太田述正コラム#13664(2023.8.13)
<森部豊『唐–東ユーラシアの大帝国』を読む(その2)>(2023.11.8公開)

 「・・・中国史<における>・・・南北朝時代<は、>・・・実際にはモンゴリアに遊牧民族の柔然<>があり、東ユーラシア全域で見た場合、三勢力が並立する、いわば「三国時代」というべき形勢であった。・・・

⇒柔然は、建国が402年で滅亡が555年である
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%94%E7%84%B6
一方で、南北朝時代は、「北魏が華北を統一した439年から始まり、隋が中国を再び統一する589年まで、中国の南北に王朝が並立していた時期を指す」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%9C%9D%E6%99%82%E4%BB%A3_(%E4%B8%AD%E5%9B%BD)
ことから、確かに、著者のような見方もできそうです。(太田)

 内藤湖南<(コラム#11814)>以来、魏晋南北朝時代から隋唐までを「貴族」制の時代としてとらえるのが、日本の中国史家の見方である。・・・
 中国の「貴族」は、もともとは彼らの住んでいた地域社会で名望をえてリーダーとなり、また中国古典文化の教養を身につけ、九品官人法<(コラム#13644)>によって中央政府の官僚になった者たちをいう。・・・
 やがてそれが、その家の既得権になっていった。
 そして、しだいにその家の格づけが固まっていき、門閥となっていった。
 南朝には、中国古典文化の継承者を自認する江南門閥<(注2)>が、また北朝では、西晋がほろんだときに南へ行かなかった漢人の有力者(山東門閥<(注3)>)がいた。

 (注2)「東晋を支えたのは、・・・西晋<の>・・・王族の・・・司馬睿とともに華北から移動してきた王導などの門閥貴族であったが、彼らは江南の土着の豪族と融和を図る必要があった。江南の豪族も晋の皇帝の一族司馬氏を迎えてその権威に服従することで、利害が一致し、当初は比較的安定した政治が行われた。」
https://www.y-history.net/appendix/wh0301-028.html
 (注3)「華北に残留し五胡の支配下に降った漢人貴族もいました。
 この残留した漢人貴族が山東門閥(山東貴族)の先祖です。彼らは異民族の浸入による混乱と分裂の華北で、その異民族の支配下に甘んじ、地方官職などにつき、漢人を統治していましたが、華北が北魏に統一されると、漢化政策が始まる前後から、その中央政府に出仕する者も現れます。北魏・太武帝に仕え司徒にまで登った崔浩(清河崔氏)などはその代表的人物です。
 その後、北魏の分裂に伴い、山東貴族は東魏→北斉に仕えます。北魏、東魏、北斉は共に王室は鮮卑系なのですが、この中で山東貴族は鮮卑の貴族(元々は漠北の部族長)を差し置いて最高の家格とされました。
 これには府兵制が深く関わっていたとされています。つまり、王朝の皇帝は元々の出身が北方の騎馬民族でも、中国(中原)で帝位に着くと中央集権を目指し、それまで同格(多くの北方遊牧民の指導者は部族連合体の長でしかない)であった同じ部族長らの武力を当てにしないで済むように自身が直接指揮権を持つ(将軍の任命権を持つ)政府軍(府兵)を持ちたがった事が原因です。
 漢族の府兵を組織できたら、遊牧貴族は不要になり、漢人貴族(この場合は山東貴族)が最も扱いやすかったんですね。
 山東貴族が仕えた北斉は西魏→西周から譲りを受けた隋に滅ぼされてしまいますが、隋・唐で支配者層を形成した関隴貴族より家格は山東貴族が上と目されているようでした(『貞観氏族志』参照)。
 その後、自身も関隴貴族の末端にありながら、その関隴集団よりの支持を期待できない則天武后により、山東貴族は取り立てられ盛唐から中唐、末唐にいたるまでおおいに栄えました。」
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10103154995 ←執筆者不詳
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%B4%E6%97%8F_(%E4%B8%AD%E5%9B%BD) ←でチェックしたところ上掲は基本的に信頼がおけそう。
 「武川鎮軍閥(ぶせんちんぐんばつ)・・・ともいう<が、>・・・北朝時代の西魏・北周、および隋・唐の支配層を形成していた集団のことである。・・・
 武川鎮とは北魏前期の首都の平城を北の柔然から防衛する役割を持っていた6つの鎮のうちの一つのことである。北魏では各国境に匈奴・鮮卑系の名族を移り住ませ(鎮民)、その上に鎮将を置き、彼らに当地の軍政を行わせ、防衛を行っていた。他の地域の鎮は北魏の中央集権化が進むと共に廃止されるが、六鎮のみはそのまま残され、ここの鎮民たちは選民として特別待遇を受けていた。
 しかし北魏の漢化政策が進むにつれてこの六鎮の地位も下落し、孝文帝により洛陽に遷都されたことで、六鎮はほとんど流刑地同然になった。この待遇に対し六鎮では不満を抱く者たちが続出し、六鎮の乱が起こると北魏は大混乱に陥る。
 六鎮の乱は爾朱栄により収められるが、北魏の混乱はそれだけでは終わらずに軍閥の割拠状態となる。この戦乱を勝ち抜いたのが、六鎮の一つ懐朔鎮出身の高歓と武川鎮出身の宇文泰である。高歓と宇文泰はそれぞれ皇帝を擁立し、北魏は高歓の東魏と宇文泰の西魏に分裂する。宇文泰は武川鎮出身の者たちを集めて軍団を作り、西魏の支配集団を武川鎮出身の者で固めた。西魏の支配地は現在の陝西省と甘粛省であったので、このことから武川鎮軍閥のことを関隴集団(関隴貴族集団)とも呼んでいる。関は関中(陝西省)のことで、隴は隴西(甘粛省南東部)のことである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%B7%9D%E9%8E%AE%E8%BB%8D%E9%96%A5

