太田述正コラム#13584(2023.7.4)
<宮野裕『「ロシア」は、いかにして生まれたか』を読む(その13)>(2023.9.29公開)

 「・・・直接モンゴルに侵攻されなかった・・・ノヴゴロドは隷属を拒絶したと記す年代記があります。
ただ、直接の侵攻を受け、都市や住民が虐殺を被った北東、そしてその中心地ウラジーミルの大公であったヤロスラフには、表立ってバトゥに刃向かう気力や判断は生じなかったようです。・・・
 1243年にヤロスラフはバトゥから呼び出しを受けてサライの彼のもとに参上し、他方で息子コスチャンチンをモンゴル帝国の首都カラコルムに派遣しました。
 1244年に・・・<も>大公ヤロスラフは弟や息子たちと一緒にバトゥのもとを訪れました。・・・
 後代のものではありますが、1246年にヤロスラフがバトゥのジョチ・ウルスに貢納を始めたとする年代記の証言があります。・・・
 <その>大公ヤロスラフ・・・<は、>1246年、モンゴルの都カラコルムに滞在中・・・殺され<てしまいます。>
 <その>背景については、当時のモンゴル本国とジョチ・ウルスとの対立(バトゥはグユク<(注24)>の大カアン即位をよしとしなかったのです)を背景にしたとする説や、モンゴルに対抗するためのヤロスラフとローマ教皇との交渉が大カアンの怒りを買ったとする説(1245年12月か46年はじめにはスズダリ公がリヨンの公会議<(注25)>に使節を送っています)があります。・・・

 (注24)1206~1248年。皇帝:1246~1248年。「初代皇帝チンギス・カンの三男のオゴデイの長男として生まれる。・・・
 1235年初春、オゴデイはカラコルムを首都と定め、併せてこの時召集されたクリルタイで、ジョチ家の当主バトゥを総司令官とする<欧州>遠征軍、三弟のクチュ、次弟のコデンらを総司令官とする南宋遠征軍、さらには高麗へも軍を派遣することが決定し、グユクはオゴデイ家を代表してバトゥの西方遠征に従軍することになった。
 バトゥに次するトルイ家の長男のモンケやチャガタイ家のブリなどとともに、グユクはルーシ遠征で活躍した。1239年にはモンケとともにアラン人との戦闘で戦果を挙げる。しかし『元朝秘史』や『集史』によると、遠征中の酒宴でブリがジョチ家の王子たちと口論になり、遠征軍の総大将であるバトゥを面罵し、グユクもブリに同調したと伝えられる。
 『元朝秘史』によると、遠征中のバトゥからこの報告を受けたオゴデイは激怒し、グユクとブリは本国への召還を命じられた。『集史』ではグユクに伴ってモンケもモンゴルへ帰還したという。しかしオゴデイは1241年、グユクが本国に帰還する途上で病没してしまった。・・・
 グユクはモンゴル本国への召喚中に、1241年1月に発せられたオゴデイの訃報に接し、加えてグユクの生母のドレゲネが摂政としてオゴデイの後継者を選出するクリルタイの招請にも接した。モンケは<欧州>遠征軍に従軍しグユクが本国へ召還されたことに伴い、これに随伴したという。
 不仲の従弟バトゥはグユクと<その母の>ドレゲネを嫌ってクリルタイへの参加を拒否し続け、皇室の長老であるバトゥが欠席したまま後継者を決めることを反対する声も上がったが、ドレゲネによってクリルタイの開催は強行され・・・グユク<は>・・・第3代<カン>に即位することとなったのである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%A6%E3%82%AF
 (注25)「イタリアの支配権をめぐって、<インノケンティウス4世>教皇と皇帝フリードリヒ2世<(コラム#546、547、552)>の間の争いは膠着状態に陥っていた。皇帝が実力行使に出て、軍隊によって教皇を包囲すると、教皇は重囲を脱出してジェノヴァに逃れた。そこからさらに北上して1244年12月にリヨンにいたり、1245年1月に公会議の召集を宣言した。
 1245年6月に、アンティオキアとコンスタンティノープルのローマカトリック大司教、アクイレイアの大司教他、フランス人やスペイン人を中心に司教150名あまり、ほかにもフランス王ルイ9世なども参加して公会議が始められた。公会議では、フリードリヒ2世への弾劾が中心に扱われたが、それ以外にもラテン帝国への支援や、モンゴル人の侵入への対応(この対応策の一つがプラノ・カルピニのモンゴル帝国派遣)、さらなる十字軍(第七回十字軍)の編成などが討議された。最終的に公会議は皇帝フリードリヒ2世に対し、平和の破壊者、異端の疑いという罪状を示し、皇帝位を剥奪した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC1%E3%83%AA%E3%83%A8%E3%83%B3%E5%85%AC%E4%BC%9A%E8%AD%B0
 「ラテン帝国(英語:Latin Empire / Latin Empire of Constantinople)とは、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)から奪ったコンスタンティノープルに第4回十字軍の指導者らが建国した封建制十字軍国家である。正教会のローマ皇帝に代わってカトリックの皇帝を即位させるとともに、ラテン帝国は東ローマ帝国に代わって東方で西洋諸国が認めるローマ帝国になろうとしていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%86%E3%83%B3%E5%B8%9D%E5%9B%BD

 両説とも蓋然性は十分にあります。」(24~25)

⇒私自身は読んでいないのですが、岡田英弘は、『世界史の誕生–モンゴルの発展と伝統』という本を書いている
https://www.amazon.co.jp/%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%8F%B2%E3%81%AE%E8%AA%95%E7%94%9F%E2%94%80%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%AB%E3%81%AE%E7%99%BA%E5%B1%95%E3%81%A8%E4%BC%9D%E7%B5%B1-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%B2%A1%E7%94%B0-%E8%8B%B1%E5%BC%98/product-reviews/4480035044
ところ、文字通り、ルーシ諸国に対するモンゴルの軛がリンチピンとなったところの、東アジア、欧州、イスラム界、を結び付けた世界史、が、13世紀半ばに成立した、と、改めて身に沁みさせられます。(太田)

(続く)