太田述正コラム#13558(2023.6.21)
<太田茂『新考・近衛文麿論』を読む(その58)>(2023.9.16公開)

 「・・・なぜ阿南は「米内を斬れ」と言ったのか・・・
 <このような>すさまじい言葉は、いかに酒の席で、親しい身内との内話であったとしても、重厚な阿南が軽々に出せる言葉ではないだろう。
 この言葉は、竹下正彦が、「大本営機密作戦日誌」<(注105)>に記載していた。

 (注105)「戦争指導班は、昭和11年(1936年)の参謀本部の中に創設された通称「戦争指導課」(第2課)が、その始まりです。昭和12年(1937年)に戦争指導課は廃止され、新たに第2課となった参謀本部作戦課に所属する「戦争指導班」(第2課第1班)として改編されました。しかし、昭和15年(1940年)に、戦争指導班は作戦課を離れ、参謀次長が直轄する第20班となりました。戦争指導班の任務は、長期的、総合的な観点から国策の企画および立案を行うことでした。とくに、昭和15年からは、大本営政府連絡会議に提出する議案の作成や審議に参加し、陸軍省や海軍省、軍令部、外務省などの部局との折衝を通じて、政治や外交、経済問題にかかわりました。そうした戦争指導班の具体的な業務については、班の職員が日常の業務を記述した業務日誌である『機密戦争日誌』に記載されています。また、『機密戦争日誌』には、業務の記録だけでなく、執筆を担当した職員の個人的感情も記されています。」
https://www.jacar.go.jp/nichibei/reference/index09.html

⇒当時、軍務局軍務課内政班長だった竹下(コラム#12986)が、当時、参謀本部第12課の業務日誌であった「大本営機密作戦日誌」(注105)に記載できたのは、陸軍省軍務課と参謀本部第12課が合併し、陸軍省軍務課=参謀本部第12課、となっていたからでしょうが、この日誌が焼却されずに残されたのは、杉山元らの指示によるはずであり、そうである以上、(阿南を含む)杉山元らの真の言動が削除されるか改変されていると見なければならないことになります。(太田)

 その記載では、自刃の前の阿南の言葉として、まずお世話になった要人、知人らへの感謝、家族に対する言葉に続いて
一 豊田、大西、畑閣下ニ厚思ヲ謝ス
一 板垣、石原、小畑閣下ニ同ジク
一 荒木閣下ニヨロシク
一 米内ヲ斬レ
と並んでいる・・・。

⇒「お世話になった要人、知人ら」に列記されているのかもしれませんが、事実上自分を後任陸相に指名した杉山元前陸相や、終戦を共に決定した梅津美治郎参謀総長が出て来ないことが不思議ですが、四つの「一」内に列記されている人々中、杉山構想を開示されていたと私が見ているのは畑俊六・・陸相の時に阿南は次官として仕えた・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%91%E4%BF%8A%E5%85%AD
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%8D%97%E6%83%9F%E5%B9%BE
だけであることから、やはり、杉山構想隠しのニオイがします。(太田)

 酒の席でのそのような瞬間的に口に出た言葉であれば、竹下らは聞き流すだけで、記録に残すようなことはしなかったのではなかろうか。
 竹下が敢えてこの阿南の言葉を記録にとどめたのは、竹下がこの言葉に何かの重みを感じたからではないだろうか。
 しかし、戦後になって、それが阿南の真剣な言葉だったと説明すれば大きな物議をかもすおそれがある。・・・
 角田<房子>・・・『一死大罪を謝す』・・・で、こう書いている。
 「竹下は、かねがね阿南が米内・・・を尊敬していると思っ<てい>たので『思いがけない言葉でした』と語る。竹下は『それほど意味のある言葉とは思われません……その時阿南はもうかなり酔っていましたし”米内を斬れ”といったあと、すぐ他の話に「移ったことからも、深い考えから出た言葉ではなかったことがわかります』と語った。・・・松谷誠も、『その場にいた竹下さんのいう通り、意味のない言葉だったのでしょう……日ごろから阿南さんは、深く考えてものをいう人ではなかった。自分の言葉の影響も余り考えず、瞬間的に頭にひらめいたことをすぐ口に出す人でした』と語る」・・・
 竹下<や>松谷<が>この言葉の意味を薄めるような配慮が働き、<こ>のような説明をしたのではないかという気がする。・・・」(334~336)

⇒このくだりは、著者に同意です。
 以下、著者は、「米内ヲ斬レ」がいかなる意味で発せられたのかについて、私の行った簡単な推察(コラム#13183)を詳述化したような推察を行っていて、なかなか読ませますが、引用は省略します。(太田)

3 終わりに

 この本は、近衛文麿が行ったものを中心に、日支戦争/大東亜戦争に係る種々の終戦工作を詳細に取り上げており、その中には私の知らなかったものもいくつかあり、その点や、陸軍よりもむしろ海軍に厳しい点、は評価しますが、既述したような様々な問題点があり過ぎです。
 それが何に由来するかですが、私が思うに、著者が、その経歴から見て優秀な検事たる法務官僚であったことの弊害が、弁護士に転じたためにか矯正されないままであると思われるところの、一面的な人物評価しかしない、ないしはできない、ところにあります。
 (官僚の優秀さは、自分が所属する組織の目的や利益を主張、実現する能力があるかないかで判断されるところ、そのこと自体は必ずしも悪いことではありません。誤解なきよう。)
 要するに、彼は、検事という被告を断罪する姿勢、または、弁護士という被告を擁護する姿勢、しかとれず、歴史家に要求されるところの、裁判官の公正な姿勢、がとれない人物である、というのが私の見立てなのです。
 そのことを端的に示すのが、このような大部の近衛擁護本の中で、彼が、近衛文麿に対する、井上成美と東郷茂徳の厳しい否定的人物評(注106)・・前者の一部を私はかつて引用したことがあります(コラム#省略)・・を、どちらについても、全く紹介していないことです。

 (注106)井上成美:「あんな、軍人にしたら、大佐どまりほどの頭も無い男で、よく総理大臣が勤まるものだと思った。言うことがあっちにいったりこっちにいったり、味のよくわからない五目飯のような政治家だった。・・・
 近衛という人は、ちょっとやってみて、いけなくなれば、すぐ自分はすねて引っ込んでしまう。相手と相手を噛み合せておいて、自分の責任を回避する。三国同盟の問題でも、対米開戦の問題でも、海軍にNOと言わせさえすれば、自分は楽で、責めはすべて海軍に押し付けられると考えていた。開戦の責任問題で、人が常に挙げるのは東条の名であり、むろんそれには違いはないが、順を追うてこれを見て行けば、其処に到る種を播いたのは、みな近衛公であった。」
 東郷茂徳:「・・・薄志且矛盾に富たる性格は、結局政治家として失敗せしものなり。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E6%96%87%E9%BA%BF

 著者は、これらの近衛評を紹介してしまうと、評者がどちらも近衛を熟知したひとかどの人物であるだけに、適切な反論ができず、自分の近衛擁護論が成り立たなくなりかねないと危惧し、あえて紹介しなかったのしょうが、なんと姑息なことでしょうか。(太田)

(完)