太田述正コラム#13598(2023.7.11)
<宮野裕『「ロシア」は、いかにして生まれたか』を読む(その20)>(2023.10.6公開)

 「・・・タタールのくびきからの離脱についての記述は、1480年5月に死去したポーランドの年代記執筆者ヤン・ドゥウゴシによるものが最初です。
 彼はその年代記の1479年の記事で、モスクワのイヴァン3世を称えながら、彼が「野蛮なくびきを取り除き、自分の公国や国々と共に自由になり、長い間モスクワを縛ってきた奴隷のくびきを取り払った」と述べています。
 この言明は<1480年の>ウグラ川での「対峙」<(注38)>がまだ生じていない段階のものであることが大変興味深いところです。」(97)

 (注38)「15世紀後半、モスクワ大公国のイヴァン3世はヤロスラヴリ公国(〜1471年)、ロストフ公国(〜1474年)、ノヴゴロド公国(〜1478年)といった周辺の諸公国を征服してオカ川以北一帯を統一し、国家機構を整備して急速に勢力を拡大しつつあった。一方、ジョチ・ウルスではトクタミシュの敗亡後各地でノガイ・オルダやクリミア・ハン国など諸勢力が自立し、著しく統治権を縮小したジョチ・ウルス宗家は「大オルダ」と呼称されるようになった。
 大オルダは西方で勢力を拡大していたヤギェウォ朝ポーランド・リトアニアのカジミェシュ4世と同盟を結び、これに対してモスクワはクリミア・ハン国と同盟することで大オルダに対抗した。1472年、大オルダのアフマド・ハンはリトアニア国境に近いアレクシンを焼き、オカ川を越えてモスクワ領を襲撃したが、ロシア人の抵抗にあって退却した。1479年末、イヴァン3世は兄弟であるウグリチ公アンドレイらの叛乱を受け、更に翌年初頭にはリヴォニア騎士団の侵攻があった。これらの事件とアフマド-カジミェシュ同盟は恐らく間接的に繋がっており、イヴァン3世の窮状につけ込む形でアフマド・ハンのモスクワ侵攻は始まった。・・・
 ウグラ河畔の対峙は、1480年にウグラ川のほとりで行われた、大オルダのアフマド・ハン軍とモスクワ大公国のイヴァン3世軍による対陣。・・・
 アフマド軍の川を渡ろうとする試みはすべて失敗したが、これは主にロシア軍の小火器によるもので、逆にアフマド軍の矢は川幅が広いため届かなかった。戦場はウグラ川の河口から西に向かって5kmに渡って広がっていた。アフマド・ハンはこれ以上の努力は無駄と覚り、リトアニア軍の合流を待つため2露里(2km)南のリトアニア領ルザ(Luza)に退却し・・・膠着状態となった<、結局、>・・・アフマド・ハンがモスクワ軍を破ることを諦め、退却したことで終結した。・・・
 退却の途中、アフマド・ハンはムツェンスクを含むリトアニアの12の町を襲撃したが、これらの町はカジミェシュ4世に対して陰謀を企んでおり、その懲罰として襲撃を受けたのではないかと考えられている。・・・
 1481年1月6日、アフマド・ハンがリトアニアから多大な戦利品を得たことを知ったシビル・ハン国のイバク・ハンとノガイ族はこれを急襲し、油断していたアフマド・ハンはイバク・ハンの奇襲を受けて死亡した。アフマド・ハンの死後、大オルダは内紛とクリミア・ハン国との抗争によって弱体化し、1502年にクリミア・ハン国が首都サライを占領したことで滅亡した。大オルダの滅亡はそれまで友好関係にあったクリミアとモスクワの関係悪化を招き、1784年まで続く両国間の抗争を引き起こした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%B0%E3%83%A9%E6%B2%B3%E7%95%94%E3%81%AE%E5%AF%BE%E5%B3%99
 「1430年前後のジョチ・ウルスのハン位をめぐる激しい内乱の後、・・・クリミアにいたハージー1世ギレイは、リトアニア大公国の支持を受けて自立をはかり、1441年頃、クリミアにおいてハン位を自称、独立を宣言した。一般に、これをもってクリミア・ハン国の成立とみなされている。 ハージー・ギレイの死後、クリミアではハンの位を巡ってハージー・ギレイの息子たちの間で内紛が起こり、1475年にオスマン帝国の介入を受けた。オスマン帝国は、ジェノヴァが保有していたクリミア半島南岸の諸港湾都市を奪って自領に編入するとともに、内陸部から半島以北を支配するクリミア・ハン国を従属国とした。
