太田述正コラム#13572(2023.6.28)
<宮野裕『「ロシア」は、いかにして生まれたか』を読む(その7)>(2023.9.23公開)

 The Slavs of the region were forced to pay tribute to the Khazars and the Varangians until they drove the Varangians out but maintained the relationship with the Khazars. Afterwards, however, they found that they could not govern themselves and the tribute paid to the Khazars was too great. Even though they had been tired of paying the Varangians, they recognized that life may have been better under their protection. ・・・
 Archaeological evidence shows that Scandinavians lived in Ladoga<(注10)> from its inception: a set of Scandinavian-Baltic smithy tools, including a talisman with the face of Odin, was found in a stratum of the 750s…The Scandinavians who visited Ladoga did not come to loot and raid.

 (注10)「スタラヤ・ラドガ・・・はロシア・レニングラード州のヴォルホフスキー地区にある小さな村である。ラドガ湖の南、ヴォルホフ川を若干遡った位置にある。
 8世紀および9世紀、この地には東ヨーロッパでも有数の豊かさを誇った交易拠点ラドガがあり、ノルマン人のルーシ族が支配者であった。現在のロシア人の起源の一つであるルーシの都であったことから、ラドガは「ロシア最初の都」とも呼ばれる。・・・
 1703年、ピョートル大帝は、ラドガ湖岸により近い位置に、新しい街であるノヴァヤ・ラドガ(Novaya Ladoga, 「新しいラドガ」)を建てた。古代の城塞と街は次第に衰退し、新しいラドガとの区別のため「古いラドガ」、スターラヤ・ラドガと呼ばれるようになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%A9%E3%83%A4%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%89%E3%82%AC
 「ロシア・ウクライナ・ベラルーシでは、キエフ・ルーシ期(9 – 13世紀)から連水陸路・・・волок / ヴォロク・・・の利用が記録されており、航行可能な二河川間の連水陸路では、物資とともに、船自体を引きずる、あるいは担いでの運搬が行われた。すなわち、中世にはラヂヤー(ru)(中世の船の一種)や丸木舟などの船が、目的の水路まで連水陸路を越えて運ばれていた。また、連水陸路沿いに建設・発展した都市もある(ヴォロコラムスク、ヴイシニー・ヴォロチョーク等)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%A3%E6%B0%B4%E9%99%B8%E8%B7%AF

 There were no other towns in the vicinity, monasteries did not exist, and the neighboring burial mounds of the local peoples were very modest in their contents. There was little of value to steal here. Ladoga was created to facilitate access to the interior of European Russia, with all its natural wealth.
 The evidence further suggests that Ladoga became a seasonal settlement later or, at least, the population fluctuated which is in line with the Chronicle’s narrative of the Slavs ejecting the Varangians and then inviting them back.”
https://www.worldhistory.org/Kievan_Rus/
 要するに、原初年代記によれば、原住の東スラヴ人達は互いに戦い合っていたため、ヴァイキングに服属させられたりハザール人に服属させられたりしていたけれど、ヴァイキングを追い出すことに成功し、全員がハザール人に服属することになったところ、自分達に自身の統治能力がなく、また、ハザール人が貢納を釣り上げてきたので、全員がヴァイキングに服属するのでハザール人を追い出してくれとヴァイキングに他のみ、それが実現した、というのです。
 恐らくその実態は、東スラヴ人達は、団結ができず、従って外部勢力に対して戦う意思も能力もなく、遊牧民たるハザール・カガン国に従属し、貢納をしていたところ、略奪する意味がないほど貧しかった東スラヴ人達に関心を持つことなく、黒海やカスピ海北方地域やビザンツ帝国における交易・強奪のためのいわばベースキャンプとして不定期にラドガを訪れていたヴァイキング達に対して、ハザール人に支払っている貢納ほどではないけれど貢納を行うので、ラドガに定住して自分達をハザール人から保護して欲しいと申し出、ヴァイキング達がそれを受けた、といったことが相互に阿吽の呼吸で生じた、のではないでしょうか。
 銘記すべきことは、第一に、東スラヴ人は貧しく自己統治能力も戦闘能力も薄弱だった、第二に、東スラヴ人にはアジア系遊牧民に服属し貢納していた歴史がモンゴルの襲来より前からあった、第三に、その統治能力と戦闘能力は同じ白人種/印欧語族を支配層として戴いた結果として見かけの上で得られたものである、ことです。
 そして、直ちに生じる疑問は、モンゴル(タタール)の軛という観念は生れてもハザールの軛という観念が生まれなかったのはなぜか、であり、それとは微妙に異なるところの、モンゴルの軛という観念は生まれてもヴァイキングの軛という観念が生まれなかったのは互いに同肌色/近似言語だったからだ、ということでいいのだろうか、です。(太田)

(続く)