頭脳の鋭敏なものが成績優秀とされ、精神的要素があまりにも顧みられなかった。これらの将校が、陸軍中央部の枢要な地位を占めていたことが、今日戦況不振の根本原因となったのである」・・・」(330~331、333)

⇒当時、「杉山ら陸軍首脳が阿南を外地から呼び戻していたのも、次期陸軍大臣を予定してのことであった」ところの阿南
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%8D%97%E6%83%9F%E5%B9%BE
は、「対中戦争の開戦及びその長期化、対米戦争突入には極めて批判的であった」東久邇宮
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%B9%85%E9%82%87%E5%AE%AE%E7%A8%94%E5%BD%A6%E7%8E%8B
に対して、自分を含む杉山元らは、「今日戦況不振」など最初からそうなるのは分かり切っていた、他方、戦争目的はこれまた最初から予想していたように達成される目途が立ちつつあると判断している、と、正直に返答するわけにはいかず、その場の思い付きで、日本の陸大経験のない東久邇宮(上掲)に対して、適当に口から出まかせを語ったに過ぎない、と、思います。(太田)

(続く)