 彼らの地位は、皇帝からあたえられたものではなく、またその家柄は皇帝家をしのぎ、政治的に独立していた。
 魏晋南北朝の時代、王朝がつぎつぎと交代しても、門閥たちは王朝の興亡をこえて、存続しつづけたのである。
 唐朝を、こうした貴族制社会の最終段階としてとらえる見方がある。」(13、15~16)

⇒内藤湖南のプロト日本文明無視の歪な日本史観を批判したことがあります(コラム#11814)が、彼の貴族制論の当否についてもいずれ取り上げるとして、「内藤湖南・・・<の>宋代<は近世であったとする>説・・・は、<宋が>同時期の世界各地に比べはるかに先進的で、高度に発達した輝かしい文明を有していた<ところ、>これは今から一千年近く前の中国であり、まさにこの早熟すぎた文明のために、現在の政治腐敗、経済的貧弱を誘発し、出口を求めて奔走する中国、これこそが今の中国なのである<、とする>・・・考え方」
https://spc.jst.go.jp/experiences/change/change_1406.html
は、近世を中世と近代の間に置くところの、欧州史からの借り物の概念で支那史を描写しようとした点で、この欧州史の時代区分が、私見では最初から近代であったところの、いわば歴史のないイギリスを仰ぎ見、イギリス化を近代化と韜晦した結果生まれた苦肉の産物だからである(コラム#省略)ことに鑑み、ナンセンスであり、「内藤は、ベトナム、朝鮮、日本という中国周辺の国家は皆、中国から派生した中国文化の支流であるとの立場をとって<いて、>・・・「豆乳はたしかに豆腐になる性質を持つが、そこに凝固剤を入れなければ、豆腐にはならない。日本文化は豆乳であり、中国文化はそれを豆腐に変えるにがりである。別な例を挙げるなら、子供は生まれつき知識を吸収しようとする能力を持つが、子供に正しい知識を教えるためには、年長者の指導が欠かせない」と・・・述べて」いて(上掲)、日本が、支那とは全く文明を異にしているとの認識を持っていないのですから絶句させられる、という次第であり、内藤の貴族制論についても、眉唾でいる必要がありそうです。(太田)

(続く)