太田述正コラム#13570(2023.6.27)
<宮野裕『「ロシア」は、いかにして生まれたか』を読む(その6)>(2023.9.22公開)

 「また、・・・広大な領域を支配するために、キエフ公は各地の拠点にその親族を代官のような形で配置しました。
 その後、各拠点都市はキエフ公の支配を認めつつ、中心都市と周辺領域からなる「諸地域」を緩やかに形成しはじめます。
 11世紀半ばには特定の分家が特定の地域を相続する傾向が強まり、特に11世紀末にこれが固まると、諸地域は「公」を頂点とする公国を形成し、それぞれが独自の発展を見せることになりました。」(14)

⇒英語で言うところのGrand Prince of Kievを戴くKievan Rus’(キエフ・ルーシ)
https://en.wikipedia.org/wiki/Kievan_Rus%27
の訳語としてキエフ大公を戴くキエフ公国ないしキエフ大公国、という日本語が使われるのはどうしてなのか、また、それには、より上位の主権者がいるという含意があるのか、が気になったので調べてみました。↓
 Grand prince or great prince (feminine: grand princess or great princess) (Latin: magnus princeps; Swedish: Storfurste; Greek: megas archon; Russian: великий князь, romanized: velikiy knyaz) is a title of nobility ranked in honour below Emperor, equal to Archduke, King, Grand duke and Prince-Archbishop; above a Sovereign Prince and Duke.
https://en.wikipedia.org/wiki/Grand_prince
 つまり、大公の場合は、より上位の主権者がいないわけです。
 で、このことを踏まえれば、著者には、キエフ公ではなく、キエフ大公、という言葉を一貫して用いて欲しかったですし、キエフ大公国ではなく、キエフ・ルーシ国、という言葉を用いて欲しかったところです。
 なお、”Velikiy knyaz (Meaning closest to Grand Prince but was generally translated as Grand Duke in state documents written in Latin), used in the Slavic and Baltic languages, was the title of a medieval monarch who headed a more-or-less loose confederation whose constituent parts were ruled by lesser knyazs ( often translated as “princes” ) .”ということなので、キエフ大公国は、著者の言うように、次第に分権的になったのではなく、最初から分権的だったのではないでしょうか。
 この際、ついでに、改めてルーシの建国事情を探ってみました。↓
“the Chronicle relates that the people fought with each other and eventually were subjugated by the Khazars<(注9)> of Central Asia (Turkey) and the Varangians (Vikings) of Scandinavia.

(注9)「『旧唐書』,『新唐書』に出てくる波斯(ペルシア)国(サーサーン朝)に北隣する「突厥可薩部」がこの「ハザール」のことと考えられている。・・・
 ハザールはおそらく6世紀末にカスピ海沿岸およびカフカスからアゾフ海のステップに進出したが、その時期はまだ西突厥の勢力が強大で、その宗主権のもとに置かれていた。・・・
 7世紀の中ごろ、西突厥の衰退と共にハザールはその後継国家ハザール・カガン国を形成し、独立を果たす。一方、南ロシアのステップでは、オノグル・ブルガールの部族連合「古き大ブルガリア」が成立した(635年)。・・・ハザールが西進すると古き大ブルガリアは崩壊し<た>(653年)<。>・・・
 ハザールはカフカスをめぐってサーサーン朝ペルシアと対立していたが、サーサーン朝が新興のイスラーム共同体(ウンマ)によって滅ぼされると(651年)、代わってイスラーム共同体とカフカスをめぐって争うようになった。・・・
 一方、東ローマ帝国とは共通の敵がペルシア(サーサーン朝)とアラブ(イスラーム)と一緒であったため、利害が一致して<おり、>・・・比較的友好な関係にあったハザールと東ローマ帝国は婚戚関係も結んでいる。・・・
 ハザールのユダヤ教受容は非常に有名であるが、・・・9世紀初頭と考えるのが妥当なところであろう。・・・
 黒海及びカスピ海の北にあったハザールがイスラーム帝国の北進に抵抗したことは、結果的に<欧州>の東部からイスラーム化が進むのを防ぐ役割を果たした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%83%AB
 「6世紀の中頃、・・・テュルク系遊牧民<の>・・・ブルガール人はクブラトという人物をハンとして、アゾフ海の北岸からヴォルガ川下流域の草原地帯において部族連合国家「大ブルガリア」を形成した。
 しかしクブラトの死後、ブルガール部族連合は早くも分裂し、北方にはヴォルガ・ブルガール、西方にはドナウ・ブルガールが移住していった。原住地に残ったブルガール人たちは、アゾフ海沿岸を支配する部族連合国家を維持し、ヴォルガ・ブルガールやドナウ・ブルガールとの対比から大ブルガリアと呼ばれた。大ブルガリアの本拠地は、現在のアゾフ・ロストフの北方の草原にあった。
 大ブルガリアは7世紀頃、西突厥の支配を脱して西進を開始したカフカス北麓のテュルク系遊牧民集団ハザールによって駆逐され、多くの部族民はハザール可汗国に加わった。彼らは次第にハザール人と同化してゆき、10世紀にハザールが滅亡したのとともにほとんど解体した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%83%AB%E4%BA%BA

(続く)