太田述正コラム#13654(2023.8.8)
<松下憲一『中華を生んだ遊牧民–鮮卑拓跋の歴史』を読む(その14)>(2023.11.3公開)

「・・・胡語の禁止とは、朝廷での使用言語を漢語(・・・洛陽方言)に統一したのであり、北魏における胡語の全面的禁止をいうのではない。・・・
 洛陽遷都前の北魏政権の中枢部における胡族と漢族の平均比率は8対2。
 一方、洛陽遷都後の平均比率は6対4となっている。・・・
陰山<(注39)>(大青山)の北に広がる草原に、429年、高車<(注40)>が移された。

 (注39)「<支那>北部の内モンゴル自治区(一部は河北省)にある山脈である。・・・黄河屈曲部北端の北側に、黄河に沿って東西に走る。南側に急峻な断層崖があり北斜面は緩い傾動地塊である。北側はゴビ砂漠に続く山脈でハンギン後旗狼山から始まり、東西1200km、南北の幅50km~100kmにわたる。山脈の平均標高は1500mから2300mである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B0%E5%B1%B1%E5%B1%B1%E8%84%88
 (注40)「5世紀頃に活動したトルコ系遊牧民で・・・<支那>史書には「高車丁零」として出てくる。おそらく「高車という丁零(テュルク)」の意味で、高大な車両を用いたことから高車といわれたらしい。モンゴル高原を支配した柔然に従っていたが、柔然が北魏に圧迫されるとその支配から脱し、西方に移動してタクラマカンのオアシス国家高昌の北方、天山山脈の北麓のジュンガル盆地に入り、485~6年に建国した。柔然とは対抗し、北魏とは通交した。トルコ系民族の西方への進出がここから始まったらしく、次の隋唐時代の中国史料ではトルコ民族はより広い範囲に広がり、「鉄勒」として現れてくる。6世紀になると同じトルコ系の突厥が有力となり、高車などのトルコ系(鉄勒)も併合される。」
https://www.y-history.net/appendix/wh0402-003_2.html 

⇒現在の中共の一帯一路
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%B8%AF%E4%B8%80%E8%B7%AF
政策の発想の根底には「注40」の事実があるのではなかろうか。(太田)

 その高車をブロックごとに管理するために設置された行政区が鎮<(注41)>のはじまりである。・・・

 (注41)「北魏は建国当初は各地に数十の鎮をもうけていたが、孝文帝の即位までに六鎮を除く大部分は州や郡に変えられていた。六鎮は都の平城(現在の山西省大同市平城区)の北方の至近距離におかれ、ほぼ北緯41度線上で東西に並ぶ。
 北魏は、自らと同じ北方の民族の侵入を防ぐために生命線ともいうべき北方の守りを重要視し、鮮卑や匈奴の有力豪族を選びさらに漢族を加えて、六鎮に代表される北方警備の鎮民として移住させる政策をとった。鎮民たちは望族(名族)としての特権を与えられていた。
 しかしながら、孝文帝の漢化政策によって都が平城より洛陽に遷都されると、これらの北方の鎮民は、次第に冷遇されるようになっていった。やがて、「府戸」という出世の見込みを断たれた戸に編制され、中央から赴任してきた長官である都大将に搾取される身になり、一挙に不平不満が増大することとなった。・・・
 六鎮の有力者のうち、六鎮の乱を経て、北魏の滅亡の過程で権力中枢に登りつめた者が続出した。東魏の実権を掌握し北斉の基となった高歓は懐朔鎮の出身であり、当初は反乱軍側に与したものの途中で朝廷軍の爾朱栄の下に鞍替えし、爾朱栄の死後は爾朱一族を滅ぼして権力を得た。また、武川鎮出身の有力者は、武川鎮軍閥と呼ばれ、西魏・北周・隋から唐に至る変遷の中で、各王朝の中核となる権力集団として君臨した。北周の宇文泰・隋の楊堅・唐の李淵といった各王朝の創始者はいずれも武川鎮の有力者一族の出身である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E9%8E%AE%E3%81%AE%E4%B9%B1

 <この>もともと高車が居住していた六鎮に、文成帝の和平年間(460~465年)、畿内(雲代地区)に住む代人(だいじん)が移された。
 このなかには北朝から隋唐にかけて活躍する人たちの祖先も含まれていた。・・・
 このほかに・・・漢人豪族の子弟も含まれる。・・・
 また文成帝以降、犯罪者の流刑先として六鎮があてられたため、六鎮社会には犯罪者も含まれるようになり、そのことがのちに六鎮の評価を下げる一因ともなった。・・・
 都が平城にあったころ、六鎮は都を守る重要な位置にあ<ったが、>・・・遷都後は、・・・対南朝の意識が高ま<り、>・・・宗室ではなく凡庸なものが鎮都大将として贈られるようになった。・・・
 鎮民は鎮将に搾取され、その結果、もはや犯罪者でない限り、六鎮に望んで住むものはいなくなったと言われるほどに、六鎮の評価が下がってしまった。

⇒北魏の領域内で、様々な要素の相乗効果もあり、最も弥生性が維持されたのが六鎮であった、と、言えそうですね。
 他方、それ以外の地では、漢人の影響化で脱弥生性が進捗して行った、と。(太田)

 こうしたなか、洛陽と六鎮において、のちの大規模な反乱につながる事件がおきる。
 羽林の変と懐荒鎮民の反乱である。」(147、151、181~183)

(続く)