太田述正コラム#13682(2023.8.22)
<森部豊『唐–東ユーラシアの大帝国』を読む(その11)>(2023.11.17公開)

 「・・・690年・・・、武皇太后は皇帝に即位した。・・・
 武一族は姫姓であり、周の武王の末裔であるというので、国号を「周」とした。・・・
 中国史上、唯一無二の女性皇帝の誕生であり、これを武周革命という。・・・
 武則天は、即位後、ただちに全国の州ごとに大雲寺をおいた。
 そして、各寺に自分の皇帝即位の理論的よりどころとなった『大雲経』<(注23)>をおき、この新しい仏典を説経させることにより、女帝出現の必然性を宣伝していった。・・・

 (注23)「<支那>,北涼の曇無讖(どんむしん)によって漢訳された《大方等無想大雲経》6巻の略称。国王の仏教保護を説くこの仏典には,浄光天女が王位をつぐ,という一節があった。唐の則天武后の愛人,薛懐義(せつかいぎ)は,洛陽の僧法明ら9人と共同で,この経に付会した讖文をつくり,〈太后は弥勒仏の下生なり,まさに唐に代わって帝位に即くべし〉と宣伝し,689年・・・7月にはこの経を全国にわかち,いわゆる武周革命の端緒を開いた。」
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E9%9B%B2%E7%B5%8C-1181599

 すでに用済みになったと思ったのか、武則天は薛懐義<(注24)>をとらえなぐり殺させた(695年)。」(115~117)

 (注24)?~ 695年。「元来は洛陽で売薬を生業とする力士であったが、たまたま千金公主を通して武則天に知られるようになり、その寵愛を受けた。武后の奨めによって出家して僧となり、女婿の薛紹の族籍に編入したことから、薛氏を名乗るようになった。
 垂拱年間(685年 – 688年)に洛陽の白馬寺の寺主となった。武后の寵を受けた薛懐義の威勢は凄まじく、武氏一門の者でも媚び諂ったという。
 688年・・・、反対勢力を制圧した武后の栄誉を祝して巨大な明堂を建てた。また、武后を仏の転生であると説く大雲経を偽作し、全国の大雲経寺に頒布した。
 その後、武后の寵が侍医の沈南璆に移ると、薛懐義は明堂に放火して抵抗の意志を表したが、侍御史の周矩によって誣告され、太平公主によって殺害された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%9B%E6%87%90%E7%BE%A9
 「太平公主<(665~713年)>は、母は武則天(則天武后)。同母兄は中宗・睿宗。・・・
 ・・・681年・・・、薛紹(城陽公主の子で従兄弟にあたる)に嫁して二男二女を生んだものの、夫は皇族の李沖(越王李貞の子)の謀叛に連座して捕らえられ獄死した。続いて・・・690年・・・、武照が伯父の武士譲の孫の武攸曁(武懐運(名は弘度)の子)の妻を処刑し、太平公主は武攸曁に再嫁して二男二女を生んだ。
 病気がちな高宗に代わって母の武則天が垂簾政治を執り始めると、その相談役として武則天政権の一翼を担う。武則天が皇帝に即位して武周を建てた後、公主も母の側近として隠然たる勢力を持った。武則天が病に倒れ<る>と、その愛人であった張易之・張昌宗兄弟が専横を極めたため、・・・705年・・・、張兄弟を倒し、兄の中宗を即位させることに成功し、皇族中の重要人物として名を高める。・・・
 その後、宰相の張柬之により武則天は退位し、天下は唐王朝に復するが、張兄弟と組んでいた従兄弟の武三思が張柬之を失脚させ、安楽公主(中宗と韋皇后の娘)と結び、・・・710年・・・、不倫の暴露を恐れた安楽公主が韋后と組んで中宗を毒殺した。「第二の武則天」となるべく韋后が温王李重茂(殤帝)を擁立して傀儡としたのを危ぶみ、甥の李隆基(後の玄宗)と謀り、韋后・安楽公主とその一族をことごとく誅殺して、李隆基の父の相王李旦(睿宗)を即位させた。ここに皇妹として太平公主の権勢は頂点に達し、万戸の封を与えられ、所生の男子3人もそれぞれ王に封ぜられ、一族も高位高官を占めた。一方、宰相の姚崇・張説を左遷させるなど専権を極めるが、これらのことにより、次第に皇太子の李隆基と対立を深めていくこととなる。
 ・・・712年・・・、睿宗が皇太子の李隆基に譲位すると、皇帝(玄宗)と公主の対立は激化した。公主は英明な玄宗の廃立を謀るが、陰謀が露顕する。・・・713年・・・7月、皇帝自ら兵300余を率いて公主一派を倒し、公主に死を賜った(終生、禁固を受けた説もある)。以後、玄宗の親政体制が確立し、「開元の治」と呼ばれる唐朝の最盛期につながっていく。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E5%85%AC%E4%B8%BB

⇒太宗亡き後の唐の宗室とその取巻きの人々には、少数の無能と多数の悪党しかいない、という感じですね。
 遣唐使等を通じて唐の状況を詳細にほぼリアルタイムで把握していた当時の日本の朝廷の人々は、さぞかし、嫌悪の念をもって唐を観察していたことでしょう。(太田)

(続く)