 一方、オスマン帝国の支持を得て1478年にハンの座を最終的に確保したハージー・ギレイの六男メングリ1世ギレイは、オスマン帝国の保護下で勢力を蓄え、1502年にはサライを攻略、分裂後のジョチ・ウルスにおいて正統政権と目される大オルダ(ウルグ・オルダ)を滅ぼし、大オルダの併合がこの政権にジョチ・ウルスの正統な後継者としての権威をもたらした。これにより、黒海北岸をドニエプル川下流域から北カフカスの一部まで支配し、タタールのみならずノガイ・オルダの一部まで支配する王国に成長した。なお、その後クリミア・ハン国のハン位を独占したメングリ1世ギレイの男系子孫はみな名前の後半に「ギレイ」の名を冠したため、この王家は「ギレイ家」と通称されている。1532年、サーヒブ1世ギレイは<クリミア半島南部の>バフチサライに宮殿を築き、そこへ遷都した。
 16世紀前半のクリミア・ハン国はカザン・ハン国へしばしばハン位の継承者を送り出し、同じくカザンへの影響力を強めようとするモスクワ大公国と対抗関係にあり、その軍勢はモスクワやトゥーラを幾度も包囲し、モスクワ大公国を大いに脅かした。世紀半ばにはカザン・ハン国、アストラハン・ハン国がモスクワによって相次いで滅ぼされ、タタールの国々へのモスクワの影響力が増すが、1551年に即位したデヴレト1世ギレイの率いるクリミア・ハン国軍は、モスクワ大公国がリヴォニア戦争(1558年–1583年)の最中に、露土戦争 (1568年-1570年)でオスマン帝国と共にアストラハンへ攻め込んで逆襲を試みた。1571年のロシア・クリミア戦争では、ポーランド・リトアニア連合王国と結んでモスクワを強襲し、モスクワの町を焼き払った(モスクワ大火 (1571年))。1572年にもモロディの戦いで再び攻め込んだが、撃退された。
 また、このような大規模な遠征でなくとも、クリミア・ハン国のタタールやノガイたちはしばしばモスクワ大公国の領内に攻め込み、都市や農地を焼き払い、住民を捕虜として連れ去った。このためにクリミアの都市の商館は商品となるロシア人やウクライナ人の奴隷で溢れかえったと言われている。 モスクワ大公国は捕虜となった人々を奴隷身分から買い戻すために多額の支出をせねばならず、また、襲撃を回避するためにジョチ・ウルスの正統継承者として貢納を課すクリミア・ハン国の要求に応えねばならなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%9F%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%B3%E5%9B%BD

⇒モスクワ公国は、属国となっていたプスコフ(Pskov)公国
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%95
https://en.wikipedia.org/wiki/Pskov_Republic
において1478年に火縄銃を初使用した
https://en.wikipedia.org/wiki/Arquebus
ところ、これをウグラ河畔の対峙の際にもモスクワ公国側が使用したと思われるのに対し、オスマン帝国は火縄銃を15世紀前半から使用しており(上掲)、クリミア・ハン国が弓矢しか持っていなかったのは、オスマン帝国が属国のクリミア・ハン国に火縄銃が渡らないようにしていたのではないでしょうか。
 また、著者は、この対峙において、事実上、ルーシはモンゴルの軛から脱したという立場をとっています(後述)が、オスマン帝国の属国にまで落ちぶれたとはいえ、クリミア・ハン国、によるモンゴルの軛は、貢納/奴隷狩り、の形で18世紀後半の露土戦争の時・・ルーシ改めロシアはその勝利により同ハン国をオスマン帝国から切り離した・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%9F%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%B3%E5%9B%BD 前掲
まで続いたと見られる以上、そうは言えないと私は思います。(太田)

(続く)