太田述正コラム#13608(2023.7.16)
<宮野裕『「ロシア」は、いかにして生まれたか』を読む(その25)>(2023.10.11公開)

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 「・・・一般に国の集権化はほかのヨーロッパ諸国でもこの15世から16世紀に生じたところです。
 では特にイヴァン3世に始まるロシアの君主権が強い点は何に由来するのでしょうか。・・・
 モンゴルの侵攻以前のルーシの君主の権力は、侵攻後ほど強大ではありませんでした。・・・
 侵攻前は、公はその側近の従士たちと距離が近く、従士と共同で生活し、遠征では共同で戦うこともありました。
 公は従士たちの第一人者でした。・・・
 しかしイヴァン3世はそのあり方を<前述のように>大きく変えました。・・・
 従士団的共同体の伝統は崩れました。
 君主と臣下との共同体的な関係は、土地を介した明白な主従関係(与える者と与えられる者との関係)に代わり、それも最終的には君主への勤務を条件に与えられる土地(封地)を介した関係にさらに変わっていきました。
 
⇒最後のセンテンスの前半と後半は同じことでは?
 いずれにせよ、この限りにおいては、西欧中世の封建的主従関係
https://www.y-history.net/appendix/wh0601-142.html
と変わりはありません。(太田)

 加えて君主は、臣下に失寵(「君主の怒り」)を言い渡して、明確な理由や罪状を告げることなく宮廷官職を取り上げたり、その所領を没収したり、場合によってはその者を処刑することもできました。

⇒西欧中世の封建的主従関係においては、「家臣は一方的に主君に対して従軍などの義務を負うのではなく、主君も家臣を保護するという義務を負っている。家臣は主君が十分自己を保護することが出来ないと考えれば、契約を解除することも出来る。契約がある以上、双方ともその義務を守る誠意を持たなければならない。またその関係は一対一ではなく、一人の家臣が複数の主君と契約することもあり得た。日本の「家臣は二君にまみえず」というのとはちがい、ドライな契約関係であった。」(上掲)のですから、これは、西欧のそれとも日本のそれとも異なります。
 (厳密に言えば、イギリスの「封建」は西欧のそれとは異なります(コラム#省略)が、立ち入りません。また、支那の西周時代の「封建」にも立ち入りません。)(太田)

 失寵言い渡しの頻度はイヴァン3世治世の後半期に増していきます。・・・
 第一の原因<は、>・・・分割相続制度が北東ルーシの貴族、そして諸公をも貧窮化させたことです。・・・
 このなけなしの土地の多くは、さまざまな形で最終的に大修道院の手中に落ち、そこから戻ることはほとんどありませんでした。
 こうして修道院が貴族や諸公に代わって異様なくらいに(全土の三分の一)発達したのが北東ルーシの特色です。
 さらに地域的特性です。
 寒冷地でありかつ肥沃な土地が少ない(リャザン以南はステップ)北東ルーシでは荘園所領の農業生産効率は低かったのです。・・・
 その領主は困窮化し、最終的には大公への宮廷・軍事勤務を通じて土地を新たに獲得することで生き残ることができました。
 ただ、領土拡大に伴って新規の宮廷勤務者が増えると、古参の貴族や旧諸公出身者のなかにはそれによって零落する者も多く生じていきます。
 これでは、団結して君主に対抗するという発想自体が生じにくかったように思われるのです。・・・
 そして君主権力の強大化のもう一つの根源は、教会による大公権力への支援でしょう。
 正教会は1448年の自治教会の形成、53年のビザンツ帝国の滅亡、58年から59年のリトアニア大公国内の管区の喪失に伴い、徐々にモスクワの大公権力に依存せざるを得なくなっていきます。
 やや単純化して言うならば、大公の「イエスマン」のごとき府主教も現れていきます。
 加えて、こうした世俗権力への「従属」を最終的には是とする修道院長ヨシフ・ヴォロツキー<(注46)>のような論者も現れ、16世紀に向かって教会は、大公権力を称えて持ち上げることで大きな役目を果たしました。・・・

 (注46)聖イオシフ・ヴォロツキイ(1439~1515年)
https://www.weblio.jp/content/%E5%8D%81%E5%AD%97%E6%9E%B6%E6%8C%99%E6%A0%84%E7%A5%AD%E3%82%92%E8%A8%98%E6%86%B6%E3%81%99%E3%82%8B%E8%81%96%E5%A0%82%E3%83%BB%E4%BF%AE%E9%81%93%E9%99%A2%E3%83%BB%E9%96%A2%E9%80%A3%E8%A8%98%E5%BF%B5%E6%97%A5?dictCode=WKPKM

 大公権力は、教会の協力のもとでその権威(及び権力も)を強化していきます。
 こうして互いに支え合いながら、物質的にも思想的にも人々の高みに立つ専制権力の萌芽ができあがっていくことになりました。」(112~116)

⇒著者が、「1467年、・・・イヴァン3世は東ローマ帝国最後の皇帝コンスタンティノス11世の姪ソフィア(ゾエ・パレオロギナ)を妻として迎え、ローマ帝国の継承者であることを宣言した。・・・
 イヴァン3世は初めて「ツァーリ」(皇帝)の称号を名乗った君主であり、双頭の鷲の紋章がモスクワ大公の紋章に加えられた。
 モスクワ大公の征服活動の中でノヴゴロド大主教は明確にモスクワ府主教の下に位置付けられることとなり、カトリック国リトアニアとモスクワの狭間で揺れ動いてきたプスコフの正教会世界への編入がほぼ確定され、大半の東スラヴの正教会世界のヒエラルキーが整理された。
 この時代、プスコフ近郊の修道士フィロフェイが、書簡中で「モスクワは第三のローマである」と言及している。モスクワに事実上完全に屈服させられたプスコフ人がこのような文言を述べたのは聊か奇異に映るが、当時、「世界創造紀元」で7000年にあたったのが1492年であり、一種の世紀末的な思想が流布していたことも「第三のローマ論」の背景にあると思われる。<1453年の>コンスタンティノープルの陥落とリトアニアの脅威を前に終末思想を伴った当時のロシアに精神的な緊張があったことは、モスクワによる権力統一への機運が高まったことの背景として指摘されることがある。「モスクワは第三のローマである」という言葉は、東ローマ帝国滅亡後の正教会世界にあって唯一の独立国となったロシアの、正教の守護者としての自負を示すものとして流布していく。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E6%AD%A3%E6%95%99%E4%BC%9A%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%97%E3%83%AB%E3%81%AE%E9%99%A5%E8%90%BD (<>内)
という背景的史実を端折っているのは残念です。(太田)

(続く)
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