太田述正コラム#13604(2023.7.14)
<宮野裕『「ロシア」は、いかにして生まれたか』を読む(その23)>(2023.10.9公開)

 「・・・1472年<の>・・・アフマトの最初の遠征・・・時に行われたモスクワと大オルダとの交渉を記す年代記によると、アフマト側の要求として、今まで9年間支払われていないタタール税が止まっていたことがうかがえるのです。
 この税はタタールのくびきの重要な柱でしたから、これは大事(おおごと)でした。・・・
 それゆえに、くびきからの離脱はすでに1472年から徐々に進んで<おり、イヴァン3世のアフマトとのウグラ河畔の対峙の>・・・1480年はこの離脱が確定した年で<あると見ることができるのです>。・・・
 ・・・確かに、大オルダは1502年にクリミアのカン・メングリ・ギレイに滅ぼされるまで存続しました。
 しかしこの意見は、「大オルダの存続」イコール「くびきの存続」としている点で問題を抱えています。
 実際にはどのような「くびき」が課されていたのか、そのことが考慮されていないのです。
 他方で、1502年に大オルダは滅びましたが、その後はこれに代わってクリミア・カン国がモスクワと敵対しはじめ、時に(例えば1521年)モスクワに大軍を派遣しました。
 そのことをもって、くびきは外れていなかったとする意見があります。
 しかし、イヴァン3世はかつてのモスクワ大公たちのようにカンの宮廷を訪れて臣従を誓うようなことはなく、またタタール税を収めることも(基本的には)ありませんでした。
 だからクリミア・カン国の存在がくびきなのだとするのはなかなか難しいところです。
 この場合、クリミアはモスクワにとってただの敵対国です。

⇒著者は、「基本的には」とか「なかなか難しいところです」とか口を濁していますが、ご自分の主張が無理筋かも、という潜在意識があるからこそでしょう。
 (「イヴァン3世・・・はタタール諸国<・・クリミア・カン国やカザン・カン国(下出)・・>への貢納を不定期の「贈り物」として続け<たところです。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B33%E4%B8%96 )
 「ただの敵対国」、例えば、ドイツ騎士団だのポーランド/リトアニアが、ルーシ諸国の民衆を略奪の対象として連れ帰り、奴隷として苦役に従事させたり、身代金を要求したり、奴隷として売り飛ばしたりすることはなかった(典拠省略)のに対し、大オルダにせよクリミア・カン国にせよ、貢納の一環として、或いは、支払われない貢納を要求するための手段として、それらを続けたのですからね。
 ここで、肝腎なのは、民衆からすれば、額や時期がある程度予見できるところの、モンゴルへの貢納、それ自体は怨嗟の対象とは必ずしもならんかったと思われる・・モンゴルへの貢納が取りやめになったところで、各公国の支配者が自らへの貢納を増やせば何も変わらないことを思え・・のに対し、事柄の性格上予見できないところの、自分自身やその近しい者自身の身体の略奪、が生起すれば、その身内か自分達の支配者が貢納名義の身代金を支払わなければ、自分自身やその近しい者が異邦において奴隷のままで生涯を終えなければならなくなる以上は、1774年にクリミア・カン国をロシアが事実上保護国化する(前述)まで、そのことが「くびき」として怨嗟の対象であり続けたであろうことが容易に想像されることです。
 この怨嗟の念が積もり積もったものが民衆の間でトラウマ化し、19世紀以降もロシア国民の間で代々引き継がれていき、現在に至っている、というのが私の見方なのです。(太田)

 同様のことは1552年にモスクワに征服されたカザン・カン国<(注44)>との関係でも指摘されることがあります。・・・

 (注44)「カザン・ハン国 (・・・Kazanskoe khanstvo・・・) は、15世紀から16世紀にかけてヴォルガ川中流域・・ヴォルガ・ブルガール王国の故地・・を支配したテュルク系イスラム王朝。ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の継承国家のひとつで、国名は首都はカザンに置いたことに由来する。・・・
 国内ではモスクワ大公国を支持する親モスクワ派とクリミア・ハン国を支持する親クリミア派の対立が続いた。・・・
 カザンがクリミアの影響下に入った後、カザンとモスクワの関係は悪化し、1534年から1545年にかけてカザンは毎年ロシア東部・北東部の国境地帯に侵入した。・・・
 モスクワ大公イヴァン4世はカザンの征服を決意<し、>・・・3度のカザン遠征を実施し、1552年夏の4度目の遠征でカザンはモスクワに征服される。8月23日にカザンは包囲を受け、10月2日に陥落、篭城していた男子は全員殺害され、婦女子は捕虜とされる(カザン包囲戦)。カザンからタタール人は追放され、17世紀半ばまでカザンはロシア人の町となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%B6%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%B3%E5%9B%BD

 しかし、やはり、モスクワが何らかの形でカザンに従属していたかと言えば、そうも言い難いところです。」(99~101)

⇒カザン・カン国がクリミア・カン国の影響下に入った後のロシアへの累次の侵攻は、事実上、クリミア・カン国による侵攻と言ってよく、その限りにおいて、やはり、著者の主張は成り立ち得ないと私は考えます
 なお、カザン征服後の男子の全員殺害は、モンゴルによる、全員殺害
https://en.wikipedia.org/wiki/Mongol_Empire
よりは一見「文明的」であったけれど、同一「民族」に対してはチンギス・カンも全員はもとより男子全員殺害も行なわなかった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%AE%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%B3
ことを踏まえれば、異なった「民族」の町の男子だけの全員殺害は、モスクワ大公国のモンゴル「文化」継受の一つの表れである、と言っていいでしょうね。(太田)

(続く)