太田述正コラム#13632(2023.7.28)
<松下憲一『中華を生んだ遊牧民–鮮卑拓跋の歴史』を読む(その3)>(2023.10.23公開)

 「秦の始皇帝は中国を統一すると、蒙恬を派遣してオルドス(現在の内モンゴル自治区の一部。黄河の湾曲部の内側で、戦国秦の長城と黄河に囲まれた地域)にいた匈奴をうって黄河の北に追いやった。
 そのうえで再び匈奴がオルドスに南下してこないように長城を築き、戦国の燕・趙が築いた長城と長城とつなげて万里の長城とした。
 この万里の長城の内と外が、中かと夷狄、濃厚と遊牧を分ける境界線となり、以後、万里の長城の内側が中国=中華であるという認識がうまれた。

⇒例えば、中華思想のウィキペディアには、万里の長城への言及などない、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E6%80%9D%E6%83%B3
ということからも、著者に、この記述に典拠を付して欲しかったところです。(太田)

 秦のあと漢が400年間にわたって中国を統治すると、中国に住む人を漢人、中国の外に住む匈奴を胡人と呼ぶようになった。
 その後、北方の遊牧民をはじめとする異邦人を胡人とか胡族と呼ぶようになった。

⇒著者は、「中国の外」という表現を、を万里の長城の外、の意味で使っているようですが、「胡人」が広く塞外民族をあらわす言葉になったのは唐時代であるとする見解がある
https://kotobank.jp/word/%E8%83%A1%E4%BA%BA-64843
以上、ここでも、著者には、記述に典拠を付して欲しかったところです。(太田)

 しかしもともと万里の長城の内側にも遊牧民が住んでいたように、黄河領域は、遊牧民と農耕民が混在する世界であった。
 したがって長城を守備する能力が漢民族側になければ、遊牧民は長城を越えて南下し、黄河流域の華北はあっという間に遊牧民の支配する世界になる。
 中国の歴史のなかで、しばしば遊牧民が華北を支配する状況が発生したが、その理由は、華北が遊牧世界の一部だからである。

⇒商(殷)の時代はそうではなかった、という新説が現れている現在、私ならば、いつからそうなったかを追究したと思うのですが・・。(太田)

 近年では、この遊牧と農耕の接する地域(農牧接壌地帯とか農牧境界地帯と呼ばれる)が、中国の歴史を動かす発信地になっていたとして注目が集まっている・・・。<(注8)>」(18~19)

(注8)「「シルクロード史観」批判の代表的な成果が、1977年に刊行されたの間野英二氏による『中央アジアの歴史』です。『バーブル・ナーマ』や『ターリーヒ・ラシーディー』といった16世紀に中央アジアで書かれた史書の精読を基に、間野氏はこうした史料には「シルクロード」がイメージさせる東西交通や<支那>のことはほとんど書かれていないという事実を指摘し、その重要性を過度に強調することを疑問視します。そして、中央アジア史の基本は東西交通よりも、中央アジア南部のオアシス定住民と北部の遊牧民との南北の関係にあると主張したのです。賛否両論を巻き起こした間野氏の議論をもっとも正面から批判したのが護雅夫氏でした。彼は1984年刊行の『草原とオアシスの人々』において、間野氏の史料読解を批判。ある時代の人々にとって日常茶飯事であった事柄が必ず記録されるわけではなく、現地の史料に書かれていないから東西交通が重要でなかったとは言えないと反論します。そうしたうえで、中央アジアは四方八方に開けた土地であり、東西関係と南北関係との複雑な絡み合いを考察すべきと主張したのです。・・・
 では、どうやって「東西関係と南北関係との複雑な絡み合い」を考察すれば良いのか?その鍵と<なる・・・のが、妹尾達彦氏が近著『グローバル・ヒストリー』などでその意義を強調する「北緯40度線」です。この緯度線を中心にユーラシア大陸では、森安孝夫氏が「農牧接壌地帯(agro-pastoral ecotone)」・・・と表現する遊牧民と農耕民の交わる帯がその東西に広がっています。この遊牧民と農耕民の「接点」こそが、前近代ユーラシア史のダイナミズムを生み出してきたコアなのです。例えば東方ユーラシアの文脈で言えば、この地は、五胡から隋・唐へと続く拓跋国家や五代沙陀王朝や遼・西夏など「征服王朝」揺籃の地。同時に、この北緯40度線は歴史の生まれる場所でもありました。東西ユーラシアにおける歴史の父であるヘロドトスと司馬遷はいずれも、その史書のなかでスキタイとペルシア、匈奴と漢王朝のように、農牧接壌地帯で角逐する二大勢力を描いています。
 農牧接壌地帯を押さえた遊牧部族は既存の軍事力に加えて交易や農耕からの恩恵も取り込み、強盛となっていきます。「遊牧帝国(Steppe Empires)」の誕生です。ユーラシアの遊牧帝国には核となる要素があると。杉山正明氏はそれを以下の3点にまとめます。
1 軍事・政治・社会組織を貫く十進法。
2 南面して左・中・右となる左右両翼体制。
3 領民・分地を従える王たちから成る連合権力体であり、多元・多種族のハイブリッドな国家。
 「シルクロード」を語るには、点と点のオアシスの間をつなぐ隊商のほか、面で生きる遊牧民を見逃すことはできません。その遊牧民たちが単一の政権のもとに統合されることは、オアシス都市にとって安全な商圏の出現を意味していました。遊牧民の軍事権力とオアシス民の経済力、その相互補完的共生こそが「遊牧帝国」の実態なのです。
 モンゴル前夜までのユーラシア史は、北緯40度線付近に広がる「農牧接壌地帯」に沿う遊牧民の移動と、その地域における遊牧民と定住民との相互連環に規定される部分が大きかったワケです。
 <さて、>・・・「シルクロードとは何か?」。答えて曰く。シルクロードとは『歴史の帯』である。
 イマニュエル・ウォーラーステイン氏は自らの世界システムのなかで近代世界を中心と周縁(と半周縁)で表現しました。一方で前近代ユーラシア史は、「シルクロード」たるこの「歴史の帯」の波打ちで表現できる、というのが僕の考えです。モンゴル帝国の意義は——師匠ミハル・ビラン氏の受け売りですが——この「歴史の帯」をより北方にシフトさせ、草原の道を機能させたことにあります。<支那>は開封から大都/北京へ、西アジアはバグダードからタブリーズへ、ロシア平原はキエフからサライを経てモスクワへ、そして中央アジアはバラサグンからアルマリクへ。いずれも政治商業の中心を従来のものよりも北にシフトさせました。それを可能にしたのが「馬と水」です。」諫早庸一(注9)「遊牧民の世界史——モンゴル前夜まで」より)
https://researchmap.jp/blogs/blog_entries/view/111314/08f72f490a9c1fe43e0c92b851796d85?frame_id=644859

 (注9)いさはやよういち(?年~)。神戸大人文(東洋史)卒、同大院修士、博士課程中退、東大殷博士課程単位取得退学、同大国際哲学センター、同大総合文化研究科、テヘラン大、ロンドン大「留学」を経て、東大東洋文化研究所、ヘブライ大、立大、を経て、現在北大スラブ・ユーラシア研究センター助教。専門はモンゴル帝国史。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%AB%E6%97%A9%E5%BA%B8%E4%B8%80

⇒この辺りは、私にとっても啓蒙的です。(太田)

(続